十番勝負 その十七
第二十五章 吾平の死
庭先の柿が熟していた。
秋も深くなっていたのか、と三郎は今更ながら季節の足の速さに驚いていた。
「吾平、おまき、今帰ったぞ」
奥から、おまきが小走りに出て来て、三郎を玄関口に迎えた。
三郎の顔を見た途端、おまきの大きな眼から涙が溢れ出した。
「どうした、おまき。いきなり、泣き出すとは、いくらなんでも、少し大袈裟ではないか。まあ、わしの顔を見て、嬉しい気持ちは分かるがのう」
おまきが嗚咽しながら、話す言葉に三郎は色を失った。
吾平が十日ばかり前に亡くなったという話であった。
吾平の家は南郷の屋敷から少し離れたところにあった。その時、吾平は孫と遊んでいた、と云う。少し、酒を呑んで機嫌よく、二歳になる末の孫と遊んでいた吾平が突然、ウッと云う声を発した。その声に気付いた吾平の妻が台所から振り返ると、囲炉裏端で床に突っ伏している吾平の姿が目に入った。それが、吾平の最期であった。
吾平にはいろいろと思い出がある。
三郎は当時を懐かしむように、吾平のことを想った。
あれは、風間才蔵がまさに秋風のように飄然と去って行った十四か十五の時のことだった。
わしは手裏剣の鍛錬をしていた。土蔵の壁に大きな木の板を立て掛け、棒手裏剣を打っていた。十字手裏剣とか八方手裏剣は命中の精度はともかく、投げれば板に刺さった。
しかし、棒手裏剣は距離が異なると、手の内での持ち方と投げ方を変えないと、的はおろか、板にも刺さらず、弾けて撥ね返ってしまうのだ。
才蔵も棒手裏剣は、殺傷能力は高いが、どんな距離であってもまともに刺さるためには常日頃の修練と工夫が必要であると口を酸っぱくして言っていた。
しかし、見事に刺さるようになると、動かない的では飽き足らず、動いているもの、つまり生きているもの目掛けて、手裏剣を打ちたくなるものだ。
わしも、無意識に動いているものに手裏剣を打ってしまった。
庭の樹にとまって鳴いている蝉を的に見立て、棒手裏剣を打ったのだ。
蝉はいくらでもおり、わしは夢中になって、手裏剣を打っては、蝉に突き刺していた。
或る時、吾平に見つかった。わしは当然大声で叱られるものと思った。
しかし、吾平は黙って、わしのところに歩み寄り、蝉を庇うように樹の前に立って静かに言ったのだ。若、手裏剣で蝉を打つより、わしをお打ちなされ、蝉より大きくて打ちがいがござりまする、年寄と金釘はひっこんでおる方が好い、と言いまするが、ひっこんではおられませぬ、今は若に申し上げなければなりませぬ、と。それだけを言って、吾平は眼を閉じたのだ。
わしは何も言えずに黙っていた。暫くして、吾平の両目から涙が溢れ出した。
若、蝉といえども、精一杯生きているものを面白半分に殺めてはなりませぬ。
命あるものには全て、仏が宿っておりますれば、と吾平は言ったのだ。
わしは吾平に駆け寄り、吾平の肩を両手でしっかりと掴み、もうせぬ、もうせぬ、と言いながら泣いてしまった。
「吾平よ。父と母が死んだ後、孤児となったわしを、親身に世話をして育ててくれたのはお前であった。武者修行の時も、お前が居たからこそ、わしは安心して長い旅にも行くことが出来た。わしはお前を失って、もう一度、親父さまを亡くしたような気がしてならぬ。十歳の時から勝手気儘な武芸の修得に明け暮れた、やんちゃなわしをいつも温かく見守ってくれたお前であった。冷酒と親の意見はあとできく、と云うが、わしにとって、意見を言ってくれる親はお前であったなあ。そして、人を育てる師という者が居るとしたら、吾平よ、お前がわしの師であった。」
三郎は吾平のまだ木の香りが漂う新しい墓柱に向かって、両手を合わせ、呟くように語りかけていた。
「ありがとうよ、吾平。家に年寄、屋敷に大木、と云うのはまさにお前のことであった。これからも何か困った時は、わしはお前ならどうすると思うことにすっぺ。お前のことを思いつつ、これからわしは生きていくことにすっぺ。さらばじゃ、吾平爺よ」
第二十六章 おせきの死
吾平が死に、齢としては若いが利発な正太郎が家宰となり、南郷の家を取り仕切ることとなった。おせきが喜んで、三郎のところにお礼を述べに来た。
「時に、おせきよ。お前ももういい齢になってっぺ。そろそろ、嫁に行くことを考えても良いのではなかっぺか」
と言う三郎の言葉におせきは手を振りながら、恥ずかしそうに顔を伏せて言った。
「だんなさまのお気持ちはうれしいけんど、おらの躰は相馬での勤めで汚れてしまってるし、今更、お嫁にいける身とは思ってなかっぺよ」
「何と云うことを言うのじゃ。相馬でのことは、お前のせいでは無かっぺ。お前が悪いわけではあんめえ。それに、知ってるのは、儂と弥兵衛と、死んだ吾平爺だけだっぺ。お前さえ、その気になれば、儂も弥兵衛も何とか手助けすっぺよ」
