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三章 ゲルタ、お妃教育を受ける。(1)


「ごきげんよう」

 

 ゲルタはスカートの裾をつまんで、腰をかがめた。

「あー、違います」

 礼儀担当のマリーンが、ぱんぱんと手を叩いた。

「そんなにスカートを持ち上げては、太ももまで見えてしまうでしょう。スカートの優美なラインをくずさないよう、そっと持ち上げるんです。表情ももっとやわらかく、口ではなく目で笑うんです。首は少しかしげるのが愛らしくてよろしいですね」


 いっぺんにあれこれ言われても、よくわからない。


 たかが挨拶ひとつに、こんなにめんどうくさい決まりがあるなんて、ゲルタはぜんぜん知らなかった。

 村育ちのゲルタが、“知的で優雅で美しい貴婦人”になるための学習をはじめてから、そろそろ二週間になろうとしている。

 結果はかんばしくなかった。


 食事の作法では、びっくりするほどたくさんのことを覚えなければならなかった。

 何本ものフォークとナイフ、スプーンがテーブルに並べられ、いちいち、これはなにを食するときに用いるものかを説明され、頭の中がぐるぐる回った。


 詩の暗唱では、つい農村訛りが出てしまうし、バイオインリは力を入れすぎて弦を切ってしまった。


 刺繍は、さんざん針仕事をしてきたので合格点をもらえるかと思いきや、季節に合わせて色や図柄を選ぶとなると、まったくわけがわからなくなる。


 一番苦労しているのは“優雅な立ち居振る舞い”というやつだった。

 女官の中でも古株で、ゲルタの教育を任されているマリーンは、ゲルタの歩き方から指の動かし方、目線の位置まで、厳しくチェックを入れた。

「ほらほら、指の位置が違いますよ。笑うときは、手にをそんなに広げるものではありません。手を軽く握るか握らないかで口もとにおいて……あー、また違っています」


 何度も何度もやり直しさせられて、ゲルタは情けなかった。

 これでは二週間後のお披露目パーティーに、間に合わない。

 約束の期限はもう半分も過ぎたというのに、ゲルタはなにひとつ身につけていないのだ。

 こんな自分では、王子の心をつかむことなんて、とてもできはしない。


 二週間前、城から出ていけと冷たく告げるユリジェス王子に、ゲルタは言ったのだ。


 ──あたしが王子さまのおっしゃるような、優雅で知的な姫君になったら、花嫁として認めてもらえますか?


 必死だった。

 もう村には帰れない。

 王女としての存在を否定されたゲルタに、生きる道はないのだ。


 ──やっても無駄だ。きみが優雅な貴婦人になるとは思えない。貴婦人はそんなふうに男に食い下がったりしないものだ。


 ユリジェスは冷たかったが、女王がひとつ提案をした。


 ──どうかしら? 一ヶ月のあいだ、ゲルタに未来の王妃にふさわしい貴婦人としての教育をしてみては。一ヶ月後に舞踏会を開いて、成果を確かめてみましょう。ゲルタが社交界で認められれば、あなたがゲルタを拒む理由はなくなるはずですね、ユリジェス。


 ユリジェスは不満と苛立ちの残る表情で、そっけなく答えた。


 ──…………ご自由に。


 ユリジェスの態度に、また胸がズキッとしたが、一方で舞踏会や社交界という言葉は、ゲルタの胸を高鳴らせた。

 ずっと夢見ていた世界が、手をのばせば届く距離にある。


(うんと努力しよう)

(頑張って頑張って、王子さまの望むような貴婦人になるんだ)


 強く決意したゲルタだったが、二週間たった今でも、社交界や優雅な貴婦人は、はるか遠くにある。

 どうしてこんなにバカで不器用なのだろうと考えると、悔しくてたまらない。

 手も足も自分のものなのに、なぜ思うように動いてくれないのだろう。


「ダンスに誘われてお返事をするときも、慎みを忘れてはいけません。ささやくような声で、“喜んで”とおっしゃるんですよ」

「よ、喜んで」

「少し、はにかんで」

「喜んで」

「そんなに乱暴に手を突き出すものではありません。雲が流れるように、そっと、なめらかに」

「喜んで……」

 

