4日目
7月24日(水)
恐怖に耐え兼ね、彼は仕事を辞めた。
そして家に閉じ篭った。それでも悪夢には魘された。
例の子どもを見ることはなかったが。
ああ、そうだ。この日の話をする前に気づいた方も居たろうか。
蠅王───耶蘇教ではベルゼブル、と言う名の悪霊の当主であるが、16世紀の版画家ハンス・ブルクマイアーの定義付けたものでは『暴食』を司る悪魔でもあるのだ。ここまで言えば彼に何が起こっていくか、想像できるだろう?
そう、この日の朝に彼は強烈な空腹に起こされた。
何でもいいから食べてやりたい、という感覚である。
彼は部屋をふらふらと彷徨いた。
何か自分が食べられるものはないだろうか。
何か胃を満たせるものはないだろうか。
その一心でふらふら、ふらふらとかの怪児の如く彷徨いた。
そして、外に目を遣った時、見たのだった。
腐肉(実際は生きている人間だが)。
何でもいいから食べてやりたい、その気持ちは理性を上回りそうになる。しかし、理性は従順だ、一度決めたルールからは離れない。
『飽く迄もアレは人なのだ、食べてはならぬ』と。
その日の昼、彼はチェーン店のラーメンを二杯も平らげた。
そこまで食べてもまだ腹は減っていた。
愈々自分は可笑しくなってしまったのだろうか。
その境地まで自分は堕ちてしまったのだろうか。
何時ぞやのように自問が彼を支配した。
今彼は少しの理性でしか自分を自分と思えなかった。
自問、異常な風景、ベルゼブルの食欲にほぼ全てを支配された。
いつのまにやら体の震えは収まっていた。
詰まるところが、この最悪の支配に体が純朴な犬と化していた。
高々餓鬼から聴こえた童謡にここまで酷い目に遭わされるとは、予想だにしていなかった、する筈がないのだ。
否、高々餓鬼ではない。アレは魔力の塊だ。
しかし、何故一人の実直な道化に来たのだろうか。
彼はその答えを導き出せることはなかった。
ふと、扉を叩く音がした。
誰だろうか・・・真逆例の子どもでなあるまい、と思い扉を開けた。
友人が立っていた。
いや、正確に言えば友人の匂いや声が微かにする腐肉だ。
『ど、どうしたんだ?』
Gは平静を装い、友人に話しかけた────つもりだった。
次の瞬間、腐肉から友人の顔が見え始めた。
その友人の顔は、眼は白目が見えない位に黒く、半笑いだった。
そう、あの魔力を使い、この道化を操っている子どもの顔だ。
『あ、ああ...?』
Gは混乱した。そして、振戦が戻ってきた。
ここで読者諸君に言っておく。
ご想像のとおりかと思うが、これはGの幻覚である。
怪人の魔力に因って幻覚を見ているだけなのである。
ここからは『普通にGを心配で訪ねた友人』の証言である。
心配で奴を訪ねたら、予想以上の風貌だった。
血走った目、どす黒い隈、蒼白い顔と唇、痩けた頬・・・
そして俺が訪れて数分して突然怯え出し、童謡を歌い始めたんだ。
夕焼け 小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
おててつないで みなかえろう
からすと いっしょに かえりましょ
子供が かえった あとからは
まるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空には きらきら 金の星
そう、夕焼け小焼けを歌い始めたんだ。そしたら頭を掻き毟って『空赤い空赤い怖い怖い』と連呼し始めたんだ、落ち着け、と俺が言ったら何も聞こえないかのようにブルブル震えて叫んだものだから愈々これは不味いと思って救急に連絡しようと思ったら、突然俺に噛み付こうとしたんだ。怖くなって俺は連絡もせずに帰ったよ・・・一体アイツに何があったんだ?
さて、Gの手記からまた推測で構成していこう。
彼は友人と思っていたモノが例の子どもであったことに酷くショックを受けてしまった。そして、彼の見る景色となった永遠の夕焼けは友人...というよりかは例の子どもが去った後、灯火一つない星月夜へとガラリと変わったしまった。星明かりが緑の粘液を反射して海底宛らの幻想的風景となったが、そんな事を楽しむ余裕などとうに消え失せた。同時にこの日の出来事は彼から一切の理性を奪い去り、一切の希望も奪い去った。
その後手記には『サヨナラ』とだけ書いてあり、部屋に戻る事は二度となかった。
多数の目撃情報等から以下の仮説に行き着いた。
13時47分に半笑いのGが部屋から出る
14時34分頃に不思議な童謡にも似た歌を歌う不審な人物が通学路で踊っていると付近の小学校に連絡が来る
16時12分頃に郊外の樹海付近で女性からストーキングされている、と通報
17時15分頃に通報されたと思われる現場に警察が駆けつけたところ、女性の四肢のみを発見
18時前後に捜索班が女性の腰から下と、血塗れの頭蓋骨を発見
翌7時に胴の白骨のみが発見
以下 不明




