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断罪された悪役令嬢ですが、真実の愛よりも大切なことを教えてさしあげますわ

作者: 上下サユウ

新作短編です。

「公爵令嬢アイリス・ランカスター! 聖女候補、リーナへの度重なる嫌がらせの噂が問題視されている以上、王太子たる俺としても看過できん! 故に、貴様との婚約を破棄する!」


 王宮の大広間で、王国の第一王子、アレクセイ・アークライトが高らかに宣言した。

 その隣には、あどけない顔立ちをした平民出身の聖女候補のリーナが寄り添っている。リーナは怯えたようにアレクセイの腕にしがみつき、勝ち誇ったような上目遣いでこちらを見ていた。


 誰もが、アイリスの反応を待っている。泣き崩れるのか、怒り狂うのか。しかし、当のアイリスは無表情のまま。いや、正確にはアイリスの視線は、アレクセイを見ておらず、手元の分厚い速記帳に、さらさらと羽ペンを走らせていた。


「……アイリス?」


 無視されたアレクセイが、少し気まずそうに話しかけた。


「おい、聞いているのか! 貴様の嫉妬深さと、リーナへの陰湿な嫌がらせには耐えられないと言っているんだ!」

「ええ、聞いておりますわ、殿下」


 アイリスは顔も上げずに答えた。だが、ペンの動きは止まらない。


「ただ、今のお言葉を公的記録として残すために、速記をしておりましたの。確認させていただきますね。『今ここで破棄する』とのご発言ですが、これは内務省規定第4条に基づく『正式な通達』と受け取ってよろしいですね?」

「あ、ああ! そうだ! 俺の本気を示すためにな!」

「承知いたしました」


 カツ、カツ、とヒールの音を響かせ、アイリスは一歩前に出たその瞬間、周囲の空気が変わる。

 彼女は眼鏡の位置を中指でくいっと押し上げると、氷のような瞳で王子を見下ろした。いや、身長差はあるが、精神的な位置関係において完全に見下ろしていた。


「では、現在時刻をもって、婚約契約の『一方的破棄』を受理いたします。つきましては、こちらの書類にサインをお願いできますか?」


 アイリスが書類帳から取り出したのは、一枚の羊皮紙ではなく、辞書ほどの厚みがある書類の束。


「な、なんだ、これは?」

「精算書ですわ。まず婚約期間中に我がランカスター家が負担した殿下の服飾費、外交費、並びに教育費の総額。これらは『将来の王配』への投資として計上しておりましたので、契約不履行により、全額返還となります。金貨にして約3億枚です」

「さ、3億だと……!?」

「次に、今、殿下の隣にいらっしゃるリーナ様のドレスは、私の発注した最高級シルクの余り生地で作らせたものですよね? 横領罪での告発を見送る代わりに、生地代と縫製費、及び『私の視界に入れた精神的苦痛代』を請求します」

「そんな……ひ、ひどい!」


 リーナが叫ぶが、アイリスは冷徹に切り返す。


「静かに。今は『国家予算』の話をしていますの。平民が口を挟む場面ではありませんわ」

「うっ……」

「そして、これが最も重要なのですが」


 アイリスは懐から懐中時計を取り出し、時間を確認した。


「殿下、明日の朝9時が隣国との通商条約の更新期限であることはご存じですよね?」

「つ、通商条約だと? ……あぁ、そう言えば宰相が言っていたような気がするな……」

「その条約の最終調整は誰がやっていると思っているのですか?」

「それは官僚たちが……」

「官僚たちは先週全員倒れましたわ。ここ三日間は、私が一人で回していますの」


 会場がどよめいた。

 ――アイリス・ランカスター。

 彼女は悪役令嬢として有名だったが、その悪名の由来は『冷酷』だからではない。『異常なまでの仕事人間』であり、無能な者を容赦なく切り捨てる、『氷の宰相補佐』としての悪名だ。


