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『天気予報士、悪役令嬢になる。』 ― 空を読む者、神を越えぬ祈り ―  作者: 南蛇井


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異様な静寂 ―「嵐の目」

深夜2時17分 ―「台風第12号・接近中」


 深夜二時十七分。

 世界が風の咆哮に呑まれていた。


 台風第十二号――中心気圧九二五ヘクトパスカル。

 最大瞬間風速、時速六十メートルを超える“災害級”。

 太平洋沿岸、防波堤の上に設けられた臨時観測拠点は、まるで小舟のように震えていた。


 カメラが揺れ、照明車が軋みを上げる。

 海風が横殴りに叩きつける中、ひとりの女性がマイクを握って立っていた。


 天川めぐみ。

 民放気象キャスターであり、同時に現場観測のスペシャリスト。


 レインコートのフードを深く被り、彼女は風速計を覗き込む。

 顔を打つ雨粒の痛みに眉ひとつ動かさず、冷静な声で実況を続けた。


「現在、風速二十五メートル! 瞬間最大は三十を超えています!」

「台風第十二号、進行速度は予想より速く、このままではあと一時間で上陸の見込みです!」


 風が彼女の声を攫う。

 マイクのノイズが重なっても、その眼差しはぶれなかった。


 彼女はただ、空を見ている。

 そこに恐怖はなかった。

 嵐の奥にある“構造”を読み解こうとする――観測者の眼。


 周囲ではスタッフがロープを押さえ、逃げるように照明機材を固定している。

 傘は無意味に裏返り、雨が横から刺すように降り注ぐ。


 それでも、めぐみは立っていた。

 暴風の中、まるで“空に対話を挑む人間”のように。


 モニター越しのディレクターが叫ぶ。


『メグ、危険だ! 風が北に回った、退避しろ!』


 だが、めぐみは微笑んで首を振る。


「大丈夫、予測の範囲です。」


 その言葉と同時に、カメラの向こう――

 雲の中心が、ゆっくりと裂けた。


 風が止む。

 世界から音が抜け落ちた。


 めぐみの頬を伝う雨の筋が、途中で途切れる。

 彼女は息を呑み、空を見上げた。


 灰色の渦の中心、ぽっかりと開いた穴。

 その奥には、夜の闇を溶かすような“蒼白い光”が瞬いていた。


「……ここが、目?」


 呟きは風に消えず、静寂に溶けた。

 嵐の目――そこだけが、まるで異世界のように穏やかだった。


 そして、次の瞬間――


『……メグ、下がれ! 雷の――』


 通信がノイズにかき消される。

 海の彼方で、白光が閃いた。


 轟音。

 視界が白に焼き尽くされる。


 その一瞬、めぐみは確かに感じた。

 ――空に、見られている。


――その瞬間、風が止んだ。


 ついさっきまで唸りを上げていた暴風が、まるで息を潜めたように沈黙する。

 潮と鉄の匂いだけが、空気の中に濃く残っていた。


 マイクに入るはずの風音が、ふっと消える。

 ノイズも、波の音も、まるで世界ごと“ミュート”されたかのようだ。


 カメラが不気味なほど安定し、光量が一瞬だけ戻る。

 照明の反射が、めぐみの頬に淡く滲む。


「……風、止んだ?」


 カメラマンのかすれた声。

 その呟きが、世界の中で唯一の“音”だった。


「えっ……?」


 めぐみは思わず顔を上げた。

 頬を叩いていたはずの雨が、落ちてこない。


 視界の灰が、ゆっくりと――上へ裂けていく。


 空だった。

 いや、“空が開いた”としか言えなかった。


 雲が外側へと退き、渦を描きながら巨大な円を形づくる。

 その中心に、ぽっかりと――蒼白い穴が浮かんでいた。


 夜明け前の空でも、雷光でもない。

 あれは、昼の色を裏返したような光。

 温度を失った“太陽の影”。


 めぐみは息を呑む。


「……ここが、目?」


 口に出した瞬間、胸の奥で鼓動がひとつ、静かに跳ねた。


 彼女の声が、奇妙なほど遠くまで響く。

 風がない。波がない。世界そのものが、彼女の言葉を聴いているようだった。


 空気が重くなる。

 なのに息苦しくはない。

 何か――大きな“意志”が上空から覗き込んでいるような感覚。


 雲の裂け目の向こうで、何かが彼女を見ている。

 そう確信できるほどの“目”だった。


『……メグ、下がれ! 雷の――』


 ヘッドセットから、ノイズ混じりの声。

 けれどその警告は、もう彼女の耳に届かなかった。


 白光。

 世界が一閃の中で、形を失った。


――風が、止んだ。


 たった一秒前まで、世界は咆哮していた。

 波が砕け、風が唸り、空が怒りを吐き出していたはずなのに。


 それが突然、途切れた。


 マイクが拾う音が、何もない。

 照明が安定し、カメラの揺れが止まる。

