嵐の夜 ― 空と涙の共鳴
それは、満月の前夜だった。
王国の端から端までを覆うように、黒雲が渦を巻いていた。
風は唸り、雷鳴が遠くの山を裂く。
夜空を走る稲光は、まるで天が怒りを放つかのようだった。
――しかし、その中心には、ひとつだけ静かな光があった。
辺境の村。
湖のほとりに立つ観測塔の窓から、少女が空を見上げている。
メグ・アステリウス。
追放された“理の学者”にして、なお空を信じ続ける者。
彼女の目に映るのは、怒り狂う嵐ではなく、
ただ、何かを訴えるように震える“空の声”だった。
風が塔を打ち、稲妻が大地を照らす。
だが、メグは怯えない。
その瞳の奥には、嵐の中でしか見えない“真理の光”が宿っていた。
メグ(心の声):「……空が怒ってるんじゃない。
これは、問いかけてるんだ――“理を信じる者”に。」
同じ頃、遠く離れた王都の夜空でも、同じ雷光が走る。
王宮の高塔に立つ王太子リュシアンが、雲を見上げていた。
その瞳にもまた、同じ光が宿っている。
天を隔てても、二人を繋ぐのはひとつの空。
そして今夜、空はそのすべての力で――
“理”と“祈り”を試そうとしていた。
朝靄が湖面を覆う。
エリュシアの空は、まだ穏やかなはずだった。
けれど、メグの風計が告げる針の揺れは――不吉な下降を示していた。
金属針が音もなく、震えるように落ちていく。
その横で湿度石が淡く脈動し、青白い光を放つ。
湖面には異様な波紋が走り、遠くで雷の尾が一瞬、空を裂いた。
メグは風計に指を添えたまま、唇を引き結ぶ。
静かな朝に、彼女の小さな声が落ちた。
メグ:「……これは“季節の嵐”じゃない。
風が、軌道を狂わせてる。」
村人たちはまだ気づいていない。
通りすがる農夫が笑って言う。
「嬢ちゃん、嵐は毎年のことさ。明日には晴れる。」
けれど、メグの胸には冷たい予感があった。
――この風は、“いつもの風”じゃない。
まるで何かを伝えようとするように、空気がざわめいていた。
その夜、メグは観測塔にこもった。
灯火の下、紙の上をペンが走る。
風の流速、湿度、雷雲の移動――すべてを数字に置き換え、彼女は空を記録していく。
机の上には、かつて王都で使っていた焦げ跡のノート。
その上に積み重なる新しいページが、静かに未来を描こうとしていた。
メグ(心の声):「これは、試されてる。
理が、“空”に問われてる。」
外では風が唸り、塔の壁を叩く。
だがその音の中に、彼女は確かに“言葉”を聞いた。
――風が語る。
嵐が、始まる。
翌夜。
風が――変わった。
昼間まで穏やかだった空が、今や黒鉄の渦を巻いていた。
山の稜線を裂くような雷鳴が轟き、空は怒りに満ちた獣のように唸っている。
大地が震え、湖が逆巻き、風が塔を叩くたび、観測器の針が狂ったように震えた。
メグは塔の最上階で風計を押さえ込みながら、通信装置へと駆け寄った。
魔力と理術が交差する古い装置――魔導石が淡く脈動し、青い光を放つ。
メグ:「……こちらエリュシア観測塔。王都気象庁、応答願います!」
嵐の轟音が通信をかき消す。
だが、彼女は諦めなかった。
風と雷のリズムに合わせるように、装置へ理術式を刻む。
メグ:「王都北部に、大型雷雲群が接近中!
風向きが異常です――! 至急、避難を……!」
通信装置の光が強く瞬き、王都へ信号が放たれる。
光の帯が天を貫き、闇の中に走った。
――その頃、王都。
夜の魔導塔では、蒼白い光が報告室を満たしていた。
リュシアンとセレス司教が、報告書に目を落とす。
セレス:「また“辺境の娘”か……。ただの誤観測ではないのか?」
リュシアン:「……いや。」
窓の外で、王都の空も不穏に震えていた。
リュシアンは報告書を握りしめ、まっすぐに司教を見据える。
リュシアン:「信じよう。――彼女の“理”を。」
その一言で、魔導塔が一斉に動き出す。
避難信号が鳴り響き、王都全域の灯がざわめく。
王立天文庁が避難を指示し、人々が夜の街を走り始めた。
一方その頃、辺境の観測塔。
風はすでに壁を裂き、塔の上層が軋み始めていた。
弟子の少年が、涙を浮かべながら叫ぶ。
弟子:「先生、もう逃げて! 塔が……崩れます!」
メグ:「いいえ。――空を見届けないと、理は途切れてしまう。」
嵐の中でも、彼女の声は揺るがなかった。
風が髪を引き裂き、稲光が空を割く。
それでも、メグは望遠鏡を掴み、空を見上げた。
天を超える風が、世界の秩序を試している。
けれど――その中心に立つ彼女の瞳は、恐れよりも強く、確かな光を宿していた。
夜が裂けた。
空は狂い、風は唸り、世界そのものが悲鳴を上げていた。
暴風は塔を鞭のように叩き、湖の水面が盛り上がって、まるで空を飲み込もうとしている。
観測塔の上層、メグはひとり、乱れる風の中で立ち続けていた。