「殿下、貴方がこのパーティー会場で愛だの恋だのを叫んでいる間、私は隣国の財務大臣と為替レートを交渉し、北部の不作に対する備蓄米の放出指示を出し、ついでに貴方がリーナ様にプレゼントするために『機密費』から、こっそりと持ち出したネックレスの補填処理をしていました」


 アイリスの言葉が進むにつれ、アレクセイの顔色が青ざめていく。


「こ、公務ご苦労……。だ、だが、それはそれだ! 公務と愛は別なのだ!」

「ええ、別ですわ。ですから、私は公務の話をしています。私が婚約者でなくなるということは、私は『殿下の補佐』をする義務も法的根拠もなくなるということです」


 アイリスは書類帳をパタンと閉じる。その音は、まるで断頭台の刃が落ちる音のように響いた。


「条約の更新手続きがまだ終わっていません。残り作業時間は12時間。承認印は王太子である殿下のものが必要です。ですが、中身の精査と条文の修正は未完了です」

「それであれば、早くやるがいい!」

「お断りします」

「なんだと……?」

「たった今、婚約破棄されましたので、私はただの公爵令嬢に戻りました。王家の機密文書に触れる権限はありません。法律違反になりますもの」


 さらに、アイリスは冷ややかに釘を刺す。


「勘違いなさらないで。条約自体は有効ですが、手続きに必要な『認証鍵』は、私の担当官権限でロックされています。私を追放し、権限喪失した時点で更新システムは保全手順で凍結されました。つまり、貴方がご自身で『詰ませた』のです」


 アイリスは静かに微笑んだ。それは見る者を戦慄させる、完璧で冷酷な『営業用スマイル』だ。


「さあ、殿下。リーナ様とご一緒に朝まで頑張ってくださいね。条約更新に失敗すれば、我が国は関税率200%のペナルティを受け、経済は破綻します。国民の生活がかかった『愛の共同作業』ですわ。素敵ですわね」

「ま、待て! 俺には無理だ! 古代語の条文なんて読めない!」

「愛があれば言葉など必要ないのでは? 先ほどそうおっしゃっていましたよね?」


 アイリスはゆっくりと踵を返す。


「あ、それと、私の私物は明日中にまとめて引き取ります。私が構築した『王宮内物流管理システム』と『税収自動計算魔道具』も、私の特許ですので撤去させていただきますね」

「待て! それがないと国が止まってしまうではないか!?」

「止まればよろしいのでは? 愛の力で回してくださいませ」


 アイリスは会場の出口へと歩き出す。衛兵たちが慌てて止めようとするが、彼女が一瞥しただけで道を開ける。彼らの給与計算をしている者が誰なのか、彼らは知っているからだ。


「さようなら、殿下。……あぁ、せいせいしましたわ」


 最後に漏らした独り言だけは、誰にも聞こえないほど小さな、しかし心からの歓喜に満ちたものだった。

 

 こうして王国の歴史上、最も恐ろしく、最も事務的な断罪は幕を閉じた。

 だが、本当の残業(地獄)が始まるのは、ここからである。


 ◇


 アイリスが去った後の大広間は、まるで通夜のような静けさに包まれていた。華やかな音楽は止まり、貴族たちは互いに顔を見合わせている。彼らは皆、計算高い生き物だ。アイリスが抜けた穴が何を意味するのか、理解していた。


「……あー、アレクセイ殿下」


 恐る恐る声をかけたのは、宰相のグラハム侯爵。

 胃痛持ちで有名な彼は、今にも吐きそうな顔をしている。


「パーティーの途中ですが、至急執務室へ戻られた方がよろしいかと。アイリス嬢……いえ、ランカスター公爵令嬢が言っていた『条約更新』の件は、冗談では済まされませんので」

