二章 花嫁の条件は“本当の王女”であること(2)
王子はすっかりゲルタに興味を失ったように、冷たく美しい横顔を向けて立ち去った。
ゲルタの胸には、王子の言葉が氷柱のように突き刺さっていた。
──今までの花嫁候補の中で、一番最低だ。
自分が綺麗でも可愛くもないことは、よく知っていた。
ウィールたちにも、さんざん言われてきたから。
痩せっぽっちの、みすぼらしい小娘。
おまえに男を惹きつける魅力なんてあるもんか。
ウィールたちの言葉は無視できた。
けれど、王子のたった一言は、ゲルタにとって致命傷となる打撃だった。
世界中の人間から醜いと後ろ指をさされてもいい。
ただ一人、王子にだけは美しいと思われたかった。
いつか王子の目に映る自分は、誰よりも美しく気高いのだと信じていたのに。
あんまりショックで、目の前がぼやけて、歩き出すこともできない。
女王がいたわるように、ゲルタの肩を抱いた。
そんなことをしたら、女王のドレスが汚れてしまうだろうに。
優しい声で、そして少し困ったように言う。
「しかたのない子ね。
そんな言いかたをされたら、女の子は傷ついてしまうのにね。
気にすることはありませんよ。王子は花嫁候補に対して、とても冷淡なの。
あなたが本物だとわかれば、きっと態度も変わります。
さぁ、お風呂に入って綺麗にしてらっしゃい。
お客さま用の、一番いい寝巻きを用意しておきますからね」
◇◇◇
侍女の案内で、ゲルタはあたたかいお風呂に入った。
風呂も大理石で作られ、地主の家のものとは比較にならないほど豪華だった。
湯に香油がたらしてあって、花の甘い香りがする。
お湯に顔を沈めて、ゲルタはポロポロ泣いた。
泣いても泣いても、胸が痛くして苦しい。
(やっと王子さまに会えたのに)
哀しくて孤独で、つらくて、恥ずかしくて、涙が止まらなかった。
冷え切った体が芯からあたたまると、少し気分が落ち着いたが、心の中にひりひりする痛みは残った。
ブラシと石鹸で、体を思い切りこする。
傷がズキズキ痛んだけれど、かまわずこすり続けた。
上から下までムキになって磨き上げ、またお湯に首までつかり、ぼんやりする。
擦り傷だらけの手を見おろしていたら、ふと、森で出会った黒ずくめの紳士のことを思い出した。
──お困りのようですね、お嬢さん。
そう紳士は言った。
病的に白い肌。
整いすぎて作り物めいた顔立ち。
黒い目は青い稲妻を反射して、不気味な光を放っていた。
──さぁ、お嬢さんの願いごとを話してごらんなさい。“約束”をして、私が叶えてあげましょう。
ゲルタは、おずおずと言った。
──この森を出て、王子さまに会うこと。それから……。
──それから?
──……。
小さな虫がように背中を大量にざわざわと這い上ってくるような不快感に、ゲルタは口をぎゅっと閉じた。
紳士の隣で、赤い目のヤギが、うっすら笑っているように見える。
──お嬢さんの願いを叶えましょう。ただひとつ、約束してください。いつか私にお嬢さんの持つものをひとつくださると。
ゲルタは不安を押し殺し、うなずいた。
ゲルタには失って困るものなど、なにもなかったから。
──右手の小指を出しなさい。これが契約となります。
紳士はゲルタの指に黒い針を刺した。
あっ、と思ったときには、指の先端から血がにじみ出て赤い珠のようになっていた。
紳士はゲルタの血を白いハンカチににじませ、胸のポケットにしまった。
ゲルタは両親がいなかったので、こんなふうに他人に血を与えるのは、いけないことだと知らなかった。
ただ、とても不吉で恐ろしい心地がした。
紳士はゲルタの先に立って歩き出した。
遅れないように一生懸命についていって、街へ続く道へ出たときはもう、黒い紳士の姿はどこにもなかった。
──メェ〜〜〜〜。
ヤギのいななきだけが、切れ切れに耳に聞こえた。
お湯につかったまま、ゲルタは針を刺された右手の小指を、じっと見つめた。
いつかゲルタの持つなにかをくれと、紳士は言った。
「……あたしには、他人にあげられるものなんてないのに」
あの紳士は、ずいぶん損な取引きをしたものだと思う。
風呂からあがると、女官たちがたいそう手ざわりのよい白い肌着と、絹の寝巻き、淡い水色のガウンを用意して待っていた。
肌着にも寝巻きにも繊細なレースの縁取りがついていて、ゲルタは小さくため息をついた。