髪は濡れ、外套は裂け、それでも手は止まらない。
紙が吹き飛ぶたび、彼女は新しいページを掴み、震える手で筆を走らせた。
メグ:「風速……上昇中……雷雲、分裂の兆候あり……! 記録を続ける……!」
通信装置が火花を散らし、魔導石が悲鳴を上げるように脈動する。
電流のような光がメグの指を走り抜け、空と大地の境界が曖昧になっていく。
稲妻が塔を貫いた。
視界が白く塗りつぶされ、音が消えた。
一瞬だけ、世界から“音”という概念が奪われたかのようだった。
――そして次の瞬間。
観測塔の羽根車が焦げつき、鉄柱がねじ切れた。
崩壊の音が、空の怒号と重なり合う。
それでも、メグはノートを抱きしめ、倒れかけた塔の中央で立ち止まる。
周囲の光が彼女を包み、まるで空そのものが彼女を見つめていた。
メグ(心の声):「空よ……あなたは怒ってるんじゃない。
ただ、私たちに“問うてる”のね――
“理とは、祈りを失った信仰ではないか”って。」
涙が頬を伝い、稲光がその雫を照らす。
ノートの上で光と水が混ざり、文字が溶けてゆく。
その瞬間、彼女の装置から放たれた光が、雷雲の中に吸い込まれた。
――空が、応えた。
巨大な渦が方向を変える。
王都を覆っていた雷雲が、まるで意志を持つように軌道を逸れ、海の方へと抜けていった。
稲妻の光は遠ざかり、風が静まり始める。
村に残った弟子たちは、崩れた塔を見上げながら祈るように叫んだ。
弟子:「先生――!!」
その声をかき消すように、最後の雷鳴が大地を震わせた。
そして、嵐が去る。
王国全土。
数百年に一度とされた暴風雨の被害は、奇跡のように最小限に抑えられた。
誰もが語った。――あの夜、天が“応えた”と。
けれど、誰も知らない。
空の問いに最後まで向き合ったひとりの少女の名を。
嵐が過ぎた夜。
王都の街は、まるで眠りから醒めたように静まり返っていた。
濡れた石畳が月光を映し、倒壊を免れた尖塔の上で鐘が、かすかに鳴った。
雲が裂ける。
長い嵐の果てに、ひとすじの光が夜を貫き――満月が姿を現した。
人々は避難先の広場で、ただその光を見上げていた。
恐怖で固まっていた胸の奥に、言葉にならない温もりが灯る。
子どもがつぶやく。
「……空、笑ってる。」
その言葉が、街中に伝わるように広がっていった。
王宮の回廊。
セレス司教はゆっくりと跪き、濡れた石床に指を置いて祈りを捧げる。
その瞳には涙ではなく、深い敬意の光があった。
セレス:「……神よ。
かの少女が見た“理”も、またあなたの御業ならば――
我らは、空を恐れぬ。」
その祈りは、信仰の敗北ではなく、再生だった。
“理”と“信”がようやく交わる、静かな祈りの形。
月光が王宮の塔を照らす。
その光を受けながら、リュシアン王太子は回廊の端に立っていた。
風が彼の外套を揺らし、遠くの雲間を見つめる。
空の向こう――辺境の夜を想う。
たとえ姿が見えなくても、あの風の中に、彼女の息づかいを感じていた。
リュシアン:「君は、やっぱり“空”と話してるんだな。」
微笑みながら、彼は目を閉じる。
そこには、誰もが忘れていた“天と地の調和”の音があった。
その夜、王都の鐘は静かに鳴り続けた。
それは悲しみではなく――“理”を受け入れた、祈りの音だった。
夜明け前のエリュシアの丘。
世界はまだ淡い藍色に包まれ、霧の名残が湖の上をゆっくりと漂っていた。
嵐の痕跡は、もうどこにもない。
折れた木々が静かに立ち、空の裂け目から一筋の光が差し込む。
風は柔らかく、まるで息をするように大地を撫でていた。
丘の上に、一人の少女――メグが立っていた。
その頬に、冷たい朝の風が触れる。
彼女は古びた布を解き、焦げた望遠鏡を丁寧に組み立てていく。
金属の軋む音が、静寂の中に小さく響いた。
空を仰ぎ、彼女は微笑む。
メグ:「……おはよう、空。」
その声は、祈りでも命令でもなかった。
ただ、“語りかける”声。
かつて怒り、試し、そして応えた空に向けて――
等しく一人の観測者としての挨拶だった。
風が吹く。
机の上に置かれた焦げ跡の残るノートが、ぱらりと開かれる。
新しい朝の光がページを照らし、かすれた文字の隣に、
彼女の新しい筆跡が綴られていた。
――《観測は、まだ終わらない。》
ページがひとりでにめくられ、風に乗って静かに舞う。
遠くで雷の残響が、まるで空の返事のように微かに響いた。
メグはその音を聞きながら、目を細める。
その瞳には恐れも涙もなく、ただ確かな光が宿っていた。
メグ(心の声):「……“理”は、空と共に、生きている。」
風が頬を撫で、空がほんの少しだけ明るくなる。
雲の切れ間から、夜明けの第一光が差し込んだ。
それはまるで、空が微笑んでいるようだった。
――観測は、続いていく。
少女と空の、果てしなき“対話”として。