「そんなことは分かっている!」


 アレクセイは強がって叫んだが、その背中には冷や汗が流れていた。

 隣でキョトンとしている、リーナの手を引く。


「行くぞ、リーナ。君にも手伝ってもらう」

「は、はい! 任せてください、アレクセイ様! 私、こう見えても教会学校では成績優秀だったんです!」

「そうか、それは頼もしいな! やはり、アイリス如きがいなくとも、俺たちだけでなんとかなるのだ!」


 二人は手を取り合い、希望に満ちた表情で執務室へと向かった。

 だが、その根拠のない自信が粉々に砕け散るまで、後わずか10分である。


 ◇


 王太子執務室。

 そこは王国の心臓部であり、そして今は墓場と化していた。


「な、なんだこれは……?」


 アレクセイは愕然としていた。

 机の上には書類の山、いや、もはや壁だ。

 アイリスが普段座っていた副机の上は、私物がなくなり、綺麗に片付けられていたが、アレクセイの机には未決裁の書類が雪崩を起こしそうになっている。


「こ、これをすべて明日の朝までにだと……?」

「大丈夫ですよ、アレクセイ様! 二人で力を合わせれば!」


 リーナが愛らしくガッツポーズをする。その笑顔に励まされ、アレクセイは気を取り直して椅子に座った。


「そうだな。まずは喫緊の課題である隣国との『通商条約』だ。……ええと、ど、どこにあるのだ……?」


 書類の山を掘り返すが、どれが重要書類で、どれが雑務なのか区別がつかない。普段アイリスが、重要度『S』『A』『B』と付箋を貼り、決裁の優先順位を整理してくれていたからだ。


「これか……? いや、これは『王宮内厨房のタマネギ発注書』だ。なぜ、こんなものが俺の机に?」

「アレクセイ様、こっちは真っ赤な封筒ですよ? 可愛いですね!」

「待て、リーナ、それに触るな! それは『緊急討伐要請』の赤紙だ!」


 開始わずか5分。タマネギ発注書と魔物討伐依頼が同列に積まれている時点で、すでに執務は破綻している。

 アレクセイは脂汗を垂らしながら、ようやく、それらしき重厚な革表紙の束を見つける。


「これだ! 通商条約の草案だ!」

「すごいです! 早速、読みましょう!」


 リーナが横から覗き込む。アレクセイは意気揚々とページをめくり、そして凍りついた。


「……なんだ、これは?」


 そこに書かれていたのは複雑怪奇な文字の羅列。


「こ、古代公用語だと……?」

「え? アレクセイ様、これ読めないんですか?」

「読めるわけないだろう! これは考古学者か、一部の専門家しか使わない言語だぞ!?」


 隣国との条約は、歴史的な経緯から互いの国の言語ではなく、中立的な『古代公用語』で記述するというルールがある。だが、それはあくまで形式上の話であり、通常は現代語訳の要約書が添付されている。


「アイリス……! あいつ、まさか要約書だけを持って帰りやがったのか!? いや、違う……」


 アイリスが作成した要約書は、彼女の私的メモ(知的財産)という扱いに該当する。宣言通り、自分の成果物をすべて持ち去っただけだった。


「くそっ、辞書だ! 辞書を持ってこい!」

「は、はい! えっと……辞書ってどこですか?」

「そこの棚にあるだろう! ……いや、待て」


 アレクセイは本棚を見て絶望する。本棚には『アイリス私物・撤去済み』という張り紙があり、本は一冊たりとも残っていない。彼女は自分の使いやすい辞書や、参考資料を自費で購入して揃えていた。


