其ノ壱【修栄館の朝】
時は江戸。とある町の中に小さな剣術道場があった。名を『修栄館』。この道場では一人娘、中村梅と門下生四人を中心とした非常に下らない出来事が日々繰り広げられている。
修栄館の朝は、左手に鍋、右手にお玉を持った梅の掛け声から始まる。けたたましい音に目を覚ました住み込みの門下生達は、眠そうな目を擦りながらゆっくりとした足取りで居間へと向かった。
居間の中心には大きな机が一卓置かれている。その卓上には、黄金に輝く卵焼きと、採り立ての茄子で作られた漬物など、昨晩の残り物の煮物もあったが誠に見事な朝食が並べられていた。
それぞれの茶碗に笑顔で釜から白飯を盛る梅。だが調理をしたのは彼女ではなく修栄館の当主、梅の長兄平助である。
中村家は十三年前に母親を病気で亡くし、先代の修栄館当主であった父親も八年前に他界していた。次男の新太は十五歳、末っ子の梅は九歳だった。近くに頼れる親族もおらず、平助は弱冠十八歳にして家計を支えるべく一家の主となる事を決めた。そして八年前のその日から、家事はほぼ全て平助が行なっていた。当然本日の朝食も平助が用意したものだが、その中に得体の知れない奇妙な物体が一つ紛れ込んでいたのである。
「なぁ、これ何?」
それを見て口を開いたのは門下生の一人、立川海次郎。年は梅より一つ上で甘味処の三男。幼少の頃より武士という存在に憧れ、反対する両親を見事説得して五年前に修栄館に入門した。甘味処の息子とあってか昔から料理は得意であり、月に数回平助に代わって夕食を作ったり、余った材料で菓子を作る事もあった。
そんな海次郎から見てそれはかろうじて魚の形を保っているものの、ただの真っ黒に焦げた物体でしかなかった。最早何の魚なのかすら判別できない程に炭と灰でまみれている。いや、ここにいる者全て、きっと梅が焼いた魚であるだろうと想像はしていたのだが、敢えて何も言わなかった。
「何って鯵だけど」
梅の答えに誰しもが驚きを隠せなかった。これが鯵であることを証明してほしいと思った程だ。
「鯵? これが鯵?」
皿を手に、梅が鯵だと言った魚を至近距離で確認する海次郎。この行動に当然梅は黙っていなかった。
「何よ! ちょっと失敗しただけじゃん! 何か文句あるの?」
まだ全員分の白飯を盛り終わっていないのにも関わらず、しゃもじを片手に立ち上がる。
「こんな姿にされちまって、鯵もさぞ無念だろうよ!」
海次郎も負けじと立った。皿は持ったままだ。
「毎度毎度できねぇならやるな! おまえは握り飯だけ作ってりゃいいんだよ!」
梅は自ら台所に立とうとすると必ず平助に拒まれるので、今までまともに料理をした事がなかった。唯一できるのは握り飯ぐらいだ。従って梅がいつまで経っても料理が上達しないのは、半ば平助の責任でもあると言えよう。
「だからできるように練習してるんじゃない!」
「だったら毎日やれ! じゃなきゃ上達するもんもせんわ! こんなんじゃ鯵も気持ち良く天に召されねぇ!」
「何よ自分がちょっと料理できるからって偉そうに!」
食卓に梅が作ったものが並べられるといつもこうだ。そしてこんな下らない言い争いを尻目に、門下生の一人、森崎椛が無言で梅の手からしゃもじを奪う。まだ空のままだった自分と別の門下生、柴田雪之助、そして梅の茶碗に黙々と白飯を盛っていく。
「何すんの椛!」
勢い余って椛にまで食ってかかる梅だが
「飯が冷める」
の一言に渋々腰を落とした。
「海次郎もいい加減にしろ。いくら無残な姿とは言え、人が一生懸命作ったものに難癖つけるものじゃない」