「でも、今は好いた人もいねえし。だんなさまのお気持ちだけ、ありがたく受け取っておくだよ」
このように言っていたおせきに、春が来た。
三郎のところで働いている小作の百姓の一人に、与三郎という若者がいた。齢は二十五、明るく元気な男だった。この与三郎がおせきに恋をした、のである。
与三郎はいつ、おせきを見初めたのであろうか。与三郎の想いはおせきにはなかなか伝わらなかったようである。おせきは端から自分は他人から想われるような女ではねえと思っており、与三郎の気持ちが真剣なものとはどうしても思われず、自分を揶揄っているのだと思っていたようだ。おせきから相手にされず、思い余った与三郎はおせきの親代わりとなっている弥兵衛におせきへの自分の切ない想いを打ち明けた。
「だんなさま。だんなさまもご存知のあの与三郎がおいらのところに来やして、おせきを好いていると打ち明けてておりやす。はて、どうしたものだっぺか」
「決まってっぺ、弥兵衛。あの与三郎ならば、おせきにぴったりの男だっぺ。真面目でよく働く、いい若者ではなかっぺか」
「けんど、おせきには人に言えねえ昔のことがあっぺよ」
「そんでも、知ってるのはおせきの家族はともかく、儂と弥兵衛、お前の二人だけだっぺ。村の者は一切知らないことだっぺよ」
「それはそうだけんど、だんなさま。いつ、なんどき、おせきの昔のことを知る者がこの村に来っかも知んねえぞい」
「まあ、それはそん時、考えることにすっぺ。とにかく、まあ、目出度い話であることは間違いなかっぺ。そうけえ、与三郎がのう。あいつはまことにいい男だっぺよ」
与三郎の想いは弥兵衛がおせきに伝えた。弥兵衛の口から与三郎の想いを聞いたおせきは、嬉しいような顔をしたり、浮かないような顔をしたりしていたらしい。
「だんなさま、おせきはうれしそうな顔をしたり、困ったような顔をしたり、まあにぎやかな顔をしてたなし。あとは、おせきとよさぶろう、ふたりのことになるけんど、うまくいくもんだっぺかねえ」
この弥兵衛の危惧は無用のものであった。若い男と女であり、おせきも与三郎のことは嫌いでは無かったようだ。二人の仲は村でいつの間にか、知られた仲となっていった。
やがて、二人は晴れて夫婦となった。夫婦となる前に、おせきは弥兵衛のところに来た。弥兵衛が驚いたことに、おせきは昔の相馬でのことを全て与三郎に話したとのことだった。旅籠で飯盛り女で白首だったことを全て、与三郎に話したとのことだった。
「それでも、あん人はかまわねえ、おいらは今のおめえが好きなんだ、と言ってくれたっけ。おらも与三郎さんのそんなところが好きで、好きで」
と、おせきは顔を赤らめながら、弥兵衛に語った。
「だんなさま、おいらは与三郎のことがほんとに好きになりやした。おんなのせつない、むざんな昔のことを聴いて、顔色ひとつ、変えなかったというんだから。まあ、できたおとこだっぺよ。あんないいおとこはざらにはいないっぺ」
三郎もこの弥兵衛の言葉を聞き、おおいに頷いたものであった。
だが、好事魔多し、という格言が示すように、いいことは長くは続かないものである。
辺鄙な田舎村にもいろいろな物を売りに来る旅の商人は来る。
そうした商人の中に、相馬から来た行商人が居た。
その行商人は村の畦道を歩いている時に、田んぼで働くおせきを見た。
相馬屋のおせき、ではねえか。懐かしさもあり、気軽に、おせきに声をかけた。
その行商人の顔を見たおせきはびっくりした顔をした。行商人が話しかけてくるのを振り切るように、田んぼから逃げるように走り去っていった。その様子を村の誰かが見ていた。
その村人が行商人に話しかけた。行商人は昔馴染みのおせきに冷たく無視された腹いせもあったのだろうか、おせきの昔の勤めのことをその村人に話した。
おせきが白首であったことは、あっという間に村中に知れ渡ってしまったのである。
村人のおせきに対する態度はすっかり変わってしまった。
働き者で親孝行者、というそれまでの評判はすっかり影を潜め、卑しい勤めをしていた穢れた女である、おいらたちを騙していた、そんな女と一緒になった与三郎も馬鹿な男だっぺよ、という話が声高に話されるようになった。中には、おせきに向かって、おめはいくらで躰を売っていたんだ、おいらもその金を払うから、ひとついい思いをさせてけれ、とあからさまに言う不心得者まで現われた。弥兵衛が青い顔をして、三郎のところに飛んできたのはそんな時分のことであった。三郎も驚いた。
「弥兵衛、これはまずいことになった。おせきと与三郎をどこか知らないところに行かせねばならないだろう。人の口に戸は立てられぬ、と云うからな。うかうかとしては居られぬ」