 そこへ女王が様子を見にやってきた。

「あらまぁ、これからダンスのレッスンなのね? パートナーがいたほうがいいわね。誰か、ユリジェスを呼んできてくださいな」

 母親の命令で、ユリジェスが、いかにも不機嫌そうに現れた。

 彼と顔を合わせるのは久しぶりで、ゲルタはすっかり緊張してしまった。

「ご……ご、ご機嫌よう」

 マーリンに習ったとおり、小首をかしげて挨拶したが、ユリジェスは険しい表情のまま、ふいっと目をそらした。


「さぁ、舞踏会の予行練習だと思って、二人で踊ってごらんなさい。ユリジェス、あなたはもっと普通の顔ができないんですか。そんなしかめっつらでは、ご令嬢たちは怖がってしまいますよ」


 女王に注意されても、ユリジェスはむっつりと口を曲げたままで、気が乗らなそうにゲルタの手をとり、ステップを踏みはじめた。

 まったくやる気がない、相手を突き放したステップに、ゲルタは困ってしまった。

 ぎくしゃくして、二度もの足を踏んでしまう。

「すみません」

 小声で謝っても、ユリジェスはじろっと睨むだけだ。

 

(えーと……右足でステップして、それから、それから……男性のリードでターン……)


 ところが、ユリジェスはリードをすっかり放棄している。

 一人で回ったゲルタは、バランスを崩して彼のほうへ倒れ込んだ。

 とっさに彼の服の袖口をつかんだら、ビリッと音がして、袖が破け、二人で床に転がってしまった。


「たいした貴婦人だな。舞踏会は中止にしたほうがいいんじゃないか?」


 ユリジェスは自分だけさっさと立って、ゲルタを見おろして辛辣にそう言い捨てると、部屋を出ていった。

 ゲルタは床にしりもちをついたまま、情けないやら恥ずかしいやらで声も出ない。

 女王が慰めてくれたけど、耳に入らなかった。

「ダンスはこれくらいにしておきましょう。次の文学の先生が来るまで、少し休憩なさい、ゲルタ。お散歩でもしてくるといいわ」

 ゲルタはしゅんとしたまま、

「……はい」

 と言って、庭のほうへ歩いていった。

 なぜ王子さまは、あたしにあんなに冷たいのだろう……と考えると、悲しくてならなかった。


(ダンスのタイミングも、わざとはずされたんだわ……)

(あたしのことがよっぽど気に食わないんだ……)


 握りしめていた手に、固い感触があった。

 開いてみると、手のひらに金のボタンがのっている。

 

「王子さまのだ……」


 袖を破いたときに、引きちぎってしまったのだろう。

 本人に直接ボタンを返しにゆく勇気は、今のゲルタにはなかった。


(女王さまに返してもらおうかな……)


 しばらくボタンを見おろしてついたが、またきゅ……っと握りしめた。

「……これはお守りにしよう」

 手のひらから不思議な熱が伝わってくるようで、ゲルタは握ったこぶしを胸にそっとあてた。

 そうして庭へは行かず、次の授業の予習をするため、部屋に戻った。


 ◇◇◇ 


 舞踏会を一週間後に控えた午前と午後、ゲルタはそれぞれ二人の客人を迎えた。

 朝一番でやってきたのは、宝石をたくさんつけた太ったご婦人だった。

 彼女はゲルタを見るなり、珍獣にでも出くわしたみたいな大声をあげた。


「んまぁーっ! この娘が、ユリジェスの婚約者ですって! 今度の舞踏会は、未来の王妃のお披露目パーティーだと聞いたけれど、まさか本気ではないでしょうね」


「あら、わたくしは本気ですよ、サヴィーネさま。そのためにゲルタも、毎日教師について勉強しております。最近は上達が早くて、わたくし、ゲルタをみなさんに紹介するのを楽しみにしておりますのよ」