 まるで、嵐そのものが息を潜めたようだった。


「……風、止んだ?」


 カメラマンの声が、妙に鮮明に聞こえた。

 風音が消えた世界で、その小さな声だけが異様に響く。


「えっ……?」


 めぐみは顔を上げる。

 頬を叩いていた雨が、落ちてこない。


 灰色の空が――裂けていた。


 ゆっくりと、まるで誰かの手が雲を左右に押し広げるように。

 その隙間から、蒼白い光が覗く。


 夜の色でも、雷の閃光でもない。

 冷たいのに、眩しい。

 まるで“太陽を裏返したような”光だった。


「……ここが、目?」


 自分の声が、空気の中に吸い込まれていく。

 反響も、風の返事もない。

 ただ、世界が彼女の言葉を静かに聴いていた。


 次の瞬間、ヘッドセットにノイズが走る。


『……メグ……聞こえるか……? 風が止んだか?』


 ディレクターの声。

 けれど、言葉の途中でザーッという雑音に飲まれる。


「こちら天川、風速ゼロ――」


『……メグ、下がれ! 雷の――』


 その声が途切れると同時に、世界が白く弾けた。


 轟音。

 目も耳も、焼き尽くされる。


 光の中で、めぐみは確かに感じた。


 ――“見られている”。


 空が、こちらを見下ろしていた。

 それは怒りでも、祝福でもなく。

 ただ、観測する者のまなざし。


 まるで「お前も空を見ていたのか」と、囁くように。


 そして、音がすべて消えた。

 マイクが地面に落ちる乾いた音だけが、最後に残った。


 世界は白に包まれ、めぐみの意識は――闇へと沈んでいく。


――空が、光った。


 それは雷鳴というにはあまりに静かで、

 閃光というにはあまりに遅かった。


 海上の黒い波間に、ひと筋の白が走る。

 それは線ではなく、まるで“空と海を縫う糸”のように、

 真っ直ぐにこの世界を貫いた。


 次の瞬間――世界が、白に塗り潰された。


 轟音も、風の咆哮も、全てが消える。

 鼓膜が麻痺したわけではない。

 本当に、音が存在しなくなった。


 めぐみの身体が、時の流れから切り離されたように止まる。

 雨粒が空中で凍りつき、光が粒となって漂っている。


 白光の中、彼女だけが“静止した世界”の中に立っていた。


「……なに、これ……?」


 声が出たのかどうかさえ分からない。

 自分の息が震えるのを、ただ感じた。


 そして――それは現れた。


 雲の裂け目の奥。

 蒼白の空のさらに向こうで、

 “何か”が、こちらを見ていた。


 それは形を持たない。

 けれど確かに、**“眼”**だった。


 巨大な意志のようなまなざし。

 怒りでも慈悲でもない、

 ただ、観測する者の眼差し。


その瞬間、めぐみは理解した。

「……この空、私と同じなんだ。」


 空は怒っているわけじゃない。

 泣いているわけでも、癒しているわけでもない。


 理解しようとしている。

 この世界を。

 そして、自分という“観測者”を。


 めぐみは微笑んだ。

 涙が滲む。

 それは恐怖ではなく、安堵に近い感情だった。


「――そっか。私も……ずっと、あなたを見てたんだね。」


 白光がさらに強くなる。

 世界が、限界まで“明るく”なる。


 視界の端で、マイクが彼女の手から滑り落ちた。

 金属が地面に触れる乾いた音だけが、現実に残る。


 そして、意識が――光の中へと溶けていった。


 最後に聞こえたのは、

 海の音ではなかった。


 “鐘の音”。


 それは、遠い異国の朝を告げるように。


――静寂が、降りてきた。


 白光に包まれた世界は、ゆっくりと輪郭を失っていく。

 風は止み、雨は消え、波音さえも遠のいていく。


 すべての音が、まるで遠い記憶のようにフェードアウトしていく中で――

 めぐみの意識だけが、静かに浮かんでいた。


(モノローグ)

「空はいつも、私を見下ろしていた。

 雲の流れも、雷の光も、すべて観測できると思ってた。

 ――でも、違ったんだ。」


 声が、白い空間に吸い込まれていく。

 その言葉は誰に届くこともなく、ただ淡く溶けていった。


「今日、初めて……私が“空に見られた”気がする。」


 その瞬間、胸の奥で何かが“ほどける”音がした。

 科学者としての確信も、観測者としての執念も、

 すべて光に溶けていく。


 遠くで、鐘の音が響いた。

 ひとつ、ふたつ――まるで新しい朝を告げるように。


 白光がゆっくりと暗に染まり、

 めぐみの輪郭が黒の中に溶けていく。


 最後に見たのは、“空”だった。

 蒼く、無限に広がる空。

 そこに浮かぶ光の粒が、やがて一つの言葉に変わる。


「――観測、終了。」


 そして、世界は闇に落ちた。



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