其ノ弐【豆腐屋慎司と梅の草履】
近所の商店はどれも昔からの馴染みばかりで、その中の瀬戸物焼き継ぎ屋をしている伊原家へ梅は向かった。昨夜の夕食後、食器を下げていた梅は手を滑らせ、誤って平助の茶碗を割ってしまったのだ。
瀬戸物焼き継ぎ屋とは、割れた瀬戸物を修理する事を専門とした職業である。元々は接着剤の代用に漆を使い、破片を繋ぎ合わせる方法だったが、寛政年間の中期頃からはガラスを粉末状にした《ふのり》と呼ばれるものや、白玉粉が主流になった。粉を加熱して接着し、再度焼き直す方法である。
伊原家の暖簾を潜り店主を呼ぶと、奥から顎鬚を蓄えた体格の良い男が一人やってくる。五十代半ばであろうこの男こそが店主の伊原正吉だ。
「何だい、梅ちゃんじゃねえか。うちに来るなんざ久しぶりだな」
「うん、ちょっとやっちゃって」
これなんだけど、と梅は出掛けに持ってきていた巾着から割れた茶碗を出し、正吉に渡す。
「随分と綺麗に割れたなぁ」
「直る?」
「うん、これならすぐ終わるよ。だけど今さっき先客あってな、それがちょっと時間かかりそうなんだ。七つ半頃には終わると思うが」
「じゃあ、またそれぐらいに取りに来るよ」
「ああ、悪いね」
正吉に小さく頭を下げた梅はその足で豆腐屋へ移動した。
稲葉豆腐店の店先では息子の慎司が大きな声で老婆とやり取りをしている。稲葉家は中村家の近くに住み、子供の慎司は幼い頃から梅と共に育ってきた、いわゆる幼馴染である。そして慎司の両親も梅達三人を実の子供のように可愛がってくれていた。一家の大黒柱としてまだ半人前だった平助の手助けをし、新太と梅が悪い事をしたら本気で叱った。そんな稲葉家夫妻は中村三兄妹にとって親みたいなものである。
一方、慎司の向かいに立って話している老婆の名は《とよ》。とよは代金を支払って、慎司は釣り銭を用意すべく一度店内へ戻る。しかしその間にとよは踵を返し、その場を去ろうとしていた。
「ばーちゃん! 釣り!」
慎司が気付いた時には既に数歩離れた場所にいた。とよに聞こえるように、慎司はまた大きな声を出して呼び止める。なぜならとよは耳が遠く、最近少々痴呆気味なのだ。
「いつもすまないねぇ」
「いいってことよ!」
一見どこにでもいる老婆のとよだが、若い頃は日本舞踊の師範をしていた。そのせいもあってか、品があり、物腰も柔らかく近所の人気者である。子供達からも「とよばーちゃん」と慕われていて、それは梅も慎司も同様の事だった。
「とよさん、こんにちは。とよさんも豆腐買いに来たの?」
慎司がとよに釣り銭を渡していたちょうどその頃、稲葉豆腐店に到着した梅は二人の姿が視界に入り声を掛けた。
「ええ、そうだよ。豆腐はここのが一番美味しいからね。梅ちゃんの家も今晩は豆腐かい?」
「そうみたい。最近肌寒いから湯豆腐にするんだって」
まだ昼前だが、昼食後の妻達の井戸端会議のような光景になりそうなところで慎司が割って入る。
「ばーちゃん時間いいのか? 孫が遊びに来るんだろ?」
「ああ、そうだった。じゃあ梅ちゃん、慎司君、またね」
「うん、またね!」
初対面の人間から見ても、きっとこの老婆は心優しい人なのだろう。そう思える程の笑顔を振り撒き、とよはゆったりとした足で二人の前を後にした。梅はとよの背中を見送った後、慎司の方に振り返る。
「で、今晩湯豆腐なんだけど、いいのある?」
「それなら今日は上玉があるぜ」
今朝いい豆が入ったから腕によりをかけて作った、と腕組をしながら自慢気に答える。しかし梅は
「慎司が作ったの? 食べれるの?」
まるで疑うかのような視線を慎司に送った。
「お前にだけは言われたくねーな」
「あはは、冗談だよ。最近また一段と上手くなったもんね」
「当然だろ。毎日親父の手ほどき受けてんだ。不味いわけねーよ」
言いながら慎司は水槽に手を入れ、朝早くから起きて作り上げた自慢の豆腐に手を伸ばした。
「でもおじさんの味を超えるのはまだまだ先だね」
「うるせえな。いいんだよそのうち追い抜くから」
大きな水槽から小さな桶に移された豆腐は、水音を立てながら愉快に揺れている。代金を支払い、梅は豆腐の入った桶を二つ重ねて持ち上げた。
「気をつけろよ」
「うん。ありがとね」
店の奥で仕事をしていた慎司の両親に軽く会釈をして、梅は帰路に着く。
途中、近所の子供達とすれ違った。町内を元気に駆け回る小さな少年少女は、まるで幼き日の梅と慎司、そして雪之助のようだ。この子供達も、自分達がよく遊んだ大きな広場へ向かうのだろう、そう思うと何だか懐かしくなった。
しかしそんな梅の胸中を知らず、足元の草履はきしきしと厭な音を立てている。それはとても小さく、まだ梅の耳に届く事はなかった。
「お姉ちゃんどいて!」