女官はゲルタの薄茶色の髪を丁寧にとかし、ガウンと同じ水色のリボンをつけた。
鏡の中のゲルタは、ガリガリに痩せていて、おどおどして見えた。
寝巻きもガウンも綺麗すぎて、ガチョウ番の娘には似合わないような気がして……。
「ただいまベッドをご用意をしておりますので、今しばらく、こちらでお待ちくださいますよう」
ゲルタのためにあたたかいスープと干し葡萄の入ったパン、それに赤い葡萄酒が運ばれてくる。
パンもスープも驚くほど美味しかった。
葡萄酒を飲むと、体がぽかぽかとあたたかくなり、眠くなってきた。
ここで眠ってはいけないと思っても、たくさん歩いて疲れきっている上に、おなかもほどよく満たされて、ずるずると睡魔に引き込まれそうになる。
ダメ、ダメよ。
眠ってはダメ。
お行儀の悪い娘だと思われるわ。
ゲルタは手の甲をつねり、立ち上がって部屋の中をあちこち歩き回った。
早く迎えがこないかと、そっとドアを開けて外をうかがうと、女官たちが両手に白いシーツを持って、整然と廊下を進んでゆくのが見えた。
列は、なかなか途切れない。
シーツのあとには、ふかふかの白い布団を持った女官たちが続く。
あんなにたくさんの布団を、なにに使うんだろう……。
ゲルタは眠い頭で考えるが、見当がつかない。
仕事を終えたらしい女官が、会話しながら戻ってきて、ゲルタは慌ててドアの後ろに身を隠した。
「それでね、王子さまが、なんて言われたと思う? 『今までで一番最低だ』ですって」
「本当ね、きっとすぐにボロが出るわよ」
ドアのこちらで、ゲルタはうつむいた。
どうして身の程知らずに名乗り出たりしたのだろうと、体がひりひりするほど後悔していた。
試験の結果、本当の王女ではないと判断されて、城から追い出されることを、何度も想像して、そのたび恥ずかしさに息が止まりそうになる。
迎えの女官が来て、ゲルタは急いで椅子に座り直した。
女官に案内されて寝所に辿り着く。
そこでゲルタが見たのは、驚くべき光景だった。
「!」
天井に届きそうなほど高い柱が四方についた金のベッドに、シーツと布団が、何枚も、何枚も、積み重ねられている。て、
まるで建築物のようだ。
いったいシーツと布団は、何枚あるのか!
ゲルタがあっけにとられていると、女官が金の梯子を持ってきて、ベッドに立てかけた。
「どうぞお休みください」
ゲルタは戸惑いながら、おそるおそる梯子を登っていった。
一番上に枕がひとつと毛布が一枚ある。
毛布をかぶってベッドに横になると、あまりのやわらかさに体が布団の中に深く沈み込んでゆく。
女官たちは明かりを消して、部屋から出ていった。
(……女王さまは来てくださらなかった)
(あたしのことなんて、やっぱり試験するだけ無駄だと思ったのかしら)
悲しかったけれど、やっと眠れるのは嬉しかった。
とにかく今は眠ることだ。
このあたたかくて、やわらかいベッドで眠れば、そのまま天国へ行けそうだ。
そのとき、背中に突き刺さるような鋭い痛みを感じて、ゲルタは起き上がった。
「痛っ! な、なに? なにか下に……」
手でさぐっても、すべすべした絹の感触があるだけだ。
気のせいかと再び横になったが、やはり背中に突き刺さるものがある。
背中のその部分が、じりじりと熱くなり、ノミと金槌でガンガンと穿たれているみたいだ。
ゲルタは何度も何度も寝返りを打った。
体も心も、くたくたに疲れきっていて、早く眠りたい! と叫んでいるのに、背中があまりに痛くて眠ることができない。
どうしてっ? ガチョウ番の娘には、王族のベッドは合わないっていうの?
そんなバカな話があるものか。
けれど、この痛みは無視できない。
「もーいやっ!」
ゲルタはとうとう毛布を背中にかぶせ、枕を脇にかかえ、梯子を降りはじめた。
「床で眠るほうがずっとマシだわ」
ミノムシのように毛布にくるまり、横になる。
毛布は厚みがあり、あたたかくて快適だった。
ゲルタはすぐに、ぐっすり眠り込んでしまった。
◇◇◇
目を覚ますと、女官が二人、あきれたようにゲルタを見おろしていた。
まずい! 寝過ごしてしまった!
ゲルタは焦って立ち上がった。
誰かが来る前にベッドに戻るはずだったのに、なんという失態だろう。
ふと見ると、部屋には女官だけではなく女王も来ていた。
女王は厳しい顔をしている。
もうなにもかも終わりだ!
