三章 ゲルタ、お妃教育を受ける(2)
王子の伯母の次は叔父かと、ゲルタがドギマギしていると、男爵はようやく口を開いた。
「きみが本当の王女かね?」
「は……はい、ゲルタです」
「私はパルヴィス男爵だ。知ってるね」
相手が口の上の細い髭をピンと立て、あんまり自信たっぷりに胸を張るので、ゲルタは困惑した。
パルヴィス男爵なんて聞いたこともな……いや、そういえば誰かがそんな名前を口にしていたような……。
ゲルタが、あわあわしているのを、“かの有名な男爵サマ”を目の前にしての戸惑いと恥じらい”と解釈したらしい彼は、話をどんどん進めてゆく。
「きみが本当の王女なら、国民を守るのがきみの義務だ。私と協力して、街を騒がす化け物を退治しようじゃないか」
「は……?」
「いやいや、か弱い女性に、剣を持って戦えとは言わんよ。きみは街に潜む化け物を見つけ出してくれればいい。あとは私が引き受ける。さぁ、いざゆかん」
男爵は、ゲルタの手を取って歩き出した。
“化け物”だの“街を騒がす”だの言われて、ゲルタはようやく男爵の名をどこで耳にしたのか、思い出した。
連続通り魔の唯一の目撃者が、ナントカ男爵というのではなかったか。
その男爵は変わり者で知られていて、冒険旅行と称しては外国を飛び回っており、何年かに一度くらい、山のようなガラクタを持って帰ってきたり、ホラとしか思えない土産話を語ったりで、彼の証言は噂にはなったが、真面目に取り上げられなかったと聞いている。
そこで彼は、自らの手で化け物を捕らえ、潔白を証明すると宣言したらしい。
ナントカ男爵は、パルヴィス男爵だったのだ!
「パルヴィス、男爵……あの、わたくしはそういったことは……」
「関係ない、とおっしゃりたいのかね?」
男爵の目が皮肉げに光った。
「この先、赤の他人が、何人、何百人、やつの毒牙にかかろうと、舞踏会で優雅に上品にダンスを踊るほうが大切というわけだね」
「それは……」
ゲルタは口ごもった。
男爵は初めの印象より、はるかに頭の切れる人物らしかった。
一方的に押しまくったかと思えば、今度はこんなふうに冷たく突き放す。
さらに、とどめの言葉が放たれた。
「ついさっき、サヴィーネさまにお会いしたが、ずいぶん興奮しておられた。きみを災いの根源とおっしゃっていたかなぁ」
◇◇◇
こうして、一時間後。
ゲルタはパルヴィス男爵と、街の通りを歩いていた。
勉強をサボって街へ行ったことが知られたら、女王は落胆するかもしれない。
けれどゲルタにも、譲れない矜持がある。
(それに……あたしが、“化け物”退治に一役買ったとなれば、サヴィーネさまも、あたしを認めるしかなくなるわ……)
まだ昼間で、大きな通りはさんさんと日が照っていて明るい。
人がたくさん歩いていて、賑やかだ。
この美しい街で、もう何人もの人たちが内臓を食いちぎられ、むごたらしく殺されているなんて、とても信じられない。
「どうだね、なにか感じるかね?」
「……いいえ」
「本当の王女は、どんな小さな邪の気配も見抜く力を持っているそうだ。しかし、どんな邪も本当の王女には近づけないというのだから、考えてみればずいぶん矛盾している」
男爵はぶつぶつ言った。
こんな天気の良い日に、平和な街をただ歩いているのが、退屈なのだ。
「パルヴィス男爵は、本当に赤い獣が遺体にかがみ込んでいるのを見たんですか?」
「そうとも。やつは頭が狼、全身を赤い毛におおわれ、鋭い牙と金の目をしておった。またその牙の長いことといったら──」
「あたし、頭はライオンって聞いたわ」
「誤報だ。狼が正しい」
「よくご無事でしたね」
「私は世界中を飛び回って、化け物退治も場数を踏んでいるからね。やつらの弱点を知っているんだよ」
男爵は偉そうに口髭をぴくぴく動かした。
「弱点ってなんですか?」
「まぁ、やつらは大抵朝の光に弱い。また汚れのないものの前では力を失う。たとえば銀のナイフ、聖水、オルガンの響き……本当の王女」
「それで昼の街に来たんですね。でも全然……」
「うむむ……やつらの隠れ家がわかればと思ったのだが、昼間は魔の気配が弱まるか。ん? どうした?」
ゲルタが急に立ち止まったので、男爵が目を輝かせて尋ねた。
「今……ヤギの鳴き声が……」
「ヤギぃ?」
胸がざわめき、ゲルタは走り出した。
地の底から湧き上がってくるような『メェ〜〜』という陰鬱な鳴き声は、いつもなにかの予兆だった。
あの赤い目のヤギが、笑いながらゲルタを呼んでいる。
来てごらん、来てごらん。秘密を教えてやるよ。
空気が重い。
肌がチリチリする。
見えない手がゲルタを押し戻そうとするのに、逆らって逆らって、息が苦しくなりながら辿りついたのは、街の教会だった。
