四章 ゲルタのお披露目と、王子が愛したその人は。
教育係のマリーンは、泥まみれで戻ってきたゲルタを見て、大いに憤慨した。
「まぁ、まぁ、まぁ」
と連呼し、しばらくは声も出せない様子だった。
「王子さまのお妃候補が、お召し物をそんなに汚して。しかも裸足で帰城されるなんて前代未聞です!」
他の女官たちも、いつものようにすましつつ、目は非常に楽しそうにゲルタに注がれている。
やっぱりガチョウ番の娘じゃね。
王子さまには似合わないわ。
それ見たことか、いい気味だというような笑みが口のあたりにただよっている。
ゲルタは夕食食を断って、しょんぼりと自分の部屋に戻った。
翌日の朝も、とてもお妃教育を受ける気になれずに、布団の中で丸まっていた。
女官がやってきて、女王さまがお呼びだと伝える。
行きたくなかったけれど、そんなことは許されない。
ゲルタはベッドから出てのろのろと着替えをすませ、女王の部屋へ行った。
きっと怒られるのだろう。
それとも、またなにか企んでいるのかもしれない。
どちらにしても心が重かった。
◇◇◇
女王は、にこやかにゲルタを迎えた。
「ごらんなさい、舞踏会のドレスが仕上がったのよ。ほら、なんて可愛らしいんでしょう」
華やかなドレスをゲルタの前で広げて見せる。
可憐なレースを胸にふんだんにあしらった星色のドレスで、本当に優雅で愛らしく、ゲルタも思わずため息をついた。
スカートには金色の花が一面に縫いつけてあって、腰には大きな金色のリボンを結んであった。
「さぁ、早く着てみて。きっと星の精のように見えますよ」
女王にせかされて、ゲルタは女官に手伝ってもらいドレスに袖を通した。
「まぁ! なんて素敵なのかしら! とっても可愛らしいわ、ゲルタ」
女王が手を叩いて褒めちぎる。
ゲルタは、うつむいた。
「どうしました?」
「あたしが……化け物退治の役に立つから、ここに置いてくださったんですか? 化け物を退治したら、あたしはもういらないんですか?」
「あらあら」
女王は目を丸くしたが、やがて真面目な口調で言った。
「もちろんゲルタの王女としての力に、わたくしは期待しています。でも、それだけではありません。ゲルタならユリジェスの心に入ることができるかもしれないと思ったのよ」
ゲルタの胸に、悲しみや惨めさが押し寄せた。
「王子さまは、あたしのことが嫌いなんです。昨日、またはっきり言われました。誰とも結婚するつもりはないって」
「だけど、ゲルタを心配して、パルヴィス男爵と出かけたゲルタの後を追っていたでしょう?
ユリジェスは、ゲルタを嫌いではありません。
ゲルタのことを、とても気にしているわ。
今までユリジェスが出会ってきた姫君たちと違って、まっすぐに、正直に、自分に向かってくるゲルタをね。
きっとユリジェス自身も気づいていないのでしょうけれど……あの子は生涯誰も愛さないと誓いを立てているから」
「どうしてですか?」
女王も哀しそうな顔になる。
「恋人が亡くなったの……。彼女を愛しきっていたのね。だから彼女以外の女性を妻にすることは、彼女と自分自身、それから相手の女性の、三人を裏切ることになると思っているのよ。あの子はとても誠実で、かたくななところがあるの」
王子さまに恋人がいた。
けど、亡くなっているなんて。
「相手は……どんな人だったんですか? 王子さまが言っていた『復讐』と関係あるんでしょうか」
「知りたい?」
女王はゲルタの目をのぞきこむようにして尋ねた。
ゲルタは迷わずうなずいた。
「では馬車を用意させましょう。パルヴィス男爵のところへ行ってらっしゃい。男爵がアウレリエのことを話してくれるでしょう」
「パルヴィス男爵……?」
なぜここで急に男爵が出てくるのかわからなかったが、ゲルタは女王が用意した馬車でパルヴィス男爵の屋敷へ向かった。
彼はゲルタが来ることを予期していたようだ。
「アウレリエという人のことを教えてください。その人が王子さまの恋人だったんですか?」
そう尋ねると、あまり驚きもせず、ゲルタをひとつの部屋に案内した。
