chapter1 黒い獣と蒼い希望
「おい栄司、起きろ」
「ん……もう着いたの?」
友人である神澤 匠に肩を揺さぶられ、耶雲 栄司は目を覚ます。
ここは私立総慧高校のスクールバスの中。もう九月の中旬ということもあり、まだ十八時前だというのにすでに空は橙に染まりきっている。
「まったく、よくもまあこんな荒い運転で熟睡出来るな」
「そう? 僕には丁度いいゆりかごに感じるけど」
「そう思ってるのはお前だけだよ。多分」
そうこう言っているうちにバスが停止する。どうやら目的地である戸椈駅に到着したようだ。
他の学生たちの流れに巻き込まれてはたまらないので、ある程度人が降りるのを待ち流れが途切れたのを見計らって匠と一緒に降り、駅とは違う方向へ歩き出す。
「おいおい、まだ寝ぼけてんのか」
「違うよ。ちょっとあそこの自販機に用があってさ」
そう言って栄司は駅の逆の方にある自販機を指差す。
「またかよ」
「今日の五時間目に良いネタ思い付いてね。寿司のネタも小説のネタも鮮度が命なのさ。だけど、今日は疲れたから気付代わりに、ね」
栄司の将来の夢は軽小説家になることだ。
十二歳の時、絶望に囚われ、自殺に踏み切る寸前まで行った栄司はとある軽小説に出会いその危機を脱した。
それ以来、その軽小説を書いた小説家を(勝手に)師と仰ぎ、そして超える目標として軽小説家を目指している。
「そうかい。ま、今日こそ電車に遅れるなよ」
「分かってるって。んじゃ、またすぐ後で」
「おう」
そのまま匠は学生たちの流れに消えて行った。
「さーて、ひとっ走り行きますか!」
――――
「到着っと」
三分もせずに件の自販機に到着する
「今日は帰り道で飲む一本だけでいっか。昨日、買い貯めしたばかりだし」
栄司はバスから降りる前から用意しておいた一枚の硬貨を素早く自販機に投入し、迷いなく淡黄色の缶を選ぶ。この炭酸飲料(商品名 Mr.Citron 略称『ミスシー』)、癖が強すぎた(嫌いな人からは「柑橘ベースの炭酸に苦瓜の煮汁と各種香辛料をぶち込んだ味」と称される)ため、あまり一般ウケせず、取り扱っている自販機及びに店が非常に少ない。その為、栄司はミスシーを求め度々この自販機に寄り道をして買い貯めをしている。
栄司には精神的に疲れるとミスシーを飲むという習慣があり、今日は補修の疲れを癒す目的で買いに走ったのだ。
「さて、買うもの買ったしあともうひとっ走り……あれ?」
ふと空を見上げる栄司その目に映る夕焼けはいつもより暗くどんよりとしているように思えた。
「っと、ボーッとしている暇はないんだった」
そんな空に違和感を抱きながらも、取り敢えず匠との約束を守る為に駅に向かって走り出す。
だが、その足はいきなり現れた違和感にすぐに止める事になる。
誰も居ない道のど真ん中に異様に黒い人影が佇んでいたのだ。
「匠かな? おーい」
栄司の呼びかけに気付いたその人影はこちらに向かって走り出した。
最初はなんだかんだで待っていてくれた匠がしびれを切らして向かってきたのかと思った栄司だったが、その人影の周りに流れる殺伐とした雰囲気に再び違和感を感じた。
なにか怒られるような事したかな、と考えていた栄司がその人影の正体が人では無いことに気付いた時には既に相手は跳躍していた。
栄司は未開封のミスシーを相手に投げつけると同時に横っ跳びに跳ぶ。
栄司が踏み切った刹那、それまで栄司の体があった場所をミスシーの缶ごと鋭利な爪が貫いた。
「な、何……あれ」
跳びかかってきた相手が地面に着地し殺気に満ちた深紅の瞳をこちらに向ける。全体的に黒く、爪や牙だけが白く刃物に似た輝きを持ったその姿はこの地球上には存在してない異型のものだった。強いて言うのであれば、狼男を狼側に傾けた感じだろうか。
「特撮かなにか……な訳ないよね。もしそうだったら告訴モノだもの」
理性や感情を一切含めない、本能からくる純粋な殺意を栄司は感じた。
「さて、これからどうする……?」
どうしようもない。
それが栄司の出した結論だった。
何より、先程の攻撃は避けたもののそれは実力の伴ったものではない。
栄司自身、身体能力は低い方(学年内で数えて下から一桁)である。
そんな栄司が何故こんな化け物の攻撃を避けられたかのか。それは後天的に手に入れた動体視力と観察力によるものだ。
動体視力は親からの虐待、観察力は師から教わった心構えによってそれぞれ得たものだ。
この二つを組み合わせることにより対象の動きを見切り、攻撃を回避したにすぎない。
その上、これには集中力を多大に消費するというデメリットがある。
「後一回……も無理かな。そうでなかったらミスシー買いに来ないし」
栄司は化け物が貫き、既に空になったミスシーの缶を横目に見やる。
「死因が英語の補修って末代までの恥だよね……もしそうなったらどうにかしてあいつ(英語を受け持つ女教師)にコトリバコをプレゼントしてやろう」
妄言じみた事を口走ってみても状況は一行に好転しない。その間も化け物は徐々にこちらへ近寄って生きている。