「詰んだのか……」


 アレクセイが頭を抱えた、その時。部屋の隅に置かれた大きな魔道具である、クリスタルの板が埋め込まれた石盤が、「ブォン」と低い音を立てて点滅し始める。


「今度はなんだというのだ!?」

「綺麗ですね! 光ってますよ!」

「何を呑気なことを! それは『税収自動計算機』だ! アイリスが開発した……」


 魔道具から無機質な合成音声が響く。

『警告。管理者権限を持つ生体魔力コード『アイリス・ランカスター』の消失を確認。セキュリティプロトコル作動。システムをロックします』


 「バシュ」という音と共に、執務室の照明が落ちると、窓の外の王都の明かりも次々と消えていく。


「な、何が起きた!?」

「真っ暗なのです!」


 そこへ慌てて駆け込んできた衛兵が叫ぶ。


「殿下! 大変です! 王都全域の魔力供給ラインが停止しました! 水門の制御も、街灯の管理も、すべてあの魔道具で一括制御していたはずですが……!」

「し、知らん! 勝手に止まったんだ!」

「復旧にはパスワードが必要です! 設定した覚えは!?」

「あるわけないだろう! アイリスが作ったんだぞ!」


 暗闇の中、リーナが泣きそうな声で言う。


「アレクセイ様ぁ……私、お腹すきましたぁ。お茶飲みたぁい」

「今はそれどころじゃないだろう!」


 初めてアレクセイは、リーナに対して怒鳴った。

 ビクリと肩を震わせるリーナから涙が落ちるが、アレクセイの胸には、いつものような庇護欲が湧いてこない。代わりに湧き上がってきたのは、強烈な焦燥感と、ある一つの疑念だった。


(もしかして……俺は、とんでもないことをしてしまったのではないか?)


 アイリスは言っていた。「愛の力で回してください」と。しかし現実は非情だ。

 愛でインクは補充されない。

 愛で古代語は解読できない。

 愛で魔力供給システムは再起動しない。


「殿下、隣国の使節団から至急の連絡です! 『条約の最終確認はまだか? 夜明けまでに回答がなければ国交断絶も辞さない』と!」

「財務省から報告! システムダウンにより、明日の給与振り込みが不能です! 兵士たちが暴動を起こす可能性があります!」

「殿下! タマネギの発注書にサインをください! 明日のスープが作れません!」


 次々と飛び込んでくる凶報。

 アレクセイは震える手で羽ペンを握ったが、どこに何をサインすればいいのかすら分からない。

 横ではリーナが、「怖いよぉ、帰りたいよぉ」と泣き喚き、雑音にしかなっていない。


「アイリス……」


 無意識に、その名を呼んでいた。いつもなら、この机の横に彼女が立っていた。

「殿下、こちらにサインを」

「ここは確認済みです」

「リーナ様の相手は休憩時間にどうぞ」


 冷たくも的確に導いてくれていたアイリスの存在が、空気のように当たり前で、そして酸素のように不可欠だったことに、窒息しそうになって初めて気付いた。

 時刻は深夜2時。

 夜明けまで、後4時間。

 アレクセイとリーナの『真実の愛』が、膨大な業務と責任の前に崩れ去るまで、カウントダウンは続く。


 ◇


 アイリスの断罪から三日後。

 ランカスター公爵邸の応接室には、優雅な紅茶の香りが漂っていた。


「……素晴らしい」


 感嘆の声を漏らしたのは目の前に座る男性。

 漆黒の髪に、鋭い切れ長の瞳。仕立ての良い軍服に身を包んだ彼は、隣国であるガルバディア帝国の皇太子、ルーカス・ガルバディア。

 大陸最強の軍事国家であり、経済大国。その次期皇帝が、なぜかアイリスの前に座り、書類の束を熱心に読み込んでいる。


「我が国の通商法の穴を突き、関税を極限まで引き下げる、このスキーム……。これを君一人で構築したというのは本当か?」

「はい、殿下。当時の婚約者が、『新しいドレスが欲しい』と予算外の出費を強いたため、早急に財源を確保する必要がありまして。やむを得ず抜け道を利用いたしました」

「やむを得ずで法改正レベルの偉業を成し遂げないでくれ」


 ルーカスは苦笑いしながらも、その瞳には隠せない熱気が宿っていた。


「アイリス嬢、単刀直入に言おう。我が帝国に来てほしい」


 それは求婚の言葉よりも熱烈なヘッドハンティングのオファーだった。


「君の元婚約者、アレクセイ王子だったか。彼が君を解雇したという噂を聞いて、私は徹夜で馬を飛ばしてきたのだ。君のような『国家運営の心臓部』が野に放たれているなど、国家安全保障上のリスクですらある」

