二章 花嫁の条件は“本当の王女”であること(1)
ウィールと悪友たちが酒を飲みながら話しているのを、ゲルタは聞いてしまった。
「けっきょく女なんて、ちょっと優しくしてやれば、ころっと落ちるもんさ。見ろよ、ゲルタのやつ、今じゃ王子サマより、おれに夢中だぜ」
「ちぇっ、賭けはおまえの一人勝ちか。金は入って女はモノにできて、うまいことだらけじゃないか」
「あん、あんなガリ、たいしてうまいとも思えないけどな」
「なんだ、やめるのか? そしたら賭自体もナシだぞ」
「まさか、あのお高くとまった小娘が、どんな声を出すのか興味あるしよ。ま、もうしばらく待ちな。固い女だから、じっくりやらないと」
ウィールは楽しそうに、クックと笑った。
ゲルタは体中の血が沸騰したかと思うほど、どこもかしこも熱くなった。
扉を打ち破るような勢いで、ウイールの部屋に入った。
「ゲルタ……」
テーブルの上に鳥の丸焼きや、酒を並べて、仲間たちと浮かれ騒いでいたウィールは、声をつまらせ目をむいた。
ゲルタは暖炉の横にあった火かき棒をつかみ、それでウイールの肩を思い切り叩いてやった。
ウィールが椅子ごとひっくり返る。
「あんたは汚らしい豚よっ!」
また火かき棒を振り上げるゲルタを、ウィールの友人たちが取り押さえる。
ウィールは顔をしかめて立ち上がると、ゲルタの頬を容赦なく殴った。
頬に鋭い痛みが走り、ズキズキと焼けるような痛みが追いかけてくる。
「ご主人さまに手をあげちゃいかんな、ゲルタ。そんな跳ねっ返りじゃ、ご主人さまに可愛がってもらえねーぞ」
ウィールはゲルタの口に、キスしようとした。
ゲルタは唾を吐いた。
ウィールの顔が憎悪にゆがむ。
「おい! おまえら! しっかり抑えてろ。こいつがどんな声をあげるか、みんなで聞いてみようぜ」
友人たちが、わっと歓声を上げ、ゲルタの上着は乱暴に引き裂かれた。
「やめてっ、あんたになんか、あたしにふれる権利はないんだからッ!」
「王子サマならいいってのか? あいにくと王子サマが探してんのは、本当の王女なのさ。ガチョウ番のイカれた女じゃない」
本当の王女──!
その言葉を聞いたとたん、信じられないほどの力が内側から湧き起こり、ゲルタは男たちの手を振り切り、テーブルの上に投げ出された、肉を切り分けるための包丁を握りしめた。
ゲルタの迫力に圧倒され、男たちが縮こまる。
ゲルタは包丁の先を向け、荒い息を吐きながら、じりじりとウィールに迫った。
「お、おい、やめろ、ゲルタ。誰か止めてくれ。ひぃ──」
包丁はウィールの首筋をかすり、後ろの壁にドスッと突き刺さった。
がたがた震えるウィールを冷たく見おろし、ゲルタは部屋を出ていった。
「おまえはクビだ!」
ウィールが後ろからひっくり返った声で叫んだ。
「ご自由に」
ゲルタは傲慢につぶやいた。
これでいい。
あたしはここを出て都へ行くのだ。
“本当の王女”として、王子に会うために。
◇◇◇
破れた服を着替え、粗末なショールで体を包み、ゲルタは地主の屋敷をあとにした。
「……二度と、ここには帰らない」
もう身を低くして耐えたりしない。
誰にも侮辱されたり、笑ったりさせない。
運命は、自分の手でつかみとるのだ。
そうとも、ゲルタが勝利しないはずがない。
王子がゲルタを拒むはずがない。
緑の目の魔女が、ゲルタこそ天が選んだ支配者の一族の血を引く、本当の王女だと断言したのだから!
