風吸いの夜
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
よ〜し、今日の掃除はこれくらいにしておこうか。
――一気に片づけた方が、絶対に楽だって?
私に言わせれば、その手の発言は掃除にのみ集中できる人間だからこそ、発していい言葉だなあ。他にもいろいろと抱えている身としては、手放しで賛同できない。
ただでさえここは色々な薬品が置かれているからねえ。整理に時間がかかる。あせってもいいことないさ。君の興味が湧くものもあるだろうけど、危ないものも多いから、くれぐれも手を出さないように。
どれ、掃除もひと段落したことだし、ひとつ、私が危ない目にあった話をしてあげようか。
中学校の理科室。君はどんな臭いがしたか覚えているかい?
水拭きで使った雑巾の臭い? 鼻をつき、痛みさえ覚えるアンモニアの臭い? それともあの木製のイスと、それにかかった水道水による、水カビチックな臭い?
私の場合は違った。その日、理科室に充満したのはザラメの臭いだった。
カルメ焼きを作ったか、と私たちは直感したね。確かに理科室の道具を使えばできないことはないし、科学部だかで作っていても別におかしい話じゃない。
「家庭科の時間でもないのに、カルメ焼き食ったんか〜、いいなあ」と口には出さなくても、そこらへんは何かと腹が減る、思春期男子。想像しただけで、へその裏側辺りから妙な音を出しちゃったくらいだ。
その日は我慢しきれず、部活の帰りにコンビニに寄って、三個ほど肉まんをつまむ。買い食いがばれないように、息と服にまとわりつく、臭いのケアも欠かせなかった。
ところが翌日以降、クラスをまたいだ友達間で、理科室の臭いがよく話題にあがるようになった。日によって、嗅げる臭いが異なるらしい。
ザラメの翌日には、鉄の臭いがしたというし、次に再びやってきた私たちの授業では、鶏肉をあぶっている臭いがした。
これまた、食べ盛りの学生どもによだれを垂らさせるには、十分な事態。実験をしながらも、みんなのひそひそ話は止まらず、先生に何度か雷を落とされたこともあったっけ。
それでも気になってしまうものさ。放課後から、また学校の門扉が開くまでの間。この理科室で、いかなることが行われているのだろうか、と。
しばらくは部活と塾が交互にやってきて、夜に身動きが取れなかった。
その間、生徒から親に、親から学校に苦情がいったのか、理科室にはあからさまな消臭剤の臭いが立ち込めるようになったねえ。
でも、すでに鼻腔の奥にしみ込んでしまった、臭いに対するセンサーは思いのほか敏感であり続けてくれた。
肉汁が、舌の上でパチパチと弾ける。あるいは砂糖が、口の原にとめどなく広がっていく、その感覚が、鼻を動かすだけで、その光景を容易に想像できるほどだったんだ。
あの日からついつい、コンビニに立ち寄ることが増えて、財布はどんどん軽くなるばかり。これは責任を取ってもらわなければ、割に合わない。
そして、とうとう私の予定に穴が空く。
私は臭いについて語り合った友達に、片っ端から声をかけた。けれど、その返事は芳しくないものばかり。結局、実行犯は私だけ、というわけ。
「みんなが行かないんだったら、俺もやーめた」なんて気分には、全然ならなかった。
リスクを超えて、好奇がたぎっていたよ。
夜。私は校門から、校舎一階の多目的ホールへ向かった。
カギが壊れてしまい、しかし、誰もそのことに気が付いていないはずだ。本日、私が不可抗力で壊してしまったのだが、咎められるのが嫌で、カーテンで隠しておいたものだ。
さりげない壊れ方なので、近くまで寄らないと分からない。見回りの先生が手抜きでありますように、と願いつつ、厚いカーテンに視界を遮られた、目標の窓に手をかける。
開いた。私は音を立てないように、慎重に踏み込む。靴も脱いでいて、足音も極力抑えていたよ。
校舎の中は暑かった。いや、熱いといった方が近いかも知れない。
熱風。室内にいるべきじゃない、肌がぷつぷつ泡立つんじゃないかとさえ錯覚しそうな、痛痒ささえ感じる風が、廊下の奥から吹いてくる。
吹いてくるんだ。風の源が奥にある。
ただ事じゃない。逃げ出すか――。そんな考えがよぎったけれど、強く頭かぶりを振って、却下する。
元より、正体を確かめるために私は来たのだ。このまま逃げたら、家で寝ていることと大差ない。ちらりとでも事情を確かめ、すぐに逃げ出す腹積もりだった。
熱風は吹いたり止んだりを、周期的に繰り返している。その先は一階にある理科室への道をたどっていた。理科室は突き当りの角部屋。こちらから真っすぐ突き当たるルートと、階段を回り込んで壁沿いに進んでたどり着くルートが、ちょうど「L」の字を為して、交わっている。
初めは風上にまっすぐ向かっていたけど、ふと、どうしてこの風は吹き続けたりせずに途切れるのか、と感じるようになった。
扇風機の類ならば、ずっと吹いていてもおかしくはない。首振りすればその限りじゃないが、これだけの勢いだったら相応の音がするはずだ。でも、それらしい駆動は感じられなかった。
とすると、外から風を取り入れているか、あるいは……何かの鼻息とか?