その部屋には大きな肖像画がかかっていた。
綺麗に結い上げた黒髪。
神秘的な──だけど、決して暗い感じではない、生き生きとした黒い瞳。
今にも笑い出しそうな赤い唇。
肖像画の中の女性は、美しく快活な人に見えた。
「これが私の姪の、アウレリエだ」
「パルヴィス男爵の姪御さん?」
肖像画から目が離せないまま、ゲルタはつぶやく。
「伯爵家に嫁いだ私の姉の娘で、ユリジェス王子より三つ年上だった。
ユーリは小さいころから、アウレリエの後ばかりくっついて歩いていてね。
成長してからも、アウレリエは『ユーリ坊や』などと呼んでからかっていたな。
ユーリはムキになって怒ってね、アウレリエに子供扱いされまいと一生懸命に背伸びをして……それがまた恋する少年そのものといった感じで、はたで見ていて微笑ましかったよ。
とにかくユーリはアウレリエを崇拝しきっていた」
「アウレリエさんのほうは……王子さまを、どう思っていたの?」
「可愛がっていたのは確かだね。アウレリエは快活で気まぐれで頭が良くて、妖精みたいな娘だった。小さな頭の中でいつもなにか企んでいる厄介なお嬢さんで、まぁ、私に似て変わり者だったよ」
「どうして……亡くなったの? 病気で?」
「いいや……殺人、というべきだろうか」
パルヴィス男爵の言葉にゲルタが小さく息をのんだ。
「三年前のあの日、面白いものを見せてあげると言って、アウレリエは私とユーリを真夜中の塔に呼び出した。うちの屋敷の庭に建っているあの塔だ。もともと私の祖父が、星の観測をするために作らせたらしい。
私が塔へ行ったときには、アウレリエは内臓を食いちぎられて床に倒れていて、その横でユーリが茫然としていた。ユーリが国を出たのは、その一年後だった。一年のあいだ、アウレリエの仇を討つにはどうすればいいか調べ続けていたのだろう。それで強力な武器を手に入れるため、旅に出たのだろう。そうして魔より強い魔剣を持ち帰ったというわけだ」
「でも、あの剣は……」
ユリジェスが封印の鞘から抜き放ったときの、体を駆け抜ける激痛がよみがえり、ゲルタは震えた。
「あの剣は、とても危険なのよ。いつか彼自身を滅ぼすかもしれない。王子さまに言ってあげてください。復讐したって自分が死んだら、どうにもならないって。そんなのは、とんでもない大バカだって」
「私ではダメだ」
ムキになるゲルタを見て笑いながら、男爵は言った。
「私にはユーリを止められない。それができるのは、きみだけだよ、ゲルタ」
ゲルタはうつむいた。
「あたしだってダメよ。関係ないって言われたわ」
「いや、できる。ゲルタ」
パルヴィス男爵が力を込めて言う。
「本当の王女であるきみなら、魔を切る剣の代わりにユーリを守る力になれるだろう。
知ってるかい? 昔から王子と王女は二人で一緒に魔物を退治してきたのだよ。
どんな昔語りにも、王子のそばには王女がいた。
ましてやきみは本当の王女だ。愛しい男を救えないはずがない。
七つの山を超え、七つの靴を履きつぶし、七年の沈黙をしいられても、王子を邪悪な魔法から解き放つ力を、王女は持っているのだから」
男爵に励まされて、ゲルタは城に戻った。
男爵の言うような力が本当に自分にあるのか、よくわからなかった。
部屋に入ると、テーブルの上に細長い箱が置いてあった。
開けてみると、金の花に小さなダイヤの粒がついたペンダントが入っていた。
『小さな貴婦人へ』
そう書かれたカードが添えてある。
きっとユリジェス王子だ。
ゲルタはすぐにそう思った。
王子さまが金のボタンの代わりに、このペンダントを贈ってくれたのだと。
不幸なゲルタを憐れんだのか、冷たいことを言ったお詫びのつもりなのかはわからないし、どうでもよかった。
ゲルタはただ嬉しくて嬉しくて、ペンダントを胸の前で握りしめた。
「……嫌われたわけじゃなかったんだ。嬉しい」
この日の夕食の席で、ゲルタはぎこちなくユリジェスに笑いかけた。
ユリジェスはほんの少し赤くなって、横を向いた。
それだけで胸が躍り、幸せだった。