いつも村から憧れを持って見つめていた城の塔は、夕暮れの中に荘厳と浮かび上がっている。
黄金にきらめくその場所を目指して、ゲルタは足を進めた。
◇◇◇
日が暮れ、行く先が見えないほど暗くなっても、ゲルタは休まず歩き続けた。
やがて雨がぽつぽつと降りはじめた。
ゲルタは足を早めた。
街へ続く道へ出るつもりだったのに、気がつくと森の中をさまよっていた。
頭上で雷の音が聞こえる。
木の根に足をとられて転倒し、手や頬に引っ掻き傷を作るうちに、ゲルタはだんだん怖くなってきた。
このまま森から出られなかったらどうしよう。
焦れば焦るほど、森の奥へ踏み込んでゆくようだ。
風も強まり、ゲルタの周りの木々がゆさゆさと揺れる。
服はびしょ濡れの上に泥だらけだ。
体は冷え切り、心臓と頭だけがカッカと燃えている。
雷鳴が鳴り響くたび、ゲルタはビクッと身をすくめた。
ゲルタの父親は、森で雷に打たれて亡くなったという。
自分も父のように巨大な力に打ち抜かれ、死ぬのかもしれない。
ゲルタの傲慢さが、ゲルタ自身を滅ぼすのだ。
「嫌っ、あたしはまだ死にたくない……っ。あたしは、まだなにもしていないわ。死ぬのは嫌っっ!」
助けてくださいと、ゲルタは誰に訴えているのかもわからないまま祈った。
(無事にお城に辿り着いて王子さまに会えるなら、どんなことでもします)
(お願いします、お願いします)
叩きつける雨と、吹き荒れる風の音に混じって、かすかな、いななきが聞こえた。
地の底から這い上がってくるような陰鬱な声だ。
ゲルタの心臓が冷え上がる。
声は三度、四度、聞こえた。
「メェ〜〜〜〜」
あれはヤギのいななきだ。
ゲルタの脳裏にとっさに浮かんだのは、ヤン婆さんが飼っていたヤギのことだった。
意地の悪い目でゲルタを見つめていた、あのヤギ──。
ゲルタは声のするほうへ走り出した。
声が近づくにつれて、頭がジンジンと痛くなり、耳たぶが熱くなった。
卵が腐ったような嫌な匂いがし、吐き気が込み上げてくる。
それでもゲルタは果敢に走り続けた。
木の根に足を挟まれ、靴が片方脱げてしまう。
地面に滑り込んだゲルタは、鼻先にヤギのひずめと、黒い長靴を見た。
「メェ〜〜〜〜」
顔を上げると、黒いマントをまとった貴族のような風貌の男が、ヤギを連れて立っていた。
ヤギの首に木の実の首飾りはなかった。
けれど、どこか辛辣で冷たい感じのする赤い目で、ヤギはゲルタを見つめている。
まるであのときのように。
(やぁ、また会ったね。あんた、なんでわざわざ走ってきたんだい? いつも運の悪い娘だね)
そんな声が聞こえたような気がして、ゲルタはぶるっと震えた。
男がゲルタに語りかける。
「お困りのようですね、お嬢さん」
美しいのに耳障りな音楽のような響きに、ゲルタは耳鳴りと頭痛がした。
よくわからないけれど──彼は、とても、嫌な感じがする。
しかし今、ゲルタのそばには彼しかいない。
彼が誰でもかまわない。
「助けてください」
掠れた声で、ゲルタは言った。
◇◇◇
お城の門番は、ゲルタを見て露骨に嫌な顔をした。
物乞いの娘だと思ったようだ。
「ほら、これでいいだろう」
銀貨を一枚差し出して、追い払おうとする。
こんな嵐の夜に門の警護をするのは、きっと彼も嫌なのだ。このうえ物乞いの娘と、面倒を起こしたくないのだろう。
ゲルタは門番の手を押しやった。
「あたしは、王子さまに会いにきたんです。王子さまに、本当の王女が訪ねてきたと伝えてください」
ゲルタは精一杯、威厳を込めて言った。
当然のことながら、門番は笑い出した。
