雨を呼ぶ夜 ―「空の答え」
昼下がりの陽が傾き始め、アルトリエ村の広場はまだ夏の熱気を残していた。
干からびた井戸の底で、風がひゅうと鳴る。
その音を背に、メグは古びたノートを抱えて立っていた。
目の前では、村長と数人の村人たちが腕を組み、眉をひそめている。
傍らには大柄な青年・トール。彼だけは無言で空を見上げていた。
メグ「湿度が上がってる。南の気流が変わった。――明日の夜、雨が来るわ。」
その言葉に、場の空気が一瞬止まる。
けれどすぐに、誰かの乾いた笑いがそれをかき消した。
村長「……雨? この時期にか?」
村人A「また“空の声”か……」
メグは動じなかった。
小さく息を吸い、ノートの端をなぞる。
そこには、気圧の変化を示す細かな数字の列――
彼女にとっては、**空が語った“言葉”**だった。
メグ「空は嘘をつかないわ。
風の向き、雲の呼吸……ちゃんと聞けば、答えてくれるの。」
その静かな声が、逆に村人たちの笑いを誘った。
“空と話す女”――それは、彼らにとって遠い夢物語。
祈りのほうが、よほど確かに思えた。
トールだけが、笑わなかった。
彼の目には、わずかな光と影が混ざっていた。
トール「……外れたら、みんなお前を責めるぞ。」
メグは微笑んだ。
それは、恐れを知らぬ者の笑みではなく、
何かを覚悟している人間の、優しい笑みだった。
メグ「それでもいいわ。
信じなくても、空はちゃんと答えてくれるもの。」
風が吹き抜け、ノートのページがぱらりとめくれる。
その白い紙の上で、陽光が反射して一瞬だけ光った。
まるで、空そのものが微笑んだように。
トール(心の声)「……空の答え、ね。
本当に、そんなもんがあるのかよ。」
そのつぶやきを聞いたのかどうか、
メグはただ、雲の方を見つめていた。
まだ乾いた空。
けれどその奥に――確かに、何かが“蠢いて”いた。
それは、祈りではなく、理が呼ぶ予兆。
翌夜、世界を変える“雨”の始まりだった。
夜が、村を包み込んでいた。
アルトリエの中央広場――そこは、**“祈りの光”**で満たされていた。
たいまつが揺れ、笛が鳴る。
踊る子どもたちの笑い声が、乾いた空に響く。
祭壇の前では、神父エルンが白衣をまとい、低く祈りの言葉を紡いでいた。
エルン「神よ、この渇きを癒し、我らに恵みを――」
その声が、夜気に溶けていく。
だがその祈りの輪の外――村の灯の届かぬ丘の上で、ひとりの影が立っていた。
月を隠す厚い雲の下。
メグはスカイピラーの足元に座り込み、手の中の焦げたノートを開いた。
気圧計の針が震え、彼女の瞳がわずかに輝く。
メグ(小声で)「あと少し……風向きが南西に変わる……」
彼女の頬を撫でる風は、湿り気を帯びていた。
空の奥で、何かが息をしている――
そんな予感が、メグの心臓を静かに打たせていた。
丘の下。
祭りを見下ろすように立つその姿を、ひとりの少女が見つめていた。
教会の孤児、アイリス。
祈りの輪から離れ、胸に手を当てながら、遠くのメグを見上げる。
アイリス(心の声):「どうして、あの人は一人で……?
