予兆 ―「理の種」
昼下がりの陽光は、刃のように鋭かった。
アルトリエ村の空は白く霞み、熱を孕んだ風が地を這う。
トールの納屋の裏では、ひとりの少女がその中に立っていた。
焦げ跡の残る観測ノートを開き、指先で図面をなぞる。
古木を支柱に、鉄屑を継ぎ合わせ、釘を打ち込む音が乾いた空に響く。
木屑の舞う中で、少女――メグは、まるで儀式のような静けさで作業を進めていた。
背中には、灼けた太陽の光。
髪の先まで汗が滲み、それでもその瞳だけは澄んでいる。
――まるで、“空の奥”を見つめているように。
少し離れた場所で、トールが腕を組み、あきれ顔でその様子を見ていた。
彼の肌は陽に焼け、手には土と傷の跡が残る。
現実を生きる男の、現実的な目だ。
トール「……まさか本当に、塔を立てる気か?」
メグ「ええ。空の“声”を聞くには、少し高いところがいいの。」
トール「声、ねぇ。あんた、本気で空と喋るつもりか?」
メグ(小さく笑いながら)「ええ。風は、ちゃんと話してくれますよ。」
トールは鼻で笑うが、メグは気にした様子もなく、支柱に針金を巻きつけていく。
その手つきは驚くほど確かで、無駄がない。
やがて、木製の骨組みが陽光の中に立ち上がった。
――簡易観測塔。
それは粗末で不格好な構造物だったが、メグが顔を上げた瞬間、
彼女の瞳の奥には確かな光が宿っていた。
焦げたノートを風に押さえながら、メグは小さく呟く。
メグ「空の声は、きっとまだ届く。……この地の風は、眠っているだけ。」
トールはその言葉に返すことができなかった。
信じられない。けれど、どこかで――その声をもう一度聞いてみたくなっていた。
乾いた風が一瞬だけ止み、静寂が訪れる。
次の瞬間、メグの作った風計の羽根が――かすかに、回り出した。
太陽の下、少女の髪がふわりと揺れる。
その姿は、干上がった空に、小さな命が吹き込まれたようだった。
乾いた丘の上に、メグの手が組み上げた木製の骨組みが立ち上がる。
村人の目には、ただの寄せ集めにしか見えない塔。
けれど――彼女にとって、それは“空と人を繋ぐ最初の橋”だった。
古い風車の羽根を再利用し、ひび割れた木材を支柱にする。
釘の代わりに鉄線をねじ込み、風に鳴る音を確かめながら一本一本を締めていく。
トール「……塔っつっても、せいぜい見張り台だな。」
メグ「いいの。空を“聴く”には、ほんの少しだけ高ければいいんです。」
頂に、錆びた気圧計が取り付けられる。
金属の針が陽光を反射し、かすかに震えた。
その下では、湿度を測るための石が吊るされ、乾いた風を吸って色を変えていく。
メグは方位盤に墨を走らせ、風計の羽根を南西へ向けた。
彼女の瞳は、空の一点を見つめている。
その青白い光の中には、確かな違和感があった。
メグ(心の声)
「風の遅れ、湿度の停滞……やっぱり、これは自然な乾期じゃない。
――上層の風が、何かに“塞がれてる”。」
空は静かすぎた。
雲は薄く、まるで誰かに“息を止められた”ように動かない。
トールはその表情を見上げ、無意識に息を呑む。
彼女の顔には焦りも迷いもなく、ただ確信だけがあった。
トール「……あんた、本気で“空が病気だ”って言うつもりか?」
メグ「病気じゃないわ。眠ってるの。
――だから、起こしてあげなきゃ。」
その言葉と同時に、風計が――わずかに、音を立てて回った。
一瞬だけ吹いた涼風が、塔の支柱を撫で、メグの髪を持ち上げる。
乾いた村に、ほんのひと筋の“風の兆し”。
彼女の目に映る空は、もう“死んだ空”ではなかった。
メグが塔の足元で工具を片づけていると、背後からかすかな笑い声がした。
振り返ると、五、六人の子どもたちが、納屋の陰からこっそり覗いている。
日焼けした頬。裸足の足裏に土埃。
だがその瞳だけは――どの空よりも澄んでいた。
