静寂の空
――夜が明けきる少し前、王都北部の丘には、まだ嵐の残響が残っていた。
崩れ落ちた観測塔の残骸が、静かに灰の中に眠っている。
石と鉄と魔力結晶が混ざり合った瓦礫の上で、ただひとつ、風計の羽根だけが生きていた。
かすかな風を受け、ぎい、と音を立てて回る。
それはまるで、世界の呼吸のように、規則的で、優しかった。
リュシアンは瓦礫を踏みしめながら、崩れた塔を見上げた。
頬を撫でる風は冷たいのに、不思議と心の奥まで澄み渡っていく。
「……あの日から、風の流れが変わった。」
隣で、白衣に修道服を重ねたアイリスが小さく頷く。
彼女の手の中には、祈りの珠と理術符が一緒に握られていた。
信仰と理――かつて相反したそれらが、いまは彼女の中で静かにひとつになっている。
「ええ。祈りも、少しずつ“聞こえるように”なりました。」
彼女の声は、風と同じ温度をしていた。
哀しみではなく、受け入れの音。
消えてしまった誰かの名を呼ぶでもなく、
ただ、この空に向かって微笑むような声だった。
リュシアンは目を細め、遠くの空を仰いだ。
――かつて黒雲が覆っていたその空は、今、穏やかな青に変わっている。
「彼女が見た“空”って、きっと……こんな色だったんだろうな。」
風計の羽根がまたひとつ音を立て、
丘を渡る風が、静かにふたりの間を抜けていった。
風が頬をかすめた。
春のように柔らかく、それでいてどこか懐かしい。
アイリスがその流れに顔を向け、そっと目を細める。
崩れた塔の向こう、雲の切れ間から覗いたのは――深く透き通った青。
それは、メグが最後に“理解した空”の色だった。
「……彼女は、空と一緒にいるのですね。」
アイリスの声は、祈りのように静かだった。
消えた友の魂が、どこか遠くの風の中に溶けている。
そんな確信が、言葉よりも自然に胸に宿る。
リュシアンはゆっくりと頷く。
視線の先には、朝の光を受けてきらめく風計の羽根。
ひとつ回るたびに、彼の胸の奥にも何かが確かに回り始めていた。
「……ああ。きっと今も“観測”を続けている。」
「怒りでも、奇跡でもない――ただの“理”として。」
彼の声に、アイリスが微笑む。
風がふたりの間を抜けていく。
その風が、まるで彼女の笑い声のように優しく吹いた。
リュシアンの髪が揺れ、遠くで――鐘の音が、かすかに響く。
空は静かに、その音を抱きしめていた。
風が、再び吹き抜けた。
それはもはや嵐の名残ではなく、穏やかな呼吸――世界そのものの息づかい。
瓦礫の隙間を通り抜け、観測塔の跡地に残されたノートの端を優しくめくる。
古びた紙の上で、文字が一瞬だけ光を放ったように見えた。
「空は、怒らない。
理解されるまで、何度でも流れる。」
その文を最後に、ページは風に攫われる。
ひらり、ひらりと舞い上がり、青の彼方へと消えていった。
その瞬間、世界が――静かになった。
空と地の境界が曖昧になる。
風はただ流れ、光はただ降り注ぐ。
そこに意志も、奇跡もない。
あるのは、“理”と“祈り”が溶け合った、純粋な存在の呼吸。
そして、穏やかな声が響く。
それはメグの声であり、空そのものの声でもあった。
「人は空を制御できない。
――けれど、空を愛することはできる。」
青がすべてを包み込む。
風が、世界の記録を新しいページへとめくっていく。
雲がゆっくりと流れていく。
夜明けの光が王都を包み込み、瓦礫の屋根が金色の朝陽に照らされる。
通りへと人々が歩み出す。
誰もが、自然と空を仰ぎ――微笑んでいた。
嵐の痕跡を残したままの空は、それでも澄んだ青を取り戻している。
鐘の音が、柔らかく響く。
その音に導かれるように、空の彼方に虹のような風の軌跡が描かれた。
それは、まるで空が「応えた」かのように、静かに光っていた。
リュシアンは、瓦礫の上からその光景を見上げ、目を細める。
唇が、ひとりごとのように動いた。
(――観測は、終わらない。
誰かが空を見上げるかぎり。)
風が彼の頬を撫で、髪を揺らす。
その流れは、どこか懐かしく――まるでメグの笑い声のように聞こえた。
カメラ(視点)はゆっくりと上昇していく。
王都が遠ざかり、雲の海を越えて、空の果てへ。
最後に映るのは、風のきらめきだけ。
やがて風音がフェードアウトし、
――世界は新しい朝へと、静かに目を覚ます。