そう思うや、急に廊下に吹く風の向きが変わった。今までの追い出すような風から一転、引き込むような強風。加減していたのか、先ほどよりずっと強い。
足を引きずられるどころか、下手にバランスを崩すと、西部劇に出てくる回転草になってもおかしくない。そう直感できるほど。
校舎内を熟知していて助かった。私はとっさに近くの階段のわき。シャッターが降りてきた時用の、非常扉の影に身を隠したんだ。
吸い込む勢いは止まず、廊下の隅に置かれていたのか、バケツがひとつ、左から右へ、私の目の前を「飛んでいった」。かろうじてバケツに「視聴覚室」と書かれてあったのが見えたよ。
あの先はいくらもしないうちに壁となっているはず。だけど、あの勢いですっ飛んでいったなら、もう耳に届いてもいいはずのぶつかる音は、いつまでたっても聞こえてこない……。
この道はダメだ。私は靴を持ったまま、そばの階段を上り、二階から回り込むことにした。
もう私の中での警戒順位は、暗さを押しのけて、風向きが首位にのしあがっていたよ。先ほどのような吸い込む風。あれに身を晒したら、ただでは済まない。
ところどころの柱から柱へ、私は様子を伺いつつ、かさこそとゴキブリのように移動をし、闇の向こうに目を凝らす。その繰り返し。
ヘマを踏んだらおしまいだ。ロード機能などありはしない。じんわりと、靴下越しに足の裏の汗を感じながら、ようやく校舎反対側の階段にたどり着いた時には、ため息が出た。肩が痛いくらいに張っている。
ここの階段を下りて、教室を西に三つ。そこが理科室だ。
私はそっと階下に降り立つ。あの風の感触はない。
一つ目。生徒指導室。問題なし。
二つ目。理科準備室。中から焦げ付いた臭いがほのかに漂ってくるけど、扉は閉まっている。この状況で、ヘタに音を立てるいわれなし。
そして三つ目。本命の理科室。だが、私は足を止めざるを得ない。
扉が開いている。そして中からは、これまで幾度となく嗅いだ焼いた肉の臭い。「パチパチ」とはぜる音も混じっていた。
私は息をのみながら、すり足で少しずつ距離を詰め、入り口が顔一個分まで迫ると、そっと中をのぞいた。
入り口側一番手前の机の上。そこにサイコロの「五」の目のような配置で、三脚が置かれている。
四方を囲む角には小さな三脚。乗せてあるのは、皮のついた鶏肉の断片。三脚の又の下にはアルコールランプらしきもの。
「らしき」というのは、いずれも火力が強く、鶏肉を包み込んでもなお炎の先は天井めがけて立ち昇っているからだ。部屋に常備してあるそれとは段違いだ。
中央には鶏肉がビーカーに変わったもの。こちらは肉のように炎に包まれてはいないものの、その底で、揺れる赤い舌が広がっている。
そしてビーカーの底から数センチ上まで。黒い液体が溜まっていた。
焦げか、と最初は思ったが、火にあぶられてタブタブと揺れている気配があった。けれども、沸騰する様子は見えない。
なんだ、と理科室へ一歩踏み入る私。それがあまりにもうかつだったことを、すぐに思い知らされた。
あの吸い込む風だ。吹き始めなどない。最初から全開で、理科室の内側に――あのビーカー目掛けて、私の身体を吸い寄せ始めた。
タイミングが悪い。すでに私は入り口にかけた手を離してしまっていた。掴み直そうにも、すでに爪の先すら届かなかった。
吸われる。胸からビーカーに突っ込みそうになった時、右腕をぐいっと掴まれて引き戻される。
理科の先生だった。風をものともしない力で、ぐいぐいと私の身体をけん引。廊下を伝って、隣の理科準備室に連れ込まれたよ。
「なぜ来た」と先生に詰め寄られる私。あれを見た以上は誤魔化せる雰囲気ではなく、正直に話したところ、先生はため息をついた。
この理科室では時折、風を吸ったり吐いたりする「門」が夜中に開くとのこと。先生も前任から話をうかがったのだけど、この目で見るまでは信じられなかったらしい。
前任は、その「門」を閉じるため、様々な儀式めいたことを行っていて、先生がそれを引き継いで実験している、と。
「このところ、拡がりが激しくなってきている。昼間、影響がないのは幸いだが、妙な臭いを漂わせて済まないな。色々と試しているんだ」
先生は私に頭を下げつつ、壁ごしに隣の理科室の様子をうかがう。そして風がやんだ頃合いを見て、私を校舎の外に出してくれたんだ。
翌日以降。先生も理科室も、いつも通りの様子。あの肉の臭いも、消臭剤に紛れたままだった。
私は今でも分からない。「門」の正体も、先生がどこまで本当のことを話してくれたのかも。
ただ、確かなことは、数日後。下校途中の私の足元へ、空から何かが降って来た。
踏みつぶされた空き缶を思わせるその鉄塊には、「視聴覚室」の文字がうっすらと浮かんでいたんだ。