ゲルタは頭の中が真っ白になった。
床で眠るなんて、育ちの悪さを自分で証明したようなものだ。
女王さまもあきれているに違いない。ずっと黙っている。
ゲルタは涙をこらえながら、床を見つめていた。
「こちらで用意したベッドは、お気に召しませんでしたか?」
女王が静かすぎる声で尋ねる。
ゲルタは下を向いたまま消え入りそうな声で、
「背中に、なにかあたって……痛くて、眠れなかったんです……」
と答えた。
女官たちが不思議そうに顔を見合わせる。
言わなければよかったと、すぐに後悔した。
やわらかい羽布団をあれほど重ねたその上に横になって、背中が痛くなるわけがない。
ゲルタの言葉は、愚かな言い訳にしか聞こえないだろう。
「あなたは、背中が痛くなったので、床でお休みになったというわけね」
女王は怒っているのだ。
声が冷たく淡々としている。
「……朝食の用意ができています。着替えたらいらっしゃい」
女王はそう言って、部屋から出ていってしまった。これ以上ゲルタといるのは不愉快だというような、せかせかした退出だった。
女官たちはゲルタの寝巻きを脱がせ、すみれ色のドレスを着せた。
髪をとかしたり、ドレスのリボンを結んだりする彼女たちの目も、冷ややかだ。
左右を二人の女官にぴったり挟まれ、長い廊下を連行されてゆくゲルタは、逃げることもかなわない。
長方形の長いテーブルでは、女王と王子が先に席について待っていた。
ゲルタは王子の正面に座らされた。
王子はドレスを着たゲルタを見ても、無関心だ。
三人の前にグラスが置かれ、きらきらしたお酒が注がれた。
「まずは乾杯しましょう」
女王が厳かにグラスをかかげた。
「本当の王女であるゲルタに。彼女に出会わせてくれた幸運に」
王子が目を見張る。
ゲルタも、驚いて女王のほうを見た。
上座に座る女王は、にっこりと笑った。
「ユリジェス、あなたの花嫁が決まりましたよ。これでわたくしは安心して、あなたに位を譲ることができます」
「母上!」
王子は憤然として立ち上がった。
「彼女が本当の王女だって? どういうことだか説明してください!」
女王は手のひらに乗るほどの銀の小箱を持ってこさせ、蓋を開けて中を見せた。
艶やかな光沢のある、緑の粒が入っている。
なにかの種のような……。。
「これがどういうものだか、あなたにはわかりますね、ユリジェス」
王子の顔がゆがむ。
「それは例のものを封じた上にまかれた……」
「そう、封じの上の封じとして、邪を吸いとりながら実ったえんどう豆です。
この豆には、はかりしれない邪が封じ込められています。
けれど普通の人間には、それを見分けることができないもの……。
昨晩、わたくしは、彼女のベッドにシーツを二十枚、羽布団を二十枚用意させました。それを全部重ねた一番下に、この豆を置いたのです」
女王は、ゲルタに今一度尋ねた。
「ゲルタ、あなたは今朝、毛布にくるまって床の上にうずくまっていましたね。なぜですか?」
「背中が……痛くて」
「我慢できなかったのですか?」
「はい……下から金槌で釘を打たれているような気がして……」
王子の前で、床で寝たことを明かされて、ゲルタは恥ずかしかった。
王子は顔をこわばらせて、ゲルタを睨んでいる。
女王は箱から豆をつまみ出し、テーブルの上に、ことりと置いた。
「さわってごらんなさい、ゲルタ」
わけのわからないまま手を伸ばす。
「あっ……!」
指先が火にふれたように、カッと熱く痛くなり、ゲルタは思わず引っ込めた。
王子が驚きの表情になり、女王は興奮して叫んだ。
「ごらんなさい! これがゲルタが、本当の王女であることの証しです!
国王は威厳を、女王は慈悲を、王子は勇気を、王女は純潔を表すもの。
王女は、邪悪なものがどこに身を潜めていようと見抜くことができるし、どんな魔も王女にふれることはできない。
本当の王女であれば、たとえ二十枚のシーツと二十枚の羽布団の上で眠っても、その下のたった一粒のえんどう豆に封じられた邪を、感じることができるのです」
女王はゲルタのほうを見て、優しく笑った。
「おめでとう、勇敢なゲルタ。あなたは合格したのですよ」
世界に光が満ちるような歓喜に、ゲルタは胸が震えた。
ヤン婆さんが言ったことは間違いではなかった!
十年間信じ続けてきたことは、無駄ではなかった!
ゲルタは認められたのだ!
「なるほど、彼女が本当の王女だということはわかりました。正直驚いています。あれだけ手をつくしても見つからなかったので、もう本当の王女は存在しないと思っていたのに……」
王子はゲルタが本当の王女だと知っても、少しも嬉しそうではなかった。
ゲルタの喜びも、一瞬で冷める。
王子は昨日、『今までで一番最低だ』と吐き捨てたときと同じ口調、同じ表情で言った。 冷たい、冷たい──冷たい顔で。
「私が探していたのは、知的で優雅で美しい、完璧な王女だ。ガチョウ番を妻にするつもりはありません。その娘に金品を与えて帰ってもらってください」
人生で一番つらい拒絶を、ゲルタはこのとき、一番求めていた人に与えられたのだった。