目覚めの青空 ―「知らない空」
……光が、まぶしい。
頬を撫でる風のぬくもりで、意識がゆっくり浮かび上がる。
瞼の裏に、白い朝の光が染みこんでいくのが分かる。
目を開けた瞬間、息をのんだ。
――知らない天井。
レースの天蓋が、風にゆるやかに揺れている。
淡い金糸の刺繍が、朝日の角度で柔らかく光った。
ベッドのシーツは繊細な花模様。触れる指先に、絹の感触が残る。
耳をすませば、鳥のさえずり。
波の音も、機械の音も、何もない。
代わりに、遠くで鐘の音が微かに響いていた。
「……病院?」
思わず口をついて出た。
でも違う。
この光は蛍光灯じゃない。太陽の光――それも、驚くほど澄んだ。
体を起こすと、長い髪が肩に滑り落ちた。
――金色だった。
「え……」
慌てて髪を掴む。指の間を、陽光を弾くような金糸が流れ落ちる。
肌も、手も、まるで白磁みたいに滑らかだ。
足を下ろすと、床が冷たい。夢じゃない、現実の感触。
部屋の片隅、全身を映す鏡が立っていた。
ゆっくりと近づき、覗き込む。
そこに映ったのは――見知らぬ少女。
長い金髪。淡い青の瞳。
絵本から抜け出したような美しい顔立ち。
でも、鏡の中の彼女は、めぐみの動きと同じように指を上げた。
「……誰?」
小さな声が、鏡の中で反響した。
触れた指が、鏡面越しに重なる。
その瞬間、胸の奥にざらりとした違和感が走った。
――体の奥が、自分のものじゃない。
戸惑いの中で、扉が軽くノックされた。
「お嬢様、朝の祈りの時間です。」
扉の向こうから、柔らかな声。
現れたのは、銀髪のメイドだった。淡いエプロンドレスの裾を揺らし、丁寧に一礼する。
「お、お嬢様……?」
めぐみが指をさすように呟くと、メイドはにっこり微笑んだ。
「はい。アマカワ侯爵家のご令嬢、メグ様にございます。」
――アマカワ?
心臓が跳ねる。
どこか懐かしい音の響き。でも、異国の発音。
「……あ、あの、祈りって……何を?」
尋ねると、メイドは少しだけ首を傾げて、優しく答える。
「天の御声に感謝を捧げるのです。今日も穏やかな空をくださった神々へ――」
窓の外に、果てしない青空が広がっていた。
雲一つない、完璧な青。
(……空が、“祈り”の対象なの?)
(そんな世界……ほんとに、あるんだ。)
めぐみはしばらく、息をすることも忘れて、その青を見つめた。
――眩しい。
瞼の裏を、柔らかな光が透かしていく。
まるで雲間から射す朝日みたいな、あたたかい光だった。
ゆっくりと目を開ける。
目に飛び込んできたのは、白と金に包まれた世界。
高い天蓋のカーテンには、細かな花の刺繍。
壁には油絵の風景画がいくつも並び、机の上には銀の燭台が置かれている。
空調の音も、電子音も、どこにもない。
窓の向こうには、朝の光。
ガラス越しに、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
風がレースのカーテンを揺らし、花の香りを運んできた。
「……病院?」
めぐみは思わず声に出した。
だがすぐに首を振る。
「いや、違う。照明じゃない……これ、太陽光?」
まぶしさの質が違う。
LEDの白ではなく、自然光の金。
空気の匂いも、どこか懐かしいような――清んだ香りがする。
「まさか……夢?」
思わず、シーツを握りしめた。
柔らかく、それでいてしっかりとした感触。
糸の一本一本が指先にわかるほど、現実的だった。
息をのんで、そっと体を起こす。
長い髪が肩を滑り落ち、光を反射した。
その金色に、一瞬、言葉を失う。
足を床に下ろす。
冷たい石の感触が、足裏を刺した。
――夢じゃない。
その確信が、静かに胸の奥で弾けた。
目の前の世界が、急に現実味を帯びていく。
呼吸するたび、空気が新しく肺に入ってくるのを感じる。
(ここは……どこ?)
