復讐とメロンソーダ
復讐を終えたばかりの少女とメロンソーダを飲んだことはあるか?
あなたは帰ってきたら血のついた包丁を持った少女が廊下にいたことはあるだろうか。私はある。廊下といってもマンションの廊下なので自分の部屋の中というわけではないが、それでもあまりない経験であることに異論はないだろう。それはまだ夏が濃く残る名ばかりの早秋、くらいだったと思う。
自分の階でエレベーターを降りると、もう一つの部屋の玄関前——このマンションは一つのフロアに部屋が二つしかない——に見慣れない少女がいた。服には返り血が盛大に付着していて、手に持った包丁を見ても「なにかの冗談か?」と思うくらいの様相だった。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
少女は挨拶をしながら慌てて包丁を後ろへ隠す。その表情は行動とは裏腹に焦りや葛藤のようなものが見えない、狡猾な生徒が慣れた手つきで煙草を隠すような冷静さがあった。私がどうすべきか決めあぐねていると、彼女が平坦な声で言う。
「いまお姉さんのことをどうすべきか考えています」
彼女の声がはじめの挨拶以降、既に震えなくなっていることに私は気づく。それは彼女が豪胆だからなのか、あるいはもう覚悟を決めたからなのか分からないけれど、手はまだ少し震えているように見えた。
「つまりその包丁で私のことを刺すかどうかってこと?」
「そう。でも私のこれは復讐であってお姉さんには何の恨みもない。だから悩んでる」
私に指摘された途端、彼女の眉に力が入るのが分かった。能天気な救急車の音がマンションを挟んで反対側の通りを走り抜けていく。しかし「もうすぐ私も乗るかもしれないな」などと考えていたら、いや私の方が能天気なのではという気がしてくる。そしてたぶんそれは正解なんだ。
「そうか。まあいいや、悩んでる間、ちょっと飲まない?ちょうどスミノフを3本買ってきたところだ」
私が玄関前に座り始めたからか、彼女の警戒心が明確に弱まっていることがわかる。しかし少し柔らかくなった表情を見て私は彼女が思いの外幼いのではないかと気づく。
「私、未成年です」
「それはなんていうか、いけないね」
いまさら歳のことなど関係あるかと思ったが、そういう野暮なことを言わないのが私の良いところだ。
だからひとまず冷蔵庫の中身を思い出すことにした。牛乳パックが二本、紅茶の茶葉が沈むポッドが一つ。あとは人にもらった、私の飲まないジュース類。
「そうだ、確かメロンソーダがあったよ。飲む?」
あなたは包丁を持った少女に怪訝そうな表情を向けられたことはあるだろうか。私はある。この時がまさにそうだった。
「お姉さんどうかしてるの?殺されるかもしれないんだよ」
「まあ、そうかもしれないね。客観的に見たら。ちなみに今、通報されるかもって心配してる?」
「え、しないの?」
「今は少しあなたと話したいからね。それに悪いけど生にあまり執着がないんだ」
そう言って左手で首筋を指すと彼女は私の言いたいことを理解したようだった。
私の左手と首には褐色の火傷痕がある。それも特殊メイクのように見えるほどはっきりとしたものが。デリカシーを五稜郭の堀に落としてきた友達は「あんたがいると合流しやすくて良いよ。渋谷であろうと新宿であろうと」などとカラカラ笑うが、初めて見る人の眼は十中八九どこを見て良いものかと惑う。
やがて彼女は包丁を部屋の玄関前に置くと私と同じようにその部屋の前に座った。私はその間に冷蔵庫からメロンソーダを取ってきて、缶をころころと転がして彼女へ渡す。
「乾杯」
彼女が缶を開けて少しあふれ出てきたソーダを口にしたところで、私は言った。一気に瓶の四割くらいのスミノフを流し込む。
「復讐は何も生まないとか言わないんですね?」
ソーダを一口飲んだ彼女がこちらを見ずにそう言った。私は瓶の先を持って底をくるくると二周回してから、ゆっくりと答える。
「言わないよ、そんなつまらないこと」
「でも皆そう言ってました。ネットの人たちだけど」
「復讐はそうだね、何も生まないかもしれない。でもそもそも復讐をこころざすという人は何かを奪われているんだから、それくらいするべきだろ」
私はあっという間に空になったスミノフの瓶を横に置くと、次は紫色のラベルの瓶を開けた。グレープの甘い香りが溢れ出す。
「するべき、というのは言い過ぎだな。ただそれくらいしたって良いだろとは思う。じゃないとずっとマイナスのままじゃん?」
「そんなこと初めて言われた」
座ってから初めて少女がこちらを向いた。幾分明るくなった表情は年相応に見え、服に返り血がついてさえいなければただの家出少女に見えたことだろう。
「でもお姉さんがいうような深刻な理由はなくて、実は些細な理由かもしれないよ」
「それが些細であるかどうかは、私たちが決めることじゃないよ。司法だって罪の重さくらいしか決められないんだから」
「司法?」
「そう、だからそんなこと気にしなくて良いよ。少なくとも私はあなたがどれだけ何を奪われたかは知らないし訊かない。多くの場合起こってしまったことについて考えたって仕方がないでしょ」
火傷痕がついたときのことを思い出していた。あの時どうしていれば大切なものが奪われなかったのかは分からない。もしかするとそこに何らかの回避手段があったのかもしれないが、今ここには奪われた私しかいない。だから私はたられば話が嫌いなんだ。
沈黙を埋めるように列車が橋を渡る轟音が聞こえてくる。一定のリズムで訪れるそれは、間奏のように聞こえた。
「もちろん今後同じことを繰り返さないために過去を省みるという行為は必要だ。もしかしたら良い逃げ方や打開する方法があったかもしれない。でもそれはあなたが導き出した結果を否定することにはなりえない。『こうすれば良かっただろ』なんて言ってくるやつらは……」
そこまで言うと彼女が深く呼吸をする音が聞こえ、私は言葉を止めた。年々説教くさい話を止めるのが難しくなってうんざりする。あとで「お前が歳上であるという理由だけで、皆は話を聞いてくれるんだと知れ」と戒めねばならないだろう。
「でももうちょっと、後悔すると思ってました。こういうときって」
彼女の声は本の感想を述べるような冷静なものだった。同時に缶を置いたときの音で、もうそれがほとんど飲み干されていることに私は気づく。
「でもしませんでした、全く。倫理だって道徳だって授業でやってきたはずなのに。変ですよね?きっと後悔するべきなんでしょうね。なんでこんなことしちゃったんだろうって」
「……枠組みの役割というのはなるべく多くの人間を囲むことだと思う。だからそこからあふれるようなことをあなたにした者たちは、枠の外にいることを自覚すべきだった。それだけじゃないだろうか」
気づいた時には二本目の瓶が空になっていた。もう三本買ってくるべきだったなと思いつつ、私は二本目の瓶を置く。三本目に手が伸びるのも時間の問題だろう。
「ごめん、話の順序が悪かった。つまり何が言いたいかというとあなたを踏みにじった時点で相手は枠の外にいるのだから、あなたがわざわざそれにとらわれる必要はないだろうってことさ」
「またそんな……大人にそんなこと言われるなんて思ってもいませんでした。正しいことを言うのが大人だと思ってた」
「より長く生きたってだけだよ、大人なんてのは。そこに正しさとか誠実さは必ずしも同居しない。本来は同居すべきなんだろうけど、たかが数年、数十年多く生きたくらいで私たちはそれほど進化できない。それに私はとても悪い大人だからね、なおさらさ」
さすがに酒を飲ませはしなかったけど、と私は心の中で付け足した。空になった缶を見て牛乳かアイスティーならあるというと、彼女は丁重に断った。
「今日はありがとうございます。付き合っていただいて」
「いいんだ、私は復讐をできなかった人間だから」
「復讐を?」
「そう、復讐。する前に死んだのさ、相手が。だから私とあなたはどこか近いところがあるんじゃないかって」
言ってから傲慢だなと思った。私には彼女の辛さを決して理解できない。それは彼女がこの火傷痕について、何も知りえないのと同じように。だから私は次に彼女に会ったとき、それについて謝ろうと思っている。「知ったようなことを言って悪かった」と。
「あんまり甘やかされると反省しなくなっちゃいそうだから、通報してください」
どこか遠くの通りで、バイクが連なって騒音をたてている。それは自分たちの行いが正義だと騙されていることにさえ気づけない、憐れな軍勢の鬨の声みたいに聞こえた。私はそれが通り過ぎるのをゆっくりと待ってから通報をした。状況の割に私があまりにも慌てていないので、電話を切るころには少なからず嘘の通報じゃないかと疑われていた。もちろん警察官が電話口で「嘘だろ?」と言ってきたわけではないが、隠し事が苦手な人だったのだろう。
「あ、そうだ」
私はポケットから財布を取り出すと、名刺を彼女へ渡した。
「あなたの気が向いたらそこへ来ると良い。今度はスミノフをもう三本とおつまみを用意しておこう」
「ここが家じゃないの?」
「今月限りのね。タイミングが良かったんだよ」
「お姉さんがどんなに優しくしてくれても、私が罪を犯したことは……」
「もちろんだ。今の法律ではあなたが罪を犯したのは事実だ。それがこの世界の枠組みだからね。でも私はその枠の外にいる」
その意味をここで彼女に話す気はなかった。だからせめて名刺を渡すことにしたんだ。それで彼女と二度と会えなくてもしかたがないし、そもそもそれは私が決めることじゃない。
「なにこれ。境界調律師?」
「そう。悪い大人向きの仕事さ」
彼女は名刺に血が付かないように唯一汚れていないポケットへ丁重にしまった。
「とにかくあなたが戻ってきたときも私はそこにいるだろう。悪い大人というのは不可逆なものだからね」
「じゃあ私はもうだめじゃん」
「あなたはまだ大人じゃないから大丈夫さ。まあいずれにせよ私はあなたが決めることを尊重するよ。だからよく考えて」
「わかった、ありがとう」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。もうそんなに時間が経ったのかと私は思った。
「あとは後悔も反省も、あなたが必要と感じなければする必要はないと私は思う。あくまでこの枠は標準的な人間用のものだ。より正確に言えば」
そのとき、エレベーターの階数表示が何かを思い出したように動き出した。ゆっくりと減っていく数字はまるでカウントダウンのように見える。
「幸せであることに気づきもしないような人間用の枠組みだから。今後そういう人たちがどのような枠の中で生きているかを勉強すれば良い。学ぶのに遅すぎるということはないんだから」
「それ、アメリカの偉い人だよね?」
「おしい、イギリスの作家だよ」
「おしい?評価甘くない?」
「だってどっちも人間じゃないか」
今度はカウントアップをしたエレベーターが数人の警察官を連れてきた。彼らは手際よく凶器を回収し彼女に手錠をかけると、私を一瞥してエレベーターに乗った。
去り際に「ありがとう」と口を動かす彼女の表情は、どこか安堵の浮かぶ柔らかいものになっていた。
「あなたもちょっとお話をききたいのですが、署までご同行願えますか?御家瀬殿」
「もちろんだ。ちょうど飲み終わったしな」
あれから何回目かは分からないが、今年も信じられない早さで秋が死んだ。私は秋が好きなので、年々短くなる秋は融けて火の消えそうな蝋燭を見ているみたいで少しだけ憂鬱な気分になる。
とはいえ、そろそろ出なければならない時間だった。急いで上着を羽織り、左手に手袋をはめると私は事務所を飛び出す。メロンソーダ味のスミノフでもあればなと思いながら助手席のシートを一番後ろまで下げて足を組むと、運転手は右の角に手を当てながらあからさまに嫌そうな顔をした。
「シートベルトはしてよ」
「するさ。てか、そんな細かいこと言うなんてずいぶん人間らしくなったじゃないか」
「君が人間らしくない分、私がバランスをとっているんだ。とらせるなよ、悪魔に」
スジャンの顔がいくらか不機嫌になったように見えたが、一瞬で元の表情に戻る。彼女は昔から表情のバリエーションが少ない。ああもちろん、感情の揺れが少ないわけじゃない。それが表に出にくいだけだ。
「しかしあの子、案外早く出てきたね、御家瀬」
「良い子だからね。ただ星廻りが意地悪だったのさ。相手が襲いかかってきた証拠があって良かったな。少なからず正当防衛が認められた」
「それは本当にあったんだよな?」
「さすがに、そんな野暮なことはしないさ」
私は買っておいたノンアルコールメロンソーダを飲みながら答える。証拠があったのは本当に幸運だった。でなければ少なくとももう五年は出所が遅れたことだろう。
「珍しいな、甘い飲み物なんて。紅茶狂いのくせに」
「儀式だよ儀式。神社に行って手を合わせるのと一緒。飲む?」
「私はいい」
呆れるスジャンをしりめに窓の外へ目を向けると、景色がいつもより浮き足立って流れていくような、そんな気がした。
「なあ、なんでわざわざ彼女を助けるようなことをしたんだ?」
「それは誤解だよ。私は彼女と話し、名刺を渡しただけだ。何も助けていない。彼女がただうちへ来たいと手紙を寄越しただけのことだ」
スジャンは返事をしなかった。おおかた納得していないんだろう。確かに私たちにとって事件に出くわすことは珍しくないが、私が誰かを、ましてや容疑者を誘ったことなど一度もない。
「嫌かい?一人増えるのは」
「君が彼女の教育的に悪いんじゃないかと案じてはいるが、私が一身に面倒をみなくてよくなるのは願ってもない」
「スーがいれば問題ないだろう。私だけよりはよっぽど教育に良い」
「少しは省みてくれ」
文句を言いながらスジャンは丁寧にハンドルを切った。私は秋の亡骸に捧げる花は何にしようかと、そんなことばかり考えていた。