「どういうことかね?」
「わかりません。でも……この奥、ううん、下に……なにか……」
呼吸がどんどんきつくなって、ゲルタは喘いだ。
「私が確かめてくるから、きみはここで待ちなさい。真っ青だ」
「いいえ、あたしも行きます」
ここまで来たのだから、男爵の言う化け物を自分の目で見ておきたかった。
ヤギの鳴き声も気になる。
男爵にすがりつくようにして、ゲルタは教会の地下の霊廟へ降りていった。
鉄製の扉には鍵がかかっているようだ。
男爵がポケットから針金を出し鍵を開け、芸達者なところを見せる。
重たい扉を開けると、異様な風景があった。
地下にずらりと並べられた棺から、えんどう豆が奔放に蔓を伸ばしていた。
鈴なりのえんどう豆は、風もないのにざわざわ揺れている。紫の花の毒々しさに、ゲルタは頭が割れるように痛くなった。
「魔を封じてあるのか? なんのために……いや、まさか!」
男爵が厳しい表情で叫んだ。
「死人返りか?」
ゲルタが頭が割れそうな痛みに耐えながら、どういう意味なのか尋ねようとしたとき、パチン! と鞘のはじける音がした。
あちらでもこちらでも、パチン! パチン! パチン! と鞘がはじけ、緑や紫のえんどう豆が、床にばらばらと転がった。
大量の豆が、さざなみのように、ゲルタたちのほうへ寄せてくる。
もう頭だけではなく、身体中のどこもかしこも痛くて熱い!
全身を千本の針で穿たれているようだ。
立っていられず、ゲルタは床にずるずると座り込んだ。
「おい、しっかりするんだ! きみに気絶されたら、私が困ってしまう」
気絶などできるわけがない。
神経が痛みに悲鳴を上げている。
背後で鉄の扉が音を立てて閉まった。
同時に、転がる豆から黒い手が何本も伸び、ゲルタたちに襲いかかってきた。
ダメ、コノ娘ハ触レラレナイ。
コノ娘ハ、潔キモノ。
手はゲルタを避け、男爵の足に絡みついた。そのまま棺の中へ引きずりこもうとする。
ゲルタは痛みに歯を食いしばりながら、男爵の前に壁となって立ちはだかった。
無数の手がうねうねと揺れ、ゲルタの手前で躊躇し、恨めしそうにつぶやく。
触レナイ。
触レナイ。
けれどゲルタも限界だ。
全身を貫く激痛に、また膝をつきそうになったとき。
扉が勢いよく開いて、まばゆい青年が飛び込んできた。
ユリジェス王子だった。
ゲルタは幻を見ているのかと思った。
「パルヴィス男爵、彼女を外へ連れていってください」
「ユーリ、しかし──」
「私のことはいいから、早く!」
ユリジェスは腰に下げていた剣を、銀の鞘から抜き放った。
とたんに、これまでで一番強烈な痛みがゲルタの全身を火のように駆け抜け、ゲルタは絶叫した。
ユリジェスの剣から、凄まじい“魔”が放たれている。
あれは邪剣だ!
人に災いを与えるものだ!
ユリジェスが振るう剣は、黒い手を次々切り裂いていった。
王子が優勢と見た男爵は、ゲルタを背負って階段を駆け上がった。
どうにか教会の外まで逃げのびて、男爵はゲルタを地面におろした。
痛みは嘘のように引き、呼吸も少し楽になった。
「パルヴィス男爵、王子さまは──」
「あの様子なら大丈夫ですよ。まったくすごい剣さばきだ」
「いいえ、違う。あの剣は魔の剣よ。使う人の魂を食いつくす危険な剣だわ」
「その通りだ」
ひんやりした声がして、ユリジェスが教会から出てきた。
かすり傷ひとつ負っていない。
あの剣は銀の鞘におさまっていて、今は“魔”を感じない。
鞘が封印になっているのだ。
「魔を切るのにもっともふさわしい武器は、それ以上の“魔”だ。私は二年のあいだ、この剣を探し回って、やっと見つけた。そして復讐をはたすため国へ戻ってきたんだ」
ユリジェスは険しい表情で語った。
「死人たちを化け物に変えて操っている魔物は、強大だ。ただ“魔”を感じられるだけの王女が出る幕はない。母上はきみをうまく焚きつけて、化け物退治をさせるつもりだろうが、これ以上厄介なことになる前に、きみは村へ帰るべきだ」
「女王さまが焚きつけてって……どういうことですか?」
掠れた声で尋ねるゲルタに、ユリジェスが冷然と告げる。
「まずサヴィーネ伯母が城へやってきた、次にパルヴィス男爵──タイミングが良すぎる。伯母はともかく、あなたは母上に頼まれましたね、パルヴィス男爵」
男爵はニヤリと笑った。
「私も、“本当の王女”の力を見てみたかったのでね。でも地下霊廟のことは知らなかった。きみの母君は、まったく油断のならないおひとだ」
ゲルタは茫然とした。
女王さまが、あたしを利用しようとしただなんて。
女王さまが必要としているのは、王子さまの花嫁ではなくて、魔物に対して武器になるあたしなの?
