祈りと犠牲 ― 教会の暴走
夜空を裂くように、鐘の音が鳴り響いた。
それは祝福の鐘ではない。
まるで、神に赦しを請うための“懺悔の音”のようだった。
石畳の上には、無数の人々が跪いている。
雨に打たれ、泥にまみれながらも、誰ひとり祈りをやめようとしない。
「主よ、怒りを鎮めたまえ……風を、沈めたまえ……!」
声が重なり、嗚咽とともに夜空へと吸い込まれていく。
子どもが泣き、老人が倒れ、それでも隣の者がその手を握って祈り続けた。
――誰もが信じていた。
この祈りが、いつか嵐を鎮めてくれると。
だが、空は応えない。
むしろその祈りに呼応するように、黒雲が脈動を始めていた。
大聖堂の階段上。
白銀の法衣を纏ったセレス司教が、両手を掲げる。
金の杖の先から光が奔り、雨を突き抜けて天へ昇る。
その瞬間、雷鳴が轟き、空が一瞬だけ白く裂けた。
セレス司教:
「神の怒りを鎮めるには――信仰を示すしかない!」
聖職者たちが杖を掲げ、祈祷文を唱和する。
魔法陣が地面に浮かび、赤と金の光が雨の中で歪んだ。
――そのたびに、空の雲が“応える”ように動く。
まるで祈りを吸い込むように、嵐の渦が広がっていく。
だが、それは神の加護ではなかった。
観測者なら一目でわかる、“理の歪み”だ。
大気の魔力流が、人為的に増幅されている。
《ヴァル・ノア》――古代の空の制御装置が、
民の祈りを“燃料”として再起動していた。
セレス司教の声が、風に乗って響く。
「命を捧げよ! この祈りが届くならば、空は赦す!」
その言葉を合図に、人々はさらに深く頭を垂れた。
祈りの声が、悲鳴のように夜を満たしていく。
そして――空が、笑った。
黒雲の裂け目から、稲光が牙のように走る。
嵐は、もはや誰の手にも負えない“信仰の怪物”と化していた。
その夜、王都の空は祈りに覆われ、
理は沈黙し――神の名を騙る風が吹いた。
――祈りが風を殺し、理がそれを見抜く。
雨が降りしきる聖堂前。
地を叩く雨粒の音と、祈りの声が渾然となって夜を満たしていた。
そこへ、ひと筋の影が群衆を割って進む。
メグ。
肩まで濡れた髪を束ね、泥の中をまっすぐ歩く。
雷光がその頬を照らし、ローブの端が水を吸って重く垂れた。
隣にはリュシアン。
彼もまた、濡れた外套のまま彼女の背を守るように続いていた。
「道を開け! 王命だ!」
リュシアンの声に、民たちは一瞬たじろぐ。
だが、すぐに再び祈りの声が高まり、雨音に呑まれていく。
メグは、光に包まれた壇上を見上げた。
セレス司教が、両手を掲げて“天”に祈りを送っている。
その杖の先から放たれる金の光は、確かに天へ昇っていた――だがそれは祈りではなく、“供給”だった。
メグ:
「やめて! その祈りは風を鎮めるんじゃない――煽っている!」
雷鳴が答えるように轟き、空が震える。
セレス司教は振り返り、怒りをあらわに声を張り上げた。
セレス司教:
「黙れ、異端の理術師! 神の御業を否定するのか!」
メグ:
「信仰は、空を恐れることじゃない!」
だが、誰も聞こうとはしなかった。
民たちの口は動き続け、声はひとつに溶け合う。
まるで“意志”を奪われた人形のように、同じ祈りを繰り返している。
リュシアンが息を呑む。
「……これは、まさか……」
メグは拳を握りしめ、唇を噛む。
目の前の光――それは神の奇跡ではない。
彼女には見えていた。祈りの波動が空気を震わせ、
《ヴァル・ノア》の魔力線と“共鳴”していることを。
メグ(低く)
「……ヴァル・ノアが、祈りを喰ってる。」
空に閃光が走る。
黒雲の渦がゆっくりと回転を始め、風が逆流する。
民たちの祈りが強まるほど、嵐は大きくなっていく。
祈りが空を鎮めるどころか――空そのものを燃料にしていた。
メグの声が雨の中に響く。
「お願い、目を覚まして!