めぐみは、自分の手を見つめた。
白く、華奢で、見慣れない。
でも、確かに“自分のもの”として動く。
その瞬間、鳥の声が一段と高く鳴いた。
まるで「ようこそ」と告げるかのように。
ベッドのそばに、背の高い姿見が立っていた。
曲線を描く木枠には、蔦の彫刻。
光を受けた鏡面が、まるで水面のように淡く揺れている。
引き寄せられるように、めぐみは立ち上がった。
足音が、石の床に小さく響く。
――映っていたのは、見知らぬ少女。
金の髪が肩まで流れ、朝の光を受けて細い糸のように輝いている。
淡い青の瞳は、水面を思わせる透明さ。
頬は白く、指先は細く長い。
まるで外国の絵本から抜け出したような、美しい少女だった。
「……誰?」
唇が勝手に動いた。
鏡の中の少女も、同じ言葉を、同じ口の動きで返す。
「……これ、私……?」
信じられない。
でも、鏡の中のその“彼女”は、たしかにめぐみの動きに合わせて瞬きをした。
手を上げれば、同じ角度で手を上げる。
指を開けば、指を開く。
恐る恐る、指先を鏡に伸ばす。
冷たい硝子に触れた瞬間――ぞくり、と背筋を走る感覚。
まるで、誰かと指先を触れ合わせたような、生々しい感触だった。
心臓が跳ねる。
胸の奥が、微かに熱くなった。
(……別の誰かの体に、入った?)
その考えが浮かんだ瞬間、鏡の中の少女がほんの一瞬――微笑んだように見えた。
めぐみは息を止めた。
静寂の中、レースのカーテンが風に揺れる音だけが響いている。
(これが……私? 違う。けれど、今の私は――この子なんだ。)
指先をそっと離す。
鏡の中の“少女”も、同じように指を下ろした。
その仕草が、まるで「ようこそ」と告げるようで――
めぐみは、息をすることも忘れた。
静かな部屋に、コン、コンと小さなノックの音が響いた。
鏡の前で立ち尽くしていためぐみは、はっと振り返る。
扉がゆっくりと開き、朝の光が廊下から流れ込んできた。
そこに立っていたのは、一人のメイドだった。
銀糸のような髪をひとつにまとめ、淡いベージュのエプロンドレスに身を包んでいる。
その微笑みは、雪解けの陽射しのように穏やかだった。
「お嬢様、朝の祈りの時間です。」
柔らかな声。
その言葉が、耳に届くまで一瞬、意味を掴めなかった。
「……あ、あの、祈り?」
めぐみは思わず聞き返した。
メイドは少しだけ目を瞬かせる。
まるで“そんなことを尋ねるのか”とでも言いたげに、けれど微笑みを崩さない。
「はい。“天の御声に感謝を”。」
「今日も穏やかな空をくださった神々へ――。」
その声には、疑いも迷いもない。
まるで、それがこの世界の“呼吸のような常識”であるかのように。
めぐみは無意識に、窓の方へ視線を向けた。
カーテンが風に揺れ、青空が広がる。
――澄み切った、完璧な空。
雲ひとつなく、光の粒が漂っているような透明な蒼。
(……空が、“祈り”の対象なの?)
(そんな世界、あるんだ……。)
彼女は思わず、小さく笑ってしまった。
滑稽ではなく、ただ――美しいと思ったから。
この世界では、人々は天気に祈り、空に感謝する。
“予報”ではなく、“信仰”として。
めぐみの胸の奥で、微かな好奇心が芽を出した。
科学ではなく、祈りで空を理解しようとする世界。
その矛盾を、誰も疑わない世界。
(……おもしろい。)
窓の外の青を見上げ、彼女は静かに呟いた。
「ほんとに……知らない空だ。」
風が吹き抜け、金の髪がゆるやかに揺れた。
その光の中で、彼女の“観測者の瞳”が再び輝きを取り戻していく。