「過大評価ですわ」

「過小評価だ。君が去って三日、あの国はどうなった?」


 ルーカスが顎で窓の外を指す。

 そこからは王城が見えるはずだが、今の王城からはボヤ騒ぎらしい不穏な黒煙が上がっていた。


「物流は停止、為替は暴落、公務員は職務放棄寸前。たった三日でこれだ。君一人で支えていた証拠だろう」


 ルーカスは身を乗り出し、一枚の契約書を差し出す。


「我が国ならば、君にふさわしい労働環境を提供できる。優秀な部下を50名つける。予算の決裁権限も与える。そして何より……私の隣で、君の知識を存分に振るってほしい。君の作った政策で国が富むのを一番近くで見たいのだ」

「そ、それは……」


 アイリスの胸がときめいた。愛の言葉など一つもない。だが、「予算の決裁権限」と「優秀な部下」という言葉は激務に耐えてきた彼女にとって、どんな宝石よりも甘美な響きだった。


「……謹んで、お受けしますわ」


 アイリスが契約書にサインをしようとした、その時だ。


「ま、待ってくれぇぇぇ!!」


 応接室の扉が乱暴に開かれ、転がり込んできた、見るも無残な姿の男、アレクセイだ。三日前まで輝いていた金髪はボサボサで、目元には深いクマがあり、服にはインクの染みと、何かのソースがついている。


「ア、アイリス! 探したぞ! なぜ、城に来てくれないんだ!」

「不法侵入ですよ、アレクセイ殿下。警備員は何をされていたのでしょう?」

「警備隊長なら給料未払いで辞職してしまったのだ!」


 アレクセイはアイリスの足元に縋り付こうとしたが、ルーカスが立ち上がり、冷徹な視線で遮った。 


「無礼な。私の新しい『宰相補佐候補』に気安く触れないでもらおうか」

「だ、誰だ、貴様は……? いや、そんなことはどうでもいい! アイリス、戻ってきてくれ! リーナではダメなのだ! あいつは計算ができないどころか、字も読めないのだ! 『可愛いから許して』と言って書類に落書きまでする! もう限界だ! 君がいないと俺は過労死してしまう!」