子ども「お姉ちゃん、それなあに?」
メグ「これ? 風の向きを測る道具よ。これで空の“呼吸”がわかるの。」
子ども「空にも、息があるの?」
メグ「あるの。空はね、“怒る”ことも“泣く”こともあるのよ。」
小さな肩がびくりと揺れる。
彼らにとって、“空”とはただの遠いもの。
雨をもたらすか、雷で脅すか――そのどちらかだった。
子ども「空にも、気持ちがあるの?」
メグ(微笑)「うん。だから私たちは、それを“理”って呼ぶの。」
「り?」と声が重なる。
メグは笑って、風計の羽根を指先で軽く弾いた。
木製の羽根が、キィ、と小さな音を立て、ゆっくりと回り始める。
メグ「“理”はね、空の気持ちを“わかろうとする力”。
神さまの奇跡じゃなくて――空と仲良くなるための、約束ごとみたいなもの。」
子どもたちは、その音に吸い寄せられるように近づいた。
風計の羽根が回るたび、金属の針が光を弾く。
その光が、子どもたちの瞳にきらりと映る。
子ども「……空と、仲良く……」
メグ「そう。空の声を聴けるようになれば、きっと、泣かせずにすむ。」
その瞬間、頬を撫でるように微かな風が吹いた。
乾いたはずの空気が、ほんの少しだけやわらかくなる。
子どもたちが顔を見合わせ、嬉しそうに笑った。
それは、この村で久しく聞かれなかった――“風の音と笑い声”の重なりだった。
トール(遠くから見守りながら)
「……空の授業、ね。変わった先生だ。」
そして、メグの唇が、風の音に重なるように動いた。
メグ「いいえ――空が、先生なんです。」
午後の陽射しが傾き始めたころ。
メグは、スカイピラーの足元でノートを開いていた。
風計の羽根はゆっくりと回転し、吊るした湿度石がわずかに色を帯びる。
焦げ跡の残るノートに、ペン先が走る。
その瞬間――気圧計の針が、かすかに震えた。
メグ「……来た。」
顔を上げる。
白く霞んでいた空の高みを、一筋の雲が横切っていく。
今まで止まっていた風が、まるで目を覚ますように頬を撫でた。
それは、砂を巻き上げる熱風とは違う。
どこか懐かしい、**“生きている風”**だった。
子ども「……風が、冷たくなった!」
トール(息をのむ)「こんな風、何日ぶりだ……?」
畑で鍬を振るっていた村人が動きを止める。
水汲みをしていた女たちが顔を上げる。
誰もが無意識に――空を見上げた。
高い空の片隅で、雲がひとすじ、淡い螺旋を描いていた。
それは、干上がった世界に差した、ほんの小さな“再生の証”だった。
メグは胸の奥で小さく息を吐き、ノートに記す。
《観測第二日:南西の風、再び流れ始む。》
トールがその文字を覗き込み、眉を上げた。
トール「……空の声、か。」
メグ(微笑)「ええ。まだ、途切れていません。」
風が塔の羽根をくすぐるように撫で、乾いた音を立てる。
その響きは、どこか祈りにも似ていた。
――空は、まだ死んでいない。
陽は傾き、村全体が橙色に染まっていた。
空はまだ乾いている――それでも、どこか違っていた。
スカイピラーの足元に立つメグが、そっと目を閉じる。
焦げたノートを胸に抱き、両の手を広げた。
焼けた風が頬を撫で、指の隙間を抜けていく。
けれど今、その風には――“息づかい”があった。
ふと、足元の土に動く影。
メグが顔を上げる。
大地を横切るように、**一本の“雲の影”**が流れていった。
それは、まるで空が“応えた”かのようだった。
風が塔を鳴らし、羽根がゆっくりと回り始める。
トールが遠くからその光景を見て、呟く。
トール「……動いた、空が。」
メグは微笑んで、小さく頷く。
メグ「ううん、“理”が動いたの。」
――それは、まだ小さな変化。
けれど確かに、この世界に“理の種”が芽吹いた瞬間だった。
夕風が塔を包み、乾いた地に新しい匂いを運ぶ。
空と地の間に、静かな対話が始まっていた。




