ノートの記録
地下に降りる階段は、ひんやりとした風の香りに満ちていた。
《空の学院》の書庫。
ここは、時そのものが眠る場所だ。
棚という棚に積み上げられた観測記録、数式の走り書き、風を詠んだ詩――。
古びた羊皮紙の匂いが空気に溶け、木製の床が小さくきしむ。
天井の小窓から射し込む夕陽は、斜めの光の帯を描き、
漂う埃の粒子を金色に染め上げていた。
――それは、まるで“過去の観測データ”が、静かに宙を漂っているようだった。
若い学生が、棚の影で資料を整理していた。
手元の蝋燭の火が、小さく揺れる。
分類札のついた分厚い冊子を積み直していたその指が、
ふと、ひときわ古びた革の表紙に触れる。
その本だけ、明らかに異質だった。
手に取ると、表紙の革は乾き、角は擦り切れ、
長い年月を語るように、静かにひび割れている。
指先でそっとなぞる。
そこには、かろうじて読める小さな刻印があった。
――「M.A.」
学生は眉をひそめ、息を止めた。
どこかで、その頭文字を見た記憶がある。
それが、学院創設の初期資料にしばしば登場する“名”だということを――
まだ、この瞬間には、知らなかった。
学生はそっと息を吸い、表紙の埃を払い落とした。
乾いた革がかすかに鳴る音が、書庫の静寂に溶けて消える。
ページをめくると、そこには細密な風の軌跡が描かれていた。
円弧、渦、矢印――すべてがまるで生きているように連なり、
ところどころには手書きの注釈が走っている。
“気圧境界線の呼吸”
“雲は沈黙の形をしている”
それは、単なる学問の記録ではなかった。
まるで――誰かが“空と対話していた”証のようだった。
学生の指先が、ゆっくりと次のページへと動く。
だが、最終頁でその手が止まった。
そこだけ、文字の筆致が違う。
細く、柔らかく、まるで語りかけるような文字で綴られていた。
> 『観測をやめた夜、私は初めて“見ること”を知った。
> あの夜の名を、私はこう呼ぶ。
> ――愛の夜、と。』
学生は、その一文を目で追いながら、息を呑んだ。
何かが、胸の奥で静かにほどける。
指先が文字をなぞり、
その温もりの残滓を確かめるように、そっとページを閉じる。
小窓の外では、夕風が学院の塔を撫でていく。
カーテンがふわりと揺れ、光の粒が舞い上がる。
――まるで、あのノートの言葉に呼応するように。
書庫の小窓の向こうで、夕陽が沈みかけていた。
茜に染まった空は、やがてゆるやかに紫を帯び、
その境界線を淡い金色が縁取っていく。
カサリ、と小さな音。
風が小窓を抜け、机の上の古びたノートをそっと撫でた。
ページが一枚だけ、ゆっくりとめくられる。
その動きは、まるで“誰かの呼吸”のように穏やかで、あたたかい。
学生はその光景を見つめながら、思わず呟いた。
「……“見ること”を、知る夜……。」
言葉が風に溶け、書庫の中で柔らかく反響する。
視線が自然と窓の向こうへ向かう。
そこには、《空の学院》の塔が立ち、
さらに遠くには、王都の屋根が夕光を受けてきらめいていた。
そして――そのすべてを包みこむように、空が輝きを増していく。
茜でも紫でもない、“理解された光”の色。
学生は胸の前でそっと手を重ね、
目を細めながら、その空を見上げた。
風がもう一度、書庫を通り抜ける。
ノートの端が揺れ、
ページの上に残る文字が、光を受けてやさしく瞬いた。
――その夜から。
人は空を見上げるたびに、
“理”と“祈り”の両方で、風を読むようになった。
それが、《空の学院》の始まりであり、
人と天とが共に在る時代の、最初の一頁だった。
*
カメラのような視点が、静かにノートの上から引いていく。
書庫の中は、夕闇に沈みながらも、どこかあたたかい。
古い木の棚の間に並ぶ燭台――
一つ、また一つと火がともり、
橙の灯がゆらめいては、まるで夜空の星々のように瞬いた。
風が再び吹き抜ける。
ノートのページが、ふわりと揺れる。
その紙の上で、最後の一行――
『――愛の夜、と。』
インクの筆跡が微かに光り、
まるで今も呼吸しているかのように揺らめいた。
風が灯を撫で、書庫の中に静寂が戻る。
だがその静けさは、終わりではなかった。
それは、始まりの静寂。
外では、夜風が学院の塔を包み、
高みの鐘が――新しい時代の到来を告げるように、静かに鳴った。