角を曲がればもうすぐ我が家に辿り着くといったところで、脇道から聞こえた子供の声。それは五才くらいの女の子で、さっきの子供達と鬼ごっこでもしていたのだろうか。梅はぶつからないようにと咄嗟に体を捻る。しかしそれがいけなかった。梅の右足――いや、草履からは、ブチッと鈍い音が響き、流石に気付いた梅は足元を見下ろした。
「あ――っ!」
見事に鼻緒が切れていた。
かろうじて豆腐は無事だが、今履いている草履は、二年前の誕生日に雪之助達四人がお金を出し合って梅に送ったもの。毎日履き続けてもうかなり古びているのだが、それでも梅は気に入って棄てる事などしなかった。
これには梅は落ち込み、全身の血の気が引いた。そして今朝、草履を履いた際の違和感はこれだったのか、と妙に納得する。家まで後僅かな距離なのに、これほど遠く感じたのは後にも先にもこの日が初めてだろう。梅はどんよりとした面持ちのまま怪我人のように足を引きずって、やっとの思いで家に着く事ができた。
門を潜ると、道場の庭先には二つの人影。梅はゆっくりその正体に近付いた。しかし声を掛ける事をせずに背後からじっと見つめている。
嫌な気配がする。そう海次郎は感じ、恐る恐る振り返った。
「うわ!」
そこにはこの世のものとは思えない、まるで幽霊と間違えられてもおかしくない程に落ち込んだ梅がいて、その様子に海次郎も驚いた。
「おまえ、声ぐらい掛けろよ!」
「…………」
しかし梅は無言のまま俯いて、その場に立ち尽くしたままだ。
「どうした? 何かあったのか?」
海次郎と正反対の優しい椛の声色に、梅は何かが切れたかのように突然泣き出してしまった。いつも強気で涙など滅多に見せる事のない梅だ。余程の事があったのだろうと推測した二人だが、何が何だか分からず固まってしまった。
そこへ休憩が終わりだと知らせに雪之助が歩いてくる。
「あ、梅おかえり……ってどうしたの?」
当然雪之助も驚き、梅の顔を覗き込んだ。
「まさか、また海次郎さんに苛められた?」
「違ぇよ!」
同時に梅も首を横に振る。
「こいつがいきなり泣き出したんだよ」
「え? いきなり?」
「そうだ。俺達にはさっぱり分からん」
両手が桶で塞がれている梅は流れる涙を拭う事ができずに、小さな肩を小刻みに震わせているだけ。見かねた椛は
「とりあえず置け」
と、桶を取り上げて、着ていた着物の袖で梅の涙を拭ってやる。すると、しゃくり上げた小さな声で、やっと話し始めた。
「ぞ……り、が……」
「何? 聞こえねえ」
「おまえは黙っていろ」
苛ついているのだろう、いつにも増して乱暴な口調になる海次郎を一喝し、梅を優しく諭す椛。
「草履が壊れちゃった――!」
啜り泣いていたかと思えば、今度は大声で喚き出す。その言葉に三人は梅の足元に目をやって、海次郎と椛は揃って溜め息を吐いた。
「そんな事か」
「泣く程の事じゃねーだろ」
「だってっ! せっかく皆が買ってくれたのに!」
違和感を感じたときに確認していればよかったと、梅は嘆いた。そんな姿を見て、堪らず海次郎は声を張り上げる。
「下らねぇ!」
「よせ、海次郎」
「いーや、下らねぇよ。おまえがそんな事で泣くタマか? 普段どんな事あっても絶対泣かねぇくせに」
ピクリ、梅は反応する。
「あんたにとってはどうでもよくても私にとっては大切なものなの!」
「だからって泣く事ねぇだろうが! 直せばまた履けるだろ! ほんっとに下らねぇなおまえはよ」
先に戻っていると言って、後の事は二人に任せて早々とその場を去る海次郎。言葉は悪いがこれが彼なりの慰め方なのである。顔を見ればいがみ合う間柄だが、決してお互い嫌っているわけではない。単に海次郎は、梅に「気にするな」と言いたかっただけなのだ。
一方、その場に残された雪之助と椛は、梅にこんな話をしていた。
「いいか梅、形ある物はいつか壊れる。それがたまたま今日だった。それだけの事だ」
「そうだよ。それに海次郎さんの言ってた通り、直せばまだ履けるしね」
梅がこの草履を気に入っていた事も、大切にしていた事も、皆知っている。だからこそ梅が泣く程に落ち込んでしまった事も、手に取るように分かるのだ。
「さて、悪いが俺達はもう戻らなければいけない。今日はまだ出掛ける予定あるのか?」
「夕刻また正吉おじさんのお店に」
加えて、先約があって時間が掛かりそうだと言われた事を説明する。
「そうか。では草履は俺達で何とかしておくから、その間は代わりのものを履いて行ってくれ。雪之助、行くぞ」
「はい。じゃあ梅、また後でね」
それだけ言って二人は道場の中へ戻った。梅はもう一度桶を抱え、鼻緒の切れた草履をずるずる引きずりながら玄関の扉を開ける。
ちりん、ちりん、と鈴の音が高く響いた。