一章 どん底の生活と魔女の予言(2)
夜になって、ほこりの匂いのする硬いベッドにもぐり込んだゲルタは、なかなか寝つけなかった。
鞭で打たれた手や背中がずきずき傷んだが、心はもっとざわめいていた。
(ヤン婆さんは、あたしを本当の王女だと言っていた)
(あたしは、ヤン婆さんの言葉を信じるわ)
(だってあたしは、ずっとお城のお姫さまみたいになりたいと思い続けてきたし、フィールやあたしを虐める人たちに対して、とても立派に堂々と振る舞えるんですもの)
(あたしは──王女なんだわ)
ゲルタはずっと、自分がこんなに惨めな暮らしをしているのは今だけで、大きくなったら誰よりも高貴な身分になって、みんなの羨望を一身に集めることになるだろうと考えていた。
ヤン婆さんの言葉を聞いて、やっぱりそうだったのだと思った。
ヤン婆さんに会って、もう一度、ゲルタこそ本当の王女だと言ってほしい。
けれど地主はゲルタの失敗にすっかり腹を立て、おまえは二度と外へ使いにはやらないと断言した。
それから少しして、ゲルタはヤン婆さんが息を引きとったと噂で聞いた。
屋敷にはヤン婆さんの遺体の他にはなにもなく、飼われていたヤギとニワトリも、どこにも見当たらなかったという。
餌を探して外へ出ていったのだろうと、出入りの油売りが話していた。
ヤン婆さんの死後、屋敷は取り壊された。
だいぶあとで、ゲルタが通りかかったときには、草むらが広がっているだけだった。
ヤン婆さんの死はショックだったが、ヤン婆さんが残した言葉を信じる気持ちは、ますます強くなっていった。
ゲルタは以前よりも、さらに夢見がちな娘になった。
さらに、成長するにしたがい、周りから傲慢だと悪口を言われるようになった。
「あの娘は、なにをあんなにすまし返っているんだか」
「自分を女王さまとでも思っているのかしら」
「女王さまには違いないさ。ガチョウのな」
「ガチョウ番の女王さまか、こりゃいい!」
十五歳になって一人前になったゲルタに与えられた仕事は、一番下っ端のするガチョウ番だった。
ガチョウはどれも問題児ばかりで、目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう。
言うことをきかないガチョウたちのお尻を、右に左に追いかけて、ゲルタの一日は終わるのだ。
ゲルタの髪はいつも風になぶられてぱさぱさで、スカートは泥だらけ。腕にも足にもガチョウにつつかれた傷が絶えない。
「よお、女王サマ、お供を大勢引き連れて、今夜はどちらの舞踏会へお出かけで?」
この日、仲間たちと通りかかったウィールが、ゲルタをからかった。
ウィールは今では背の高いハンサムな青年になっていたが、ゲルタに意地悪なのは変わらなかった。
ゲルタは無視してガチョウを集めた。
「なんだよ、地主のご長男とは口もきけないっていうのか? そんなんだから男の一人もできないんだぜ。おまえ、夏祭りのダンスの相手、まだ決まってないだろう。おれが誘ってやろうか?」
「そりゃケッサクだ。注目浴びること間違いなしだぜ、ウィール」
「ガチョウの羽で、おそろいの冠でも作ったらどうだ?」
友人たちがはやし立て、ウィールはハッハッと笑った。
「ガチョウ番の女王サマと王サマのおなりってわけだ。もっともおまえはへっぴり腰でガチョウを追いかけるばかりで、ダンスなんて踊ったことないか。ほら、右足を出して、ステップ、ステップ」
ウィールがふざけてゲルタの手をつかみ、踊り出す。
友人たちが手を叩いて大笑いする。
ゲルタはカッとなって、ウィールの手を振り払い、その頬をピシャリと叩いた。
「あんたにさわられるのは、吐き気がするわ! 誰が、あんたと夏祭りになんか行くもんか」
頬を赤くしたウィールの目が、怒りに燃える。
「ガチョウ番の召使いが、なにをお高くとまってるんだ。おまえなんか、いつでもやめさせられるんだぞ」
「今はガチョウ番でも、本当にあたしは違うわ。あんたなんかよりずっとえらくなって、あんたたちに侮辱されてたことなんて全部忘れてやる。あたしは、あんたたちとは血が違うんだから」
これを聞いて彼らは一斉に笑った。
「血が違うだとよ。そりゃそーだ。おれたちの親戚にガチョウ番はいないわな」
「おれよりえらくなるって? いったいなにになるつもりだ? 王子サマの花嫁にでもなるのか? ん?」
ゲルタはカァァァッと赤くなった。
それこそゲルタが、ずっと夢見てきたことだった。
いつかお城から王子さまが、金色の馬車に乗って迎えに来る。
輝くばかりに美しい彼は、ゲルタの前にうややしくひざまずき、こう言うのだ。
──ゲルタ、あなたは本当の王女だ。あなたの魂は誰よりも美しく気高い。どうか私の妻になって、この国の女王になってください。
そんな場面を何千回、何万回、想像しただろう?