祈りの場所にいれば、少しは楽になれるのに……」
彼女にはまだわからなかった。
祈る者と、測る者。
同じ空を見ながらも、彼らの“願い”の形がまるで違うことを。
遠雷が響く。
その光が、雲の裂け目を白く染め上げる。
メグ(空を見上げて)「……もう少しよ、空。
彼らに、あなたの声を――届けて。」
風が唸り、スカイピラーの羽根が軋む。
祭りの笛の音と、風のうなりが混ざり合い、村全体が揺れた。
その瞬間――
誰も気づかぬうちに、空の色が変わり始めていた。
光と祈り。
信仰の炎の向こうで、理の風が、そっと動き出していた。
丘の上に、ひとり。
メグの背を、湿った風が撫でていく。
夜はまだ闇に沈みきらず、空の底で雷が唸っていた。
風計の羽根が**ぎぃ……ぎぃ……**と軋みを上げ、
気圧計の針が、わずかに震える。
メグはノートを開き、指先で数字の列を追った。
書き込まれた観測値の間に、風が吹き込み、紙の端が揺れる。
メグ「気圧……落ちてる。
湿度……限界値。
――空、あなたは、もう“泣きたい”のね。」
唇からこぼれる声は、祈りでも呪文でもなかった。
ただ、空を理解しようとする者の、静かな対話だった。
稲妻が、雲を裂いた。
一瞬、世界が白く塗りつぶされる。
メグの顔がその光に照らされ、瞳の奥に淡い光が宿る。
メグ「……空。どうか、この声を、彼らに届けて。」
その言葉は、祈りのように優しく、
理のように確かだった。
吹き上がる風がスカイピラーを揺らし、
塔の先端が空を指すようにしなりながら、夜を切り裂く。
雷鳴。
稲光。
そして――静寂。
メグの声は、風に溶け、夜空に吸い込まれていった。
その瞬間、彼女のノートの上に、
ひとしずくの冷たい水滴が落ちた。
まるで空が、彼女の言葉に応えるように。
最初の一滴が、大地に落ちた。
乾いた土がその水を貪るように吸い込み、音もなく色を変えていく。
やがて、ぽつり、ぽつりと降り始めた雨が――
次の瞬間、滝のように村を包み込んだ。
たいまつの火が消え、笛の音が止む。
村人たちは空を仰いで、ただ立ち尽くす。
その頬に、髪に、手に――“生きた水”が触れる。
村人A「……雨だ……本当に、雨が……!」
村人B「見ろ! 畑が、黒く戻っていく……!」
誰かが叫び、次々に歓声が上がる。
子どもたちは泥の中を駆け回り、年老いた者は手を合わせて泣いた。
干からびた畑が、黒く染まる。
ひび割れた湖底が、静かに波紋を広げる。
村全体が、息を吹き返すようだった。
丘の上。
メグは、スカイピラーの下で雨を受け止めていた。
掌に落ちる冷たいしずくが、確かな重みで伝わる。
そこに、雨に濡れたトールが駆け寄ってくる。
髪も服もぐしゃぐしゃのまま、息を荒げ、ただ一言。
トール「……お前、もしかして、神さまよりも空に近いのか?」
メグは、ゆっくりと首を振った。
その瞳に、稲光が映る。
メグ「いいえ。
これは奇跡じゃない。――でも、あなたたちの笑顔なら、
奇跡って呼んでもいい。」
彼女がそう言った瞬間、遠くで雷が鳴った。
けれど、その音はもう怒りではなかった。
まるで――
空そのものが、拍手を送っているかのように。
そして、雨の中でスカイピラーが静かにきしむ。
風計が回り続け、塔の先にかかる雲の隙間から、
月の光が一筋、落ちてくる。
それはまるで、
“理”と“奇跡”が同じ空の下で微笑み合うような夜だった。
雨はなおも降り続けていた。
だが、その音はもう、悲しみではなく――優しさの響きだった。
丘の上。
メグは静かに立ち尽くしていた。
風計が回るたび、雫が散り、頬を濡らす。
ひとすじの水が、彼女の頬を伝う。
それが空からの雨なのか、彼女自身の涙なのか――誰にも分からない。
トールがゆっくりと近づき、差し出した手が雨に濡れる。
トール「……もういいだろ。帰ろう。風邪をひく。」
メグは首を横に振り、微笑んだ。
視線は空の彼方、雲の切れ間へ。
メグ「……ありがとう。
空も、ちゃんと聞いてくれたんだね。」
トールはその言葉に、何も返せなかった。
ただ、彼女の隣で同じ空を見上げた。
そのとき――
厚い雲の間から、月が顔を覗かせた。
白銀の光が、降りしきる雨粒ひとつひとつを照らす。
大地に散る水面が、星のように煌めく。
空と地上の境が溶け、ひとつに融け合っていく。
それはまるで、
“理”が“祈り”と出会った瞬間。
空が泣き、地が笑う。
その光景の中で、メグはそっと目を閉じた。
――観測は、まだ終わらない。