「あんたが本当の王女だって? そしたら街の物乞いは、みんな王さまとお妃さまだ。さ、銀貨をもう一枚やるから帰るんだ」
「あたしは物乞いじゃありません。ヤン婆さんという魔女が、あたしが小さいときに、おまえは本当の王女だと言ったんです。王子さまが本当の王女を探していると聞いて、来たんです。あたしが本当の王女なんです」
「はいはい、ヤン婆さんによろしくな。婆さんが魔女だっていうなら、そのボロを綺麗なドレスに変えてもらうべきだったな。そしたら、またおいで」
門番はまったく取りあわない。
ゲルタがしつこく食い下がると、だんだん機嫌が悪くなり、ついに怒り出した。
「おつむの可哀想な娘だと思って甘くしてやれば、調子に乗って! おい、女、ここは、おまえのようなものが来る場所じゃない。もちろん王子殿下はおまえになぞ会わん。雨で頭を冷やせ」
門番に突き倒されて、ゲルタは濡れた石畳に倒れ込んだ。膝をついた。
そのとき、石畳にガタガタという振動が伝わってきた。
闇の中から、美しく飾り立てられた白い馬車が現れ、ゲルタのほうへ向かってくる。
「まずい、お戻りになられた。おい、さっさとどけ。あ、こら、待て!』
門番が叫んだときには、ゲルタは白い馬車の真正面に向かって駆け出していた。
御者が慌てて手綱を引く。
馬が足を高く上げていななき、馬車はゲルタのぎりぎり手前で止まった。
扉を叩こうとしたが、後ろから乱暴に引き戻された。
門番だった。
「このアバズレめ。なんということをしてくれるんだ」
ゲルタは馬車の窓に向かって、必死に叫んだ。
「聞いてください! あたしは本当の王女です! 王子さまに会わせてください!」
口をふさごうとする門番の手に、思い切り噛みつく。
「痛っ! こいつ!」
門番が腰から鞘ごと剣をつかみ、ゲルタに振りおろした。
すると、突然背中で、なにかがパチン! と弾ける音がした。
門番は首をひねった。
剣は、ゲルタの体を打ちすえようとしたその瞬間、固い壁にあたって押し戻されたようだった。
「風か……?」
門番が剣を見ながらつぶやく。
そのとき馬車の扉が開き、モスグリーンのドレスを着た品のある婦人がおりてきた。
「お客さまに失礼な振る舞いはおやめなさい」
婦人はやわらかな口調で門番に注意すると、手に持っていた外套で、ゲルタの体をすっぽり包んだ。
ふわりと、澄んだ品の良い香りと、ぬくもりに包まれる。
「さぁ、いらっしゃい。まずは体をあたためて、着替えなければなりませんね」
「女王さま、しかし!」
門番がとんでもないというふうに叫んだ。
婦人は優しげな微笑みを浮かべて、彼のほうを振り返った。
「あなたの剣は、なんのための剣ですか?」
「はっ、女王さまや王子さまをお守りするための……」
「それと、この国のすべての民を守るためのね。あなたの剣は邪を祓うため、教会で清められた聖剣です。哀れな娘に振りおろすものではないはずですよ」
「も、申し訳ございません」
門番は恥入り、肩をすくめて小さくなった。
婦人はゲルタを馬車に乗せた。
「門を入ってから、まだ少し距離がありますからね」
「あの……女王ま?」
「ええ」
女王は、やわらかに笑った。
「あたしのこと、信じてくださったんですか?」
ゲルタは、わずかな期待を込めて尋ねたが、女王は微笑んだまま、優しく、
「いいえ」
と答えた。
「じゃあ、あたしが哀れで、みすぼらしかったから、可哀想に思って拾ってくださったんでしょうか? でも、あたし、物乞いでも頭がイカれているわけでもありません」