溜息を一つ吐き、もう一度栄司は視界に意識を集中させる。
もう一度だけ……もう一度だけ避ける。そこまでやってそれでもどうにもならなかったらそれまでだ。
「もっと焦るものかと思っていたけど、実際に死に直面すると意外に落ち着くものなのか。死ぬ前にいい経験ができた」
その言葉を最後に、栄司は一気に集中を深める。
しばらくのあいだ、互いに睨み合いが続く。
永遠にこの時間が続くかと思われた時、予備動作無しに化け物が栄司に跳びかかる。
瞬時に反応した栄司だったが、化け物のぬらりと光る牙がすでに目の前にまで迫っていた。
もう、間に合わない。
死から逃れられない現実を悟り栄司は目を瞑ろうとした。
その時だった。
「……本当に、今日はどうなってるのさ」
目の前には今にも栄司の首に喰らいつかんとする牙が殺意と勢いを保ったまま停止していた。
爪だけではない。化け物はおろか、周りの落ち葉までもがその風景を切り抜いたかのように停止していた。
そして、自分の横にはいつの間にか凄い勢いで砂が落ちる砂時計が置かれていた。
「それで? 多分だけど、この砂が全部落ちたら時間は動き出すだろう。そして、パッと見っだけどこの砂時計は後三分もしないうちに砂が落ちきる。駅に着く前に後ろから刺される位しか時間が残っていないのにどうすればいいのさ」
誰に宛ててでもなく栄司はしゃべる。しゃべらないと死のプレッシャーに押しつぶされそうだからだ。
死の運命から助かったと思ったらただのその場しのぎ。これで取り乱さない方がどうかしている。そんなことするぐらいなら、いっそひと思いに殺してくれ、と絶望しかけた時だった。
『汝と常にある物を我に示せ』
「……!?」
突如として頭に男とも女ともとれる不思議な声が響いた。
遂に幻聴まで聞こえるようになったかと疑った栄司だったが、今はそんな事をしている場合ではない。縋れるものになら藁にでも縋らなければならない状況だ。
「汝と常にある物? 謎かけか何かかな?」
ズボンや上着のポケットを探すがそれらしい物は見つからない。
「常にある物……常にある物……いつも持っている物? そんな事が出来る物なんて物理的に存在するはずが……うん?」
栄司は自分で言った事に対し違和感を覚えた
「そうか、分かったぞ! 見えていなくても常に自分が持っている物……声の主が聞いているのは多分『想い』のことだ!」
その答えに辿りついた時、上着の内ポケットから光が発せられた。
「これは……!?」
内ポケットから光の発生源を取り出してみると、それはUSBメモリーだった。
他人からみたらそこら辺に売っているただのUSBメモリーだが、栄司にとってそれは全く違う価値を持つ。
それは出先で執筆する為の道具でもあり、五年間の生きた証でもあり、そして耶雲 栄司という人物の唯一にして無二の知の財産である。
茫然していた栄司は砂時計が後、幾らも残ってないことに気付く。
「もう迷っていられない! これが……これが『僕と常にある物』だ!!」
そう言ってUSBを天高く掲げる。
それと同時に砂時計の砂が落ち終わり、止まっていた時間が動き出す。
化け物の牙は栄司の首を完全に捉え、後はその強靭な顎で噛み砕くだけとなった。
最後の希望も断たれかに思えた栄司の頭に再びあの声が響いた。
『汝の道は示された……さあ、最後の希望になるがいい!』
声が消えると同時にそれは降り注いだ。
蒼く、空や海よりもひたすらに蒼い六つの閃光が化け物の体に降り注ぎ、そして貫いた。
化け物の牙は栄司の首の紙一重にまで近付いており、後一秒でも遅れていたら栄司はこの世にいなかっただろう。
その化け物は既に先程の閃光に体の半分以上を消し飛ばされピクリとも動かなくなっており、その上徐々に黒い粒子になっている。しばらくの間その現象を眺めていると、瞬間的に輝いたかと思うと次の瞬間には跡形もなく消滅していた。
「召喚されて早々襲われてるなんて聞かされて無いわよ、まったく……まぁ、間に合ったから良しとしましょうか」
不意に背後から声がしたので振り向くと、そこには自分と同じくらいの、どこかで見たことがあるような女性がいた。
前髪は目の半分、サイドは襟に、後ろ髪は肩に掛る位の髪は色素の薄い水色をしており、黒と茶色のブーツに蒼を基調とした上下の西洋風士官服にインパネスコート風の上着を羽織り、キャスケット帽を被りいたるところに装身具を身につけている。中性的な顔立ちをしており、士官服と相まって不思議な凛々しさを醸し出している。
現実では絶対に見るはずのない格好なのに絶対に見たことがある姿だった。
どうようする栄司に彼女は話しかける。それは彼の疑問の答えでもあり、すでに始まった戦いを告げる言葉であった。
「始めまして。私は君が創りだした人物であり、君が作りだした最後の希望の一つ、『蒼海の守護者』よ。これからよろしくね」
そう言って微笑んだ彼女の、水のようにすんだ声は未だ不気味にどんよりとした空の下によく響いた