「それはお気の毒ですわね」


 アイリスは冷ややかに見下ろした。かつて愛したかもしれない男。だが、今の彼女に見えているのは、ただの『不良債権』だった。


「ですが、アレクセイ殿下。婚約破棄を宣言されたのは貴方ご自身です。『真実の愛』とやらはどうなさいましたの?」

「あ、愛はある! あるが……愛では腹は満たせないどころか、下水道の詰まりも直せないのだ!」

「正解ですわ。ようやく学習されましたか」


 アイリスは手元の契約書にサラサラとサインを書き入れた。そして、それをルーカスに手渡すと、アレクセイに向き直り、懐から封筒を取り出す。


「学習された貴方へのご褒美に、これを差し上げます」

「……復縁の誓約書か!?」


 アレクセイが目を輝かせて封筒を開けると、中に入っていたのは一枚の紙切れ。

 ――『退職願 兼 国外退去通知書』。


「本日付で、私はガルバディア帝国の公務員として採用されました。これより出国いたします。二度と貴国の業務には関与いたしません」

「そんな……ま、待ってくれ! 給料なら倍出す! いや、3倍だ!」

「ルーカス殿下は10倍の提示をしてくださいましたよ」

「じゅ……」

「それと言っておきますが、金銭の問題ではありませんわ」


 アイリスは眼鏡を軽く押し上げ、冷たく最後の言葉を告げる。


「私は『プロ』です。無能な上司の下で働き、自分のキャリアに泥を塗る趣味はありません。殿下、貴方は経営者として失格ですわ」


 その言葉はどんな罵倒よりも重く、アレクセイの心を貫いた。彼はガクリと膝をつき、灰のように真っ白になった。


「行こうか、アイリス。君のために最高速度が出る馬車を用意させてある」

「ええ、参りましょう。道中の車内で、帝国の税制改革案について議論したいと思っていたのです」

「はっはっは、君は本当に仕事人だな。気が合いそうだ」


 ルーカスが優しくアイリスの手を取る。エスコートの仕草一つとっても洗練され、無駄がない。二人は絶望に沈むアレクセイを残し、部屋を出た。


 廊下に響く二人の会話が、アレクセイの耳に遠く届く。


「ちなみにだが、彼への引き継ぎ資料は?」

「作成に三か月かかりますので、置いてきておりませんわ。口頭で『頑張ってください』とだけ」

「それは酷いな。最高ではないか」


 有能すぎる悪役令嬢は、その才能を正しく評価する場所へと飛び立った。

 残されたのは崩壊寸前の国と、後悔にまみれた元王子だけだった。


 ◇


 あれから、三か月。季節は巡り、大陸には冬が訪れていたが、北の大国ガルバディア帝国の経済は、かつてないほどの熱気を帯びている。


 帝国城内、宰相補佐執務室。

 そこは以前の王国の執務室とは比べ物にならないほど広大で、最新鋭の魔道具が整然と並ぶ、まさに『機能美』を体現した空間だった。


「――以上が、今期の第四半期決算報告です。物流改革により、輸送コストを30%削減。余剰予算で国境警備隊の暖房設備を完備しましたわ」


 アイリスは報告書を閉じ、眼鏡の位置を直す。

 デスクの向かい側の皇太子ルーカスが満足げに頷いた。


「完璧だ、アイリス。君が来てからというもの、私の仕事が早すぎて昼過ぎには終わってしまう。おかげで視察という名のデートに行く時間が増えたというものだ」

「殿下、それはデートではなく、『現地調査』ですわ」

「君にとってはそうだろうが、私は君と議論ができる至福の時間なのだ」


 ルーカスは楽しげに笑う。

 この三か月、アイリスは水を得た魚のように働いた。彼女の提案は即座に予算がつき、実行され、そして成果を生んだ。「前例がない」「女のくせに」と足を引っ張る者は、ルーカスが笑顔で僻地へ飛ばしてくれたことで、ストレスも皆無だった。


「ところで、アイリス。君に一つ報告しておかなければならないことがある」


 ルーカスの表情が真剣なものになると、一枚の書状を机に滑らせた。


「君の故郷である、ランカスター王国からの『支援要請』だ」

「……そうですか」


 アイリスは眉一つ動かさずに受け取る。中身を見る必要すらない。内容は想像がつくからだ。


「内容は食糧援助と技術者の派遣要請。そして可能であれば、『アイリス・ランカスターの返還』を含んでいる」

「返還ですか? 私は物ではありませんし、そもそもあちらの法律では、すでに『国外追放』扱いのはずですが?」

「ああ、だから丁重にお断りしたよ。『彼女は現在、我が国の宰相(心臓)財務(頭脳)を兼任しているため、引き渡しは不可能であると。代わりにタマネギを10トン送る』とな」

「タマネギですか。栄養価は高いですから、適切な処置かと」


 二人は顔を見合わせ、クスリと笑った。


 ◇


 一方、ランカスター王国の王城は、冬の寒風に晒されていた。魔導暖房システムは故障したまま修理されず、下水道の逆流で廊下には冷気と悪臭が満ちている。かつて豪華絢爛だった王太子執務室には、薄汚れた平服を着たアレクセイの姿があった。

 彼の目の前には、未だ減ることのない書類の山。

 だが、彼の横にリーナの姿はなかった。


「……寒い」


 アレクセイが、かじかんだ手でペンを走らせる。

 リーナは一か月前に消えた。

 「こんな貧乏くさいお城なんて、もう嫌っ! もっとキラキラした生活ができるって言ったじゃない!」と叫び、隣国から来た富豪の商人に媚びを売り、夜逃げ同然に出て行った。