ゲルタは誇りを傷つけられた気持ちで言った。
「いいえ、それも少し違います。たしかにあなたは、とてもお気の毒だと思いましたけど。
それだけで、あなたを城に入れることはできません。
わたくしは見かけよりずっと計算高くて冷たい女なのよ。
女王ですからね。
お気の毒なかたに、ただ手を差し伸べるだけではなく、どうすることが本当に正しいのか考えて、選ばなければならないの」
そう語る女王の目は笑っているが、その奥に物事の真偽を見定めようとする理知の光があった。
「門番が、あなたを剣で打とうとしたとき、剣はあなたに弾かれたように見えました。
この闇に、この雨ですから、わたくしの見間違いかもしれません。
けど、もし浄めを受けた聖剣が、純潔の象徴である“王女”の力に、はじかれたのだとしたら……。
あなたを見過ごしにすることは、王国を救う大切なかたを、見過ごしにしてしまうことになると思ったのです。
確かめてみる価値はある……と」
「あたし、大丈夫です。なんでもやります。あたしは本当の王女だから……」
ゲルタの声はだんだん小さくなっていった。
もし、あたしが失敗したら、あたしは偽物として追い出されてしまうんだ。
なにをやらされるんだろう。
あたし、えらい人の行儀作法なんてわからないし、読み書きの勉強も、ちゃんとしたことないし……。
長く続く廊下に、高い天井。床は大理石を敷きつめているのか、白く輝いていて、そこにふかふかの絨毯が敷いてある。
夜だというにの、ここはなんという明るさだろう。
紺色の服を着た女官たちが整列し、
「お帰りなさいませ、女王さま」
と挨拶する。
どの女性も髪をきっちり結い上げ、品があり、賢そうだ。
びしょ濡れの服の裾から、ぽたぽたと茶色の水を垂らしているゲルタを見て、一瞬驚いた顔をするが、すぐにもとのすまし顔に戻る。
ゲルタは滴り落ちる泥水で床が汚れるのを気にしながら、女王に連れられて歩いていった。
すると、カツカツという足音がして、まばゆいような青年が現れた。
「母上、お帰りになられたのですね」
母上!
ということは、この人が王子さまだ!
夢に見た人にようやく会えて、ゲルタは心臓がはじけそうになった。
王子はゲルタより三つ年上の十八さいで、輝く金色の髪と、深い青い目をしていて、とても端正な顔立ちをしていた。
こんな美しい青年を見たのは、初めてだ。
鼓動が鳴り止まないゲルタを見て、王子は細い眉をひそめ、不機嫌そうに尋ねた。
「彼女は?」
「あなたの花嫁候補ですよ、ユリジェス」
「花嫁……」
王子の目がひんやりし、ゲルタは頭から冷水をかけられたように感じて、一度に夢からさめた。
とても恥ずかしくなり、消えてしまいたいと思った。
この美しいお城で、泥水のしたたる服を着て、髪はバラバラ、手足も傷だらけの自分は、どんなにみじめにみすぼらしく見えるだろう!
「こちらは、どこの姫君でしょう」
怒っているような声で、王子は尋ねた。
ゲルタはもごもごと答えた。
「あたしは村でガチョウ番をしていて……でも、本当の王女だと、魔女のヤン婆さんが……」
ゲルタは涙が出そうになった。
なんて卑屈に言い訳がましく言葉を紡いでいるのだろう。
さんざん描いてきた王子との出会いに、こんなみじめな場面はひとつもなかった。
王子はゲルタにうやうやしく手を差し伸べ、『あなたを待っていたんです』と言ってくれるはずだったのに。
現実の王子の口から出た言葉は、真冬の溶けない氷のように、冷たく残酷なものだった。
冷え冷えとした声で、彼は言ったのだった。
「今までの花嫁候補の中で、一番最低だ」