それは“祈り”じゃない……“空を縛る鎖”よ!」
だが、彼女の叫びは届かない。
人々の瞳から光が消え、ただ“信仰”だけが残っていた。
――嵐の中心で、理が叫び、祈りが狂う。
空は泣いていた。
まるで、人の祈りに苦しむように。
雨の帳の向こう。
群衆の祈りの中で、ひときわ白い影が立っていた。
修道服の裾が泥に濡れ、細い手が震えながら印章を掲げている。
その姿を見た瞬間――メグの足が止まった。
稲光が走り、白いフードの下から覗いた顔。
まだ幼さを残した瞳。
けれど、その瞳をメグは知っていた。
「……メグ先生?」
雨音の中でも、はっきりと聞こえた。
懐かしい声。
あの干ばつの村で、空を信じることを教えた少女――アイリス。
メグは息を呑み、言葉を失う。
だが次の瞬間、その手に握られた教会の印章が光を放つ。
祈りの呪文が、他の修道女たちと同じ調子で紡がれていた。
「あなたまで……祈りを捧げてるの?」
問いかけは責めではなく、悲しみに近かった。
アイリスは雨に濡れたまま、視線を逸らし、小さく震える声で答える。
「神父さま――エルンなら、きっとあなたの言葉を信じたと思う……。
でも、みんな怖いの。
空が怒ってるって……どうしても、そう思えてしまうの。」
その言葉に、メグの胸が締めつけられた。
恐れ。
それは人の祈りの原点であり、同時に理を曇らせる霧でもあった。
メグはそっと彼女の手を取った。
冷たい指先を包み込み、雨で濡れた頬を指で撫でる。
「なら、あなたが信じて。
空の理は――誰も罰しない。
それを、あなたが伝えて。」
雨粒が二人の手を濡らし、光の粒のように弾けた。
アイリスの瞳に、わずかな揺らぎ。
祈りの言葉が途切れ、代わりに息が漏れる。
稲光が再び夜空を裂く。
その光の中で、アイリスの瞳がほんの一瞬――“空色”を取り戻した。
「……先生、空は……本当に怒ってないの?」
メグは微笑んで頷く。
「ええ。
空は、ずっと見てるだけ。
――私たちが、また“空を愛せる日”を。」
風が吹き抜け、二人のフードを揺らした。
群衆の祈りの波が少しだけ緩み、
その中で、ひとつの“祈りではない祈り”が――確かに芽吹いていた。
轟音。
それは雷ではなく、“空の悲鳴”だった。
聖堂前の広場に描かれた巨大な魔法陣が、赤と青の光で脈打ち、
空へと伸びる光の柱が、まるで天へ祈りを突き立てる槍のように輝いていた。
群衆の祈りの声がひとつの波となって、地を震わせる。
雨が止んだ――いや、“上空の風”が止まったのだ。
不自然な静寂。
その沈黙の中心で、メグの肌を刺すような魔力の圧が走る。
通信機の魔石が唸り、エルネストの声が響いた。
「メグ! 祈りの共鳴波が限界を超えた!
このままでは、王都全体が“理術の暴風”に呑まれるぞ!」
メグの指が震える。
彼女の視界の端で、波動グラフが狂ったように跳ね上がっていく。
「そんな……もう臨界を……!」
リュシアンが群衆の中を突き抜け、司教の前に立ちはだかる。
「セレス司教! 儀式を止めろ!
このままでは誰も救われない!」
だが、司教は狂信の笑みを浮かべ、両腕を天に掲げた。
金の杖が雷光を受け、目も眩むほどの光を放つ。
「神の試練だ!
この命を捧げてでも――我らは、空を贖うのだ!」
次の瞬間――。
空が割れた。
轟く光柱が天から落ち、聖堂の尖塔を貫く。
石壁が裂け、祈りの列が弾け飛ぶ。
爆風がメグのローブを翻し、雨と瓦礫と光が交錯する。
地上へと触れた“ヴァル・ノア”の意思。
その衝撃波が、まるで神の怒号のように響いた。
メグは叫んだ。
「祈りを止めて――!
あなたたちの命が、空を殺してるのよ!」
彼女の声は確かに届いた。
けれど群衆は泣きながら、なおも祈りを続けた。
誰もが“神の怒り”を恐れ、誰も“空の理”を信じていなかった。
その祈りは、もはや信仰ではなかった。
――恐怖が形を成した“鎖”だった。
リュシアンがメグの肩を掴む。
風が唸り、魔法陣の外縁が崩壊を始める。
「このままじゃ……王都ごと吹き飛ぶ!」
「……まだ間に合う。空は、まだ“聞いてる”。」
メグの瞳が蒼く輝く。
雷鳴が轟く中、彼女は歩みを止めなかった。
空が怒っているのではない。
――“人が空を誤解している”だけだ。
その真理を、彼女は証明しようとしていた。
暴走する光の奔流。
魔法陣の輪郭が崩れ、空へ伸びた光柱がねじれ始めていた。
雷鳴は連続して大地を叩き、雨は針のように降り注ぐ。
群衆は泣き叫びながら祈りを続ける。
“神の怒り”を恐れ、声を張り上げるほどに、ヴァル・ノアの輝きは強くなっていった。
だが――その中で、ひとりだけ静かに声を止めた者がいた。
白い修道服の裾を泥に濡らしながら、
少女――アイリスが、ゆっくりと膝をつく。
「……ごめんなさい、メグ先生。」
その声は、嵐の轟きの中でも不思議と澄んで響いた。
震える唇が、幼い決意を紡いでいく。
「私、今やっとわかった。
神さまは……こんな風に怒らない。」
彼女は胸の前で手を組み直す。
祈りではなく、“観測”の構え。
両の掌の間に、淡い魔力の紋が灯る。
それは――かつてメグが村で教えた、
“風を読むための理式”だった。
「東からの風、低く、やさしく……。
空の層は、まだ眠ってる……。」
アイリスは、祈りではなく風の言葉を唱えた。
彼女の声に呼応するように、
暴風の渦が一瞬だけ緩み、聖堂上空を流れる雲がほどけていく。
その変化を、メグは見逃さなかった。
雨に濡れた頬を上げ、心の中でそっと呟く。
(……そう、それでいい。
祈りじゃなく、理解で――空と話して。)
轟音の中、風向きが変わる。
押し寄せていた暴風が一瞬だけ“呼吸”を取り戻した。
まるで、少女の言葉に“空”が応えたかのように。
リュシアンが息を呑む。
エルネストの通信越しの声がかすかに届く。
「今のは……理式の反転応答……?
馬鹿な、まさか“空”が、少女に――応じたのか……!」
メグはゆっくりと立ち上がる。
その瞳には、確かな光が宿っていた。
「――まだ、間に合う。
空は、私たちを見ている。」
そして、暴風の只中に立つメグの視線の先で、
アイリスの小さな手が、確かに“理”の光を宿していた。
祈りではなく、理解。
恐怖ではなく、共鳴。
――それが、“空と生きる”ということだった。