それだけだったの?
ショックを受けているゲルタを見て、パルヴィス男爵は弱っている表情になった。
「そんな顔はしないでくれ。女王陛下は、きみのことを高く評価しておられたよ。これは嘘じゃない」
「母上は“本当の王女”の力を買い被っているんだ。彼女になにができるっていうんだ。やつは、私一人で必ず倒してみせる」
「とにかく一度城へ戻ったほうがいい。ゲルタは疲れ切っている。私は寄るところがあるので、ユーリ、ゲルタを頼むよ」
ユリジェスは無言で、ゲルタを自分の馬に乗せてくれた。
馬は街の通りを、ゆっくり、ゆっくり、進んでいった。
王子の胸に、頭や肩があたるたび、ゲルタは胸がきゅーっとして、さっきまでとは別の理由で息が苦しくなった。それでも、途切れそうな声で尋ねる。
「あの……復讐って、どういうことですか。それに余計なことかも……しれませんけど、その剣は、やっぱり使わないほうがいいと思います」
「どちらも、きみには関係ない」
ユリジェスは、きっぱりと言った。
それから苦い表情で続けた。
「……母上がどういう考えでいようと、私は花嫁を迎えるつもりはない。
本当の王女を探しているというのは、母上や縁談相手への方便でもあったんだ。
本当の王女なんて、もうこの世に存在しないと思っていたのにな……。
きみが男だったら、力を貸してほしいと考えたかもしれない。しかしきみは女で、まだたったの十五歳だ。もとの生活に戻るほうが幸せをつかめるはずだ」
ゲルタは思い切り手綱を引っ張った。
馬がびっくりして、前足を高く上げる。
ユリジェスが慌てて馬をなだめた。
「なにをするんだ!」
怒りをあらわにする彼の胸を、ゲルタは握ったこぶしで、力一杯叩いた。
「もとの生活に戻って、幸せになんかなれるもんですかっ!」
口にしたら、次々言葉があふれてきた。
「あなたなんて、なにも知らないくせに!
小さいころから、ずっとひとりぼっちで、ごはんをもらえなかったり、鞭でぶたれたりしたわ!
地主の長男は、仲間と賭けをして、あたしを自分の女にしようとした。
あたしは、あいつの首のギリギリ横に包丁を刺してやって、屋敷を出てきたのよっ。
もう二度と戻れないわっ! 戻るくらいなら死んでやるっっ! あんな惨めで淋しい思いは、もう嫌っ。
あたしは、お姫さまになって楽をしたかったわけじゃない。ただ……みんなに、あたしを認めてほしかった。安心できる自分の居場所欲しかった……。幸せになりたかった」
気持ちは昂る一方で、喉が裂けそうに痛くなり、目が熱くなって涙が出てきた。
今、王子に泣き顔を見られるのは死ぬほど悔しかったし、こんなふうに気持ちをぶちまけてしまったことも、恥ずかしくて後悔していた。
「っ……一人で、帰る」
馬から降りようとするゲルタの腰を、ユリジェスが腕を回して抑えた。
「離してよっ、一人で帰れるわ。初めての夜も、一人で歩けたんだから」
ユリジェスの腕をほどこうと前のめりになったとき、ゲルタの胸もとから鎖がこぼれた。
ユリジェスが、ハッと目を見開き、鎖の先で揺れる金のボタンをじっと見る。
「それは……」
ゲルタは、カァァァァッと赤くなった。
これ以上の屈辱はない。
ユリジェスが金のボタンを手にとって眺める。その直後に、ゲルタは彼を押しやり、馬から飛び降りた。
向こうがとっさにボタンを握りしめたため、鎖がブチリと切れる。
地面に足をついたゲルタは、あとはもう後ろも見ずに走り出し、暗い路地裏に逃げ込んだ。
また涙がぽろぽろこぼれてきた。
片手でごしごしぬぐうと、疲れた足を引きずるように歩き出した。
鎖を引っ張られたときにこすった首の後ろがヒリヒリして、金のボタンを下げていた胸が、今はぽっかり穴が空いたように冷たく淋しかった。