夕食のあと、立ち去ろうとするユリジェスを追いかけて、ゲルタは言った。
「魔を退治するのに、あたしも協力させてください」
まっすぐに王子を見つめて言う。
「あたしは男の子ではないけれど、王子さまの力になります。その剣を王子さまが抜くことがないように、あたしがそばで見張っているつもりです。剣の代わりに、あたしが王子さまを助けます。絶対に剣を抜かせたりしないよう、役に立ってみせますから」
ユリジェスは最初は驚きの眼差しで、自分よりもずっと下のほうにあるゲルタの小さな顔を見おろしていた。
それから少しだけ哀しそうな目をし、それがだんだんとやわらいで、安らかな眼差しになり──固く閉じていたつぼみが開くように、唇をゆるめ──微笑んだ。
「……頼もしいな」
ユリジェスがゲルタに手を差し出して、今度は精悍な表情で言う。
「ゲルタ、きみの力をぼくに貸してほしい」
「はい」
ゲルタはその手をとった。
◇◇◇
翌日から、ゲルタはユリジェスと毎日街を歩いた。
手がかりらしい手がかりがつかめないまま、一週間が過ぎ去った。
「ごめんなさい、あたし、えらそうなこと言ったのに」
「いいや、この一週間、街で殺人がなかったのは、おそらく、やつがきみを警戒したのだと思う。それより今夜はいよいよ、きみのお披露目だ。落ち着いてやれば、必ず成功する。頑張れ」
ゲルタに冷たかったころのユリジェスから考えられないほど、彼はゲルタに優しくしてくれる。
青い目に哀しみが浮かぶことはあるけれど、こんなふうにその目を和ませて、微笑んでくれもする。
ゲルタにとってユリジェスはずっと、まばゆく美しい人で。
そのまばゆい人が、ゲルタをまぶしそうに見つめて真摯な口調で語る。
「初めて会ったときから、たった一ヶ月で、きみは別人のように綺麗になった。今ではちゃんとした貴婦人だ。自信を持て、いいな」
宝物のような言葉を、ゲルタは胸にしっかり抱きしめた。
以前は、王子や他の人たちに認められたくて勉強していた。今はただ、彼にふさわしい女性になりたいと心から思った。
そうしてゲルタは、あの星色のドレスを着て、ユリジェスからもらった金の花のペンダントをつけて、支度を終えた。
「お綺麗ですよ、ゲルタさま」
マリーンも、出来の悪かった生徒の晴れ姿を心から喜んでくれた。
舞踏会の会場の広間にゲルタが現れると、大きなどよめきが起こった。
向けられる眼差しは、おおむね好意的だった。
サヴィーネさまでさえ、ゲルタの変身ぶりを、ぽかんと口を開けて見ている。
ダンスがはじまると、ユリジェスがゲルタのほうへ近づいてきて、優雅な仕草で手を差し出した。
「まぁ」
「あら」
会場の貴婦人たちが、ささやきを交わす。
「王子さまが、申し込まれたわ」
ゲルタは幸せで息が止まりそうだった。
マリーンから、さんざん叩き込まれた返事の仕方も忘れて、
「お相手願えますか」
と微笑むユリジェスに、震えながら、
「はい」
と答えた。
やわらかな音楽が流れ、まるで夢を見ている気持ちで、ゲルタはユリジェスと踊った。
ユリジェスはゲルタが踊りやすいように優しくリードし、青い瞳は優しく、あたかかく、ゲルタを見おろしている。
(これは夢だわ)
(全部、なにもかも、夢に違いないわ)
(でも夢でもいい。あたしは幸せだわ)
突然背中に突き刺さるような痛みを感じて、ゲルタは踊るのをやめた。
ユリジェスが驚いて、どうしたのかとゲルタに尋ねたが、その目がゲルタの後方に立っている、ある女性を見て、大きく見開かれる。
「アウ……レリエ……」
ゲルタは振り返って、その人を見た。
地下の霊廟で見たえんどう豆の花と同じ、毒々しくあざやかな紫のドレスを着た美女が、微笑みながらゲルタたちを見つめていた。
黒い髪も、黒い瞳も、赤い唇も、なにもかもが肖像画のアウレリエとうりふたつだ。
ゲルタの手を握っていたユリジェスの手が、するりとほどけて、彼は魔法にかけられたように、ぼーっとした目をして、アウレリエのほうへふらふらと近づいていった。
ゲルタは、足がその場に縫いつけられたように動けなかった。