無表情で平然と言い切るこの男、椛は寺子屋の長男。梅より二つ年上で学問に優れており、門下生四人の中で一番の常識人である。学だけでなく剣も強くあってほしいとの両親の希望により、海次郎と同じ年の五年前に入門した。
「じゃあおまえ食えよ」
「遠慮する」
しかしながらこの発言もなかなか失礼である。
一方で、そのやり取りを見て笑っている雪之助。彼は四才の頃に両親と死別していた。近くに親族はいたが、家計が苦しく雪之助を養える余裕がなかった。それを知った梅の父親は、生前の雪之助の父親と大変仲が良かったため、雪之助を中村家に引き取っていた。
「まぁまぁ、賑やかでいいじゃないですか」
雪之助にとって修栄館は自分の居場所であり、家族でもある。煩くも笑顔の絶えない事を、雪之助はこれ以上ない幸福だと思っている。また、同い年であり幼き日に両親を亡くしているという同じ境遇が、梅と雪之助を強く結び付けていた。
「何だ、まだ食べてなかったのか?」
襖を開けて入ってきたのは梅の兄、平助。手紙を出しに行って来るから先に食べていなさいと梅に言っていたはずだ。しかし誰も朝食に手を付けていない、それどころか睨み合っている梅と海次郎の姿を見て、あぁまたか。と溜め息を洩らした。
「平助さん、梅に台所に立たせるなっていつも言ってるでしょう」
黒焦げの鯵が乗った皿を平助の眼前に突き出す海次郎。
「梅、おまえまた勝手に……」
「だって平兄がやらせてくれないから!」
台所に立ちたいのにさせてもらえない梅は、こうして平助の目を盗んで勝手に何かを作るという事が度々あった。
「平助さん、食べましょう」
仲介に入るのはいつも椛で、その言葉に皆、箸を持つ。
「いただきます」
全員揃ったところでやっと食べ始めたが、味噌汁を口に含んだ時に思った事は
「……温い」
皆、同じだった。
「そう言えば新太は?」
口を開いたのは平助。
「知らない」
卵焼きを掴みながら梅が答える。
「どうせまた女でしょ」
中村家次男の新太は役者にでも見違えるような風貌の持ち主である。平助と梅もそれなりの容姿だが、新太は兄弟の中でも群を抜いていた。町の若い女は黙っていない。新太は毎日と言っていい程女を変え、夜遅くに家を出て朝や昼間に帰るなど日常茶飯事だ。そんな弟に呆れ顔の平助を横目に、お喋りをしながらの楽しい朝食の時間は過ぎていった。
朝食も終わり、それぞれが食休みや稽古の準備を始める最中、突如廊下から慌しい足音が響いた。その人物は大きな音を立てて居間と台所を繋ぐ扉を開ける。この人物の名は松原桜外。この男も修栄館の門下生の一人だ。年は四人の中で一番の年長者、二十歳。そして四人の中で唯一住み込みでなく実家から通っている。いつもは時間に余裕を見て来る桜外だが、今日は珍しく寝坊をしたらしい。走ってきた勢いのまま居間の畳の上に倒れ込んだ。驚いた梅はどうしたの?と訊ねる。
「寝坊しちまってさ、遅れると思って急いで来たんだけど意外に余裕だったわ」
乱れた息を整えながら桜外は説明をした。
「朝食は?」
「食ってねぇ。何か余ってる?」
「ご飯しかないからおにぎりしかできないけど」
「十分だ。頼む」
それを聞いた梅は洗い物をしていた手を止め、釜から余っていた白飯を取り出した。軽く塩を付けて握れば、形は少々歪だが梅特製握り飯の完成だ。
「ん、美味い」
桜外はそれを口いっぱいに頬張った。形はどうであれ、梅の作る握り飯だけは塩加減が絶妙でなかなかの好評である。
それをペロリと平らげた桜外は食休みもそこそこに、一杯の茶だけ飲んで道場へと向かった。梅は洗い物の続きをした後、平助から頼まれていた用を足すべく草履を履く。そのとき僅かに違和感があったのだが、特に気にすることもなく町へ繰り出した。