地主夫婦もウィールも、侍女頭のネリーも、今までの無礼を、地面に頭をこすりつけて詫び、命だけは助けてくださいと懇願する。
もちろんゲルタは許してやる。
彼らの無知や愚かさを恨みはしない。
王子と金の馬車に乗り、悠々とこの村を去ってゆくのだ。
その夢を、ウィールが穢した。
ウィールはバカにしきった声で言った。
「へぇー、おまえが王子サマとねー、こりゃご立派、素晴らしいご計画でございますとも。まったく、笑っちまうぜ。おまえ、自分の格好を見てみろよ。髪はばさばさ、服は泥だらけ、手も足も痩せこけて、女としての魅力ゼロ。王子が惚れるわけないだろうが。王子はな、お姫さまと結婚するって決まってんだよ。ガチョウ番なんて問題外さ」
「あたしは王女よっ!」
怒りに任せてゲルタは叫んでいた。
「ヤン婆さんが言ってたわ。あたしは“本当の王女”だって! あたしには特別な力があるって!」
ゲルタの尋常ではない様子を見て、彼らは薄気味悪くなったらしい。
「こんなイカれた女、相手にしてもしょうがないぜ」
と言って離れていった。
ウィールたちが見えなくなるなり、ゲルタは草地にしゃがみ込み、むせび泣いた。
あたしは、イカれてなんかいない!
ヤン婆さんは確かに言ったんだから。
あたしは本当の王女なんだ。
だけど、たとえそうだとしても、それがなにになるのだろう。
ゲルタがどれだけ強く信じても、お城の王子さまがゲルタを迎えに来るなど決してありえない。
万が一王子と出会うことがあっても、彼はゲルタを愛さないだろう。
ゲルタは薄汚く、痩せこけている。
他の娘たちのように愛らしく笑う方法も、優しい声でささやくように語るすべも知らない。
(ウィールの言ったことは、正しいわ)
(あたしに、男を惹きつける魅力なんてない)
ヤン婆さんの言葉の呪いに縛られたまま、ガチョウ番として一生を終える運命なのだ。
このまま泣き続けて石になってしまいたかったが、ゲルタが絶望しているあいだもガチョウはじっとしていない。
ゲルタは立ち上がってガチョウを追わなければならなかった。
逃げるガチョウをかかえて、戻しながら、ゲルタはいっそう深い絶望と哀しみを噛みしめた。
◇◇◇
その日から、ゲルタは以前ほど夢を見なくなった。
いつものように甘美な空想にふけろうとすると、かわりに苦い悲しみが押し寄せてきて、やりきれなかったからだ。
不思議とウィールの態度が、急に親切になった。
彼なりにゲルタが落ち込んでいることに責任を感じて、反省しているらしかった。
ゲルタに花や首飾り、綺麗な布などを贈って慰めてくれた。
ゲルタに休みをとらせ、馬車で街まで遊びにも連れていってくれた。
ゲルタは、だんだんウィールと顔をあわせるのが嫌ではなくなっていた。
ウィールは金持ちの息子でハンサムだったので、憧れている娘も多い。
ゲルタの馬車で街へ行く途中、村の娘たちが悔しそうにチラチラ見てくるのが、ちょっと誇らしかった。
謙虚な気持ちでいれば、小さな幸せでも得られるのかもしれない。
ヤン婆さんの言葉など忘れてしまえば、ごく普通の十五歳の女の子として、それなりに幸福に生きてゆける。
ゲルタがそんなふうに思いはじめたころ、お城の王子の噂が聞こえてきた。
王子は二年間の海外留学を終えて、帰国したらしいということだった。
「女王さまも夫の国王さまが亡くなられたあと、女一人で頑張ってこられたが、王子さまも十八におなりだし、いよいよ位を譲るおつもりだろう」
「そうなると、王子さまに似合いの姫君を探さなきゃならんな。一国の王さまが独り身でいるのは具合が悪いからな」
「いや、ご遊学の目的が、そもそも花嫁探しだったらしい。ところが王子さまはよほど理想が高いのか、どんな姫もお気に召さず、一人で帰国されたらしい。女王さまや大臣たちも頭を抱えているそうだ」
都から来たばかりの商人は、村人たち相手にそう語った。
ゲルタはガチョウを小屋に追い立てながら、この話を聞いていた。
自分でも意外なほど平静だった。
王子さまが花嫁を探していて、じきに結婚される……。
理想が高くていらっしゃるって、じゃあやっぱり、あたしじゃダメだったんだわ。外国のお姫さまたちにも心を動かされなかった人が、ただの村娘を相手にするはずないもの。
本気で王子が迎えに来ると信じていたころのことを思い出すと、たまらなく滑稽で、笑いが込み上げてくる。
商人は、他にも王都で起こった奇怪な事件について話していた。
街の通りに、朝になると首や心臓を食いちぎられた死体が転がっている。
ちぎれた首が、ずっと離れた井戸から見つかった、などと言っていたようだが、ゲルタはガチョウを全部小屋に入れてしまうと、その場から離れた。
◇◇◇
王子の花嫁探しと、王都を震撼させている猟奇事件は、ゲルタの村でもたちまち話題になった。
みんな、なにかというとその話になり、誰かが仕事などで王都へ行って戻ってくると、少しでも新しい情報を得ようと引っ張りだこになるのだった。
「世界一の美女と評判の東の国の王女が、王子さまの花嫁として名