三郎はすぐさま、遠く離れた小名浜という湊町に居る親戚の郷士に書状を書き、二人の世話をしてくれるよう、頼んだ。
しかし、間に合わなかった。或る朝、おせきと与三郎が近くの河原で変わり果てた姿で発見されたのである。おせきはまだ二十一、与三郎は二十六という若さであった。
三郎と弥兵衛は、間に合わなかったか、と臍を噛む思いでその河原に向かった。
二人は抱き合ったまま、川に身を投げた。死んでも離れぬよう、お互いの腰を縛って結んだしごきの鮮やかな朱鷺色が無残に目に映った。弥兵衛は人混みの中から飛び出して、二人の死骸を眺める村人の前に立った。弥兵衛は顔を真っ赤にして怒っていた。
弥兵衛は、河原に並べられたおせきと与三郎の死骸を前にして、集まって眺める村人に叫ぶような口振りで語った。。
「おめたち、あやまれ。みんなして、おせきと与三郎にあやまれ。たしかに、おせきは、昔、人に言えねえ勤めをしていたのは事実だ。けんどよう、それはおせきが悪いせいか。違うだろう。貧乏でよ、娘を売るのはありきたりのことだっぺ。幸い、この村では三郎だんなさまのはからいで、なんぼ貧しくとも、娘を売らずになんとか暮らしているんだっぺよ。よそは違うだよ。貧しくて、家の者が食っていけねえ村では娘を売るというのは当たり前のことだっぺ。けんどよう、その娘が年季を明けて、晴れて戻って来る時なんかは、その村ではあったかく赤飯のひとつでも炊いて迎えるという話もおいらは聞いているだよ。今度のことも、そうだっぺ。行商のあん畜生がべらべらと話しても、聞いて聞かぬふりをすれば、それで良かったんだ。おめたち、都合の悪いことは聞いても、聞かぬふりをするのは慣れてっぺ。よそもののおせきだから、待ってましたとばかり、言いふらしたんか。ひどすぎるじゃねえか。よそものだから、冷たくしてもかまわねえと云うんか」
弥兵衛は泣いていた。
「初めはよそもんでも、一年も同じ在でくらせば、もう仲間だっぺよ。仲間のひと一人、守ってやれなかったおめたちはろくでもねえろくでなしだっぺ。しかし、よう、おいらもおめたちと同じ在所にすむ者だ。おいらもおめたちと同じかもしんねえ。いや、おんなじだ。おいらも、だんなさまのお供をして旅に出ていなければ、おめたちとおんなじ真似をしたかもしんねえ。旅をして、おいらはわかったんだ。よそを見て、よく分かったんだ。よそものなんていうのはいねえんだってことを。みんな、一生懸命生きているおんなじ人間だってこと、仲間だってことを、よ」
弥兵衛は泣きながら、続けて語った。
「おいらも、おせきと与三郎にあやまんなきゃなんね。こんどの話を耳にした時に、おいらは何もしなかった。ただ、困った、困ったと言っていたきりだった。おせきを死なしたのは、おいらだ。与三郎を死なしたのもおいらだ。他の誰でもねっ、おいらだ。・・・。でも、よう、おせきがおめたちに何をしたと言うのだ。何にもしてねっ。何にもしてねえおせきをおめたちは言葉と眼で殺した。情の無い言葉と冷てえ眼で殺したんだ。おせきは哀れな女だ。何にも悪いことをしてねえのに、売られて、飯盛り女になった。白首にもなった。でも、おせきが悪いわけじゃねえ。だんなさまはそんなおせきを憐れんで、身請けして、ここに来るよう取り計らってくれただ。しかし、これだけは言っておかなきゃなんねえ。身請けしたって云う言葉で誤解しちゃなんねえ。おめたちはよく誤解すっからな。だんなさまはおせきに指一本も触れちゃいねえ。そのことに関しては、この弥兵衛、おらが生き証人だ。だんなさまは後ろ指をさされるようなことは何一つしちゃあいねえ。おせきはそんなだんなさまに感謝して、ここで一生懸命働き、恩返しのつもりで、おいらたちになにくれと尽くしてくれたっぺ」
弥兵衛は村人をじっと見詰めた。
「その哀れな女がよう、精一杯の恋をして、与三郎と一緒になったんだ。与三郎もえらい男だ。おせきの昔のことを全て知った上で、一緒になったんだよ。あんないい男はいねえよ。おいらはなんどでも言うだ。おせきは何一つ悪いことをしちゃいねえ。おせきがこうして与三郎と心中しなきゃなんねえ理由は何ひとつねえ。おせきが死ぬ理由なんか何ひとつねえんだ。おせきの昔のことをあれこれと取り沙汰する、ここにいるおめたちのこころねえ言葉と冷たく突き刺すような眼に殺されたんだ。しかし、おめたちはおいらだ。おいらも、おめたちの一人だ。おせきと与三郎を殺したのはおいらでもあるんだ。おいらは恥ずかしい。口惜しいし、恥ずかしい。おせき、与三郎、おいらを許してくなんしょ。どうか、こんなおいらたちを許してくなんしょ」