 女王の言葉に、“サヴィーネさま”はお肉のたっぷりついた体を、ブルブル震わせた。

「頭がヘンになったとしか思えないわ。王家に庶民の血を入れるなんて、歴代の国王さまや、わたくしの父が知ったら、どんなにお嘆きになることでしょう。最近、街でおぞましい事件が起きているのは、亡くなった先代の国王さまの警告かもしれません。ええ、きっとそうですわ。こんなみすぼらしい娘を王妃になんてしたら、もっと恐ろしい災いがこの国に降りかかるでしょう」

 ゲルタが名乗り出る前から事件はあったのに、とんだ言いがかりだ。

 反論したかったが、相手は先先代の国王の姫君で、王子の伯母にあたる女性だ。うかつなことを言えば、ますます立場を悪くするだけなので、ゲルタはぐっと我慢した。


 代わりに女王が威厳を込めて言う。

「わたくしの夫も、そのお父さまも、この国に災いをなすようなことは決していたしません。サヴィーネさまのお言葉は、二人の国王さまに対する侮辱ともとれますわ」


 サヴィーネさまは一瞬口ごもったが、また眉をぐっとつりあげて、

「と、とにかく、わたくしは絶対認めませんからね! 縁談をお断りした姫君たちにも申し訳が立たないわ。みんな、身分もご容貌もご教養も、それは素晴らしいかたばかりでしたのに」

 と、言って帰ってしまった。 

 女王は、やれやれとため息をついた。

 小姑のサヴィーネさまは女王にとっても、頭の痛い存在らしい。

「ああいうかただから、気にしないのが一番よ」


「……はい、平気です」


 ゲルタの言葉に優しい目をしたあと、女王はまた少し眉をくもらせた。

「けど、街で起こっている猟奇事件がゲルタのせいだなんて噂を振りまかれては、困ってしまうわね。ただでさえ奇妙な事件で、みんな不安な気持ちでいるのに」

 最初の殺害から、半年とも、一年とも言われているが、被害者は増えるばかりで、まったく犯人の手がかりはない。


 ──人間の仕業ではないよ。悪魔に違いない。


 そんな言葉が、ひそひそとささやかれているという。

 最近では連続通り魔事件に見せかけて、邪魔者を消そうとする不心得者まで現れて、混乱は増すばかりだった。

 それが全部ゲルタのせいということになれば、たとえ噂だけでもよくないことになる。


「大丈夫ですよ。ゲルタがお披露目の舞踏会で堂々と振る舞えば、誰もゲルタを(おとし)めたり中傷したりできません」


 つまりゲルタが未来の王妃として受け入れられるかどうかは、舞踏会にかかっているといえる。

 不安になるゲルタを、女王が励ました。

「わたくしはゲルタが成功すると信じていますよ。最近のあなたの上達には驚かされると、先生たちもおっしゃっていましたからね。なにかいいことでもありましたか?」


「い、いえ……あの……」

 ゲルタは赤くなって、胸のあたりをそっと押さえた。


 王子の金ボタンに鎖を通して、いつも服の下にかけていたのだ。

 ユリジェスがゲルタに冷たいのはずっとだけど、こうして胸に手を置くと、甘酸っぱい疼きとともに、力がわいてくる。

 舞踏会では王子さまを振り向かせるような、美しい貴婦人になりたい。

 ユリジェスのあのひんやりした青い目に、ほんの少しでも熱がこもったら──ゲルタにダンスに申し込んでくれたら──。


(そしたら、あたしはもう王妃になれなくてもいい)

(じゅうぶん幸せだし、満足だわ)

 

 ◇◇◇


 午後の客人は、口髭を生やした、すらりとした中年貴族だった。

 ゲルタが詩の暗唱をしているところへ、

「やぁ」

 と軽やかに挨拶をして入ってきて、ゲルタの周りをぐるぐる回る。

「困ります、パルヴィス男爵。ゲルタさまは今、大事なお勉強中で──」

 後ろから追ってきた女官に、

「あ〜、大丈夫大丈夫」

 と、これまた軽い調子で答え、またゲルタの顔を見て、ふむふむとうなずいた。


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