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斉藤さんの乱

作者: 天川 七

 勤務時間が始まるまで時間があったオレ、和木知樹わぎともきは給水所で紙コップにコーヒーを入れていた。ふと、給水所の上の棚に貼られたポスターが目に入る。最近社内の壁のいたるところで見かけるそれには、『目指せ! ホワイト認定!』という黄色い文字が燃え盛る炎の中に躍っていた。


 なんでも、パワハラだのセクハラだのを根絶し、よりクリーンな会社を目指すために国が最近試験的に導入したばかりの制度のようだ。これでなくなるのかは甚だ疑問である。オレはやれやれと首を振って気を取り直すと、紙カップに注いだコーヒーを手に自分のデスクに戻った。社内には社員の顔も増えてきている。オレはその様子を眺めながら、紙コップを啜った。




 朝礼が近づくと全員がデスクを離れて部屋の中央に集っていく。オレの所属するB部署の人数は総勢21名だ。前列と後列の二列に別れて、課長の前に立つと、渋い顔をした課長は重々しく口を開く。


「今日で斉藤君が退社する。最後の挨拶は本人の希望で社内放送によるものとなったそうだ。専務から朝礼で流れると言われたから、みんな聞いてあげくれ」


 オレ達B部署の社員にそんな言葉が伝えられる。斜め前の片付けられたデスクを見て、オレは内心やるせなさを感じた。退社するという彼女の名前は、斉藤燐子さいとうりんこと言って、三か月前に入社したばかりの新人社員だった。薄化粧に黒髪を後ろで一本にしばった彼女は真面目な性格のとても大人しい子で、いつも指示された仕事を一生懸命こなしていた。しかし、彼女が不運なのはB部署に若手の社員から密かにお局と呼ばれている宮下香みやしたかすみがいたことだろう。


 燐子は彼女に指導という名目で随分と仕事を押し付けられていたようだった。お局は入社二十五年の大ベテランで、若い社員は誰も逆らえない相手なだけに、目をつけられている彼女を気の毒に思いながらもオレ達は口を噤むことしか出来ないでいたのだ。いつも一人で残業している姿を見兼ねて、オレも何度かこっそりと手伝ってはいたのだが、やはり耐えかねたのか今回の早期退社となってしまったようだった。


 午前九時半、朝礼の音楽が天井近くに設置されたスピーカーから流れてくる。B部署の社員達はそれぞれ耳を傾ける姿勢を取る。


『本日はいつもの朝礼の前に、B部署を退社することになった斉藤君がこれまでのお礼を伝えたいということで、最後の挨拶を特別に流すことにした。──斉藤君、こちらに』


『──はい。B部署の皆さん、短い間でしたが大変お世話になりました。一人一人にお礼を伝えたい気持ちでいっぱいです。特に、先輩としてご指導くださいました、宮下香さん。入社したばかりの頃は挨拶がなっていないとお叱りを受けたこと。その翌日、こちらが挨拶した時には返して頂けなかったことも忘れてはいません。また、仕事が遅いのだからあれもしなさい、これもしなさいと指示を出すのに、ご自分は仕事をそっちのけで他の社員と話していたことも全て見ていました』


「なによこれ!」


 淡々と告げられた言葉に、唖然とする。B部署の社員達は名指しされたお局、香に目を向ける。彼女は怒りでどぎつい化粧の顔を真っ赤にしていた。ただでさえ上がり気味の眉がつりあがっている。


 その間も淡々とした彼女の言葉は社内に響いている。


『それから係長にもお世話になりました。何度もメールを頂き、そのお断りも何度したかわかりません。ご結婚されているにも関わらず、私と付き合いたい、付き合ってくれたら昇進させてあげる、などと言われてとても困りました』


「そ、そんなことはしていないぞ!」


 社員の視線がぱっと係長に向けられる。頭の禿げかけた係長は女好きで有名だったが、まさか自分の娘程も年の離れた彼女にまでアプローチをかけていたとは空いた口が塞がらない。慌てて否定しているが、真っ赤な顔に浮かぶ汗は隠せない。


『最後にお礼を伝えたいのは、武藤由加むとうゆかさんです。お酒は飲めないと何度も言ったのに強引に進めてくれてありがとうございました。後日は二日酔いで体調を崩して大変な思いをしましたよ。男性社員に対する絡み酒もアルコールハラスメントということを知っていますか?』


 また名指しされたのは、B部署ではおしゃべりで有名な由加だった。噂話を食って生きてるんじゃないかというほど、社内のゴシップに目がなく、酒乱でも知られている。新しく社員が入るとすぐに飲みに誘い根掘り葉掘りと情報収集に走り、その性格で同性からも男性からも距離を置かれている人だ。こちらも怒りで顔を赤くして、堪えるように俯いて拳を握っている。今にも暴れ出しそうな三人に凍りついた空気の中、独断場となっている燐子の声が締めに入った。


『以上が、私からの挨拶とさせていただきます。本当にお世話になりました』


 カタリと音がした後に声の主が変わる。


『……今、名前の出た三人はすぐに社長室まで来なさい。社長がお呼びだ』


 専務の低い声がそう告げた瞬間、赤い顔をしていた三人は一瞬で青くなった。




 あの爆弾放送は社内の間で『斎藤さんの乱』と名付けられた。あれからどうなったかというと、あの三人はもれなく、パワハラ、セクハラ、アルハラの社内規定違反と認定されて左遷や減給処分を受けて居づらくなったのだろう、自ら退社していったようだ。被害を受けていたオレ達平社員はアルコールのない純粋な食事会を開催し、大いに盛り上がった。退社した斎藤さんには申し訳ないことだが、おかげでB部署は随分と仕事がしやすくなったように思う。


 休日の昼間、オレは級友と久しぶりに宅飲みすることになり、その買出しに近くのスーパーに向かっていた。社内で企画したプレゼンが通り、大きな仕事の責任者に抜擢されたのでその祝も兼ねての酒盛りだった。雑居の中を気楽に歩いていると、通りの向こう側を歩く女性に目を引かれた。


 背中に茶髪を流した女は、肩に黒いバックを下げており、ばりばりのキャリアウーマンという装いだが、間違いない──燐子だ。別人のような姿に一瞬言葉を失ったものの、慌てて道を渡って彼女を呼び止める。


「斉藤さん!」


 驚いたように振り返った彼女は、相手がオレだと認めると柔らかく笑った。同じ会社に居た頃には見たことのない表情だったが、間違いなく彼女だ。


「あたしだってよくわかりましたね、和木さん」


「あれからずっとどうしているか気になっていたんだ。それが君の本当の姿なのか?」


「いいえ。この恰好も仕事の内なんですよ」


「仕事? オレにはよくわからないんだけど、どういうことなんだ?」


「……和木さんはあたしが残業させられた時に何度も助けてくれましたし、特別に教えてあげます。だけど、他の方には絶対に内緒ですよ?」


 彼女は口元に一差し指を立てて悪戯に笑うと、自分の正体を明かした。


「実はあたし、さまざまなハラスメントの調査を行う会社に所属しているんです。今世の中の流れとして、会社からハラスメントをなくそうという意識が高くなっていますよね? 国からもハラスメントがない会社にはホワイト認定書を与えようなんて制度が実施されていますし。ですから、その認定を与えてもらえるように、さまざまな会社の社長から事前にご依頼を受けて内部調査をする者としてあたしのような人間が派遣されているんです」


「じゃあ、あの三人が自主退社したのは……」


「選んだのは本人達ですが、あの三人を告発することは依頼主の依頼の一部だったんですよ。もともと会社の中で問題視されている人物にあえてあたし達という餌を与えて、ハラスメントを立証するわけです。もちろん、こちらからけしかけたりはしていませんよ。本人達が自分の意志で行った行為ですから。あたし達のお仕事は、会社の膿を吐き出すためのお手伝いというところでしょうね」


 にこやかに微笑む彼女の裏には、会社の社長の意志が働いていたのを知り、オレは驚きのあまりに束の間、言葉を失った。そして、ふと気付く。


「もしかして、オレが企画の責任者に抜擢されたのは君のおかげだったりするのかな?」


「それは和木さんが自分で掴んだんだと思いますよ。あたしは良いことも悪いことも包み隠さず調査内容として報告しただけですから。ハラスメントの加害者も、仕事を手助けしてくれた相手も。──じゃあ、和木さん、そろそろ失礼しますね。あたし、仕事中なので」


 明るい色の口紅が笑んで、オレを通り越していく。彼女の動きに合わせて波打つ髪に思わず手を伸ばしかけて、我に返って止める。足早に去っていく彼女の真っ直ぐな後ろ姿は堂々として美しいものだった。


「ははっ、すっかり騙された!」


 その演技に気持ちがいいほど騙されたオレは、思わず笑う。もう二度と会うことはないかもしれないが、彼女は間違いなく忘れられない人になりそうだ。





どんでん返しのある短編を書いてみよう! と思いついたので頑張ってみました。ハラスメントの種類の多さに戦きつつ書き上げたものですから、作中のホワイト認定などというものは実際には存在しません。そこだけはご注意を(笑) 読んでくれた方に、少しでも驚いてもらえたら嬉しいです。次回も違う小説でお会い出来れば幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 斉藤さん格好良い。 読みやすくてさらっと読了できた。 [気になる点] 面白かったから、もうちょっと話が膨らませて生々しく描写してほしかった。ちょっと物足りない。 [一言] 社会人って大変…
[一言] 内部告発された支店長(揉み消したらしい)に、呼び出された時は自分なら女性関係、備品の持ち帰りや私的使用を告発するはと、怒鳴り付けて野郎かと思いましたよ・・・。
[良い点] これは気分のいいざまあでした。 [一言] 仕事仲間の中だけだとなかなか言えないことってありますからね。たまにはこういう外部の目が必要だなって思いました。このオチまでのながれが好きなのでマッ…
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