 「真実の愛」の賞味期限は、タマネギよりも短かった。


 扉が開き、一人の男が入ってくる。

 かつて、アイリスを「冷血女」と陰口していた側近の騎士だったが、彼もやつれ果てていた。


「殿下、いえ、アレクセイ事務官。市民からの苦情処理はまだ終わりませんか?」

「今やっているところだ……! だが、この『下水道の逆流に関する陳情』の読み方が分からないのだ……」

「はあ……。以前ならアイリス様が発生前に予測して清掃業者を手配していたんですがね」

「言うな! そして、その名前を出すな!」


 アレクセイは頭を抱える。今になってようやく分かったのだ。自身が『優秀な王太子』として振る舞えていたのは、すべてアイリスが敷いたレールの上を歩いていただけだったと。


 彼女が整えた道を、彼女が用意した靴で歩き、彼女が書いた脚本通りに喋っていただけ。それにも関わらず、自分は「レールが硬くて歩きにくい」と文句を言い、自らレールを破壊して脱線した。

 ――王として失格なのは、最初から自分の方だったのだ。


「……戻ってきてくれ、アイリス」


 アレクセイの呟きは、冷たい部屋の空気に溶けて消えた。机の引き出しには、かつて彼女が誕生日に贈ってくれた万年筆が入っている。だが、インクはとっくに切れていた。補充する方法すら彼は知らなかったのだから。

 

 ◇


 帝国の執務室。

 窓の外には美しい雪景色が広がっている。

 アイリスは温かい紅茶を飲みながら、ふと窓の外を見つめた。故郷の方角。そこに未練は一切なかったが、一つだけ思うことはあった。


「……殿下」

「ん? どうした、アイリス」

「私は今、とても幸せですわ。愛よりも大切なことは世の中に山ほどありますけれど、それらを理解したうえで私を尊重してくださる殿方は、そう多くはございませんもの」


 それは彼女が初めて見せた計算も演技もない、心からの微笑みだった。


 数字と効率の世界に生きてきた彼女が初めて見つけた、『計算できない価値のあるもの』。それは自分の能力を正当に評価し、信頼してくれるパートナーの存在だった。


 ルーカスは目を見開き、そして優しく微笑み返す。

 彼は立ち上がり、アイリスの座る椅子の背に手を置いた。


「それは重畳。では、その幸せを『永続的な契約』に更新したいのだが、どうだろうか?」

「契約更新ですか?」

「ああ、期間は生涯。報酬は……私のすべてだ。公務の合間で構わない。検討してくれないか?」


 それは遠回しだが、これ以上ないほど実務的なプロポーズだった。

 アイリスは少し驚き、そして頬を僅かに赤く染めて手元のスケジュール帳を開く。


「そうですね……。現在進行中のプロジェクトが5件、来月の予算編成会議が3件……」

「おいおい、断る口実を探しているのか?」

「いいえ、結婚式の準備を入れる『隙間』を探しております」


 アイリスは悪戯っぽく笑い、ペンを走らせた。


「最短で三か月後の午後なら空いていますわ。式場の手配と招待状のリストアップは、私の方で進めておきますね。効率的に」

「……参ったな。君には一生勝てそうにない」


 ルーカスがアイリスの手を取り、その甲に口づけを落とす。

 

 断罪から始まった物語は、賠償請求書の代わりに、一通の結婚招待状となって幕を閉じる。

 もちろん、その招待状が元婚約者アレクセイの元に届くことはない。

 彼には招待状を読む暇も、返信用の切手を買う金もないのだから。

お読みいただきありがとうございました!

2025.12月12日より、【連載版】(完結保証)を始めました。

https://ncode.syosetu.com/n9525ll/


是非、ブックマークと、↓【★★★★★】の評価をお恵みくださいませ!


他にも↓投稿してますので、ぜひ見てくださいませ。


【短編】断罪された悪役令嬢ですが、国中の契約書に私のサインが入っていることをお忘れではなくて?

https://ncode.syosetu.com/n7157lj/

[日間]ハイファンタジー9位。


【短編】断罪された日から元婚約者の背後に『見えないもの』が見えるようになりました

https://ncode.syosetu.com/n6546lh/

[日間]総合 - 短編132位。


ついでに、誤字・脱字修正しました。

それではまた( ´∀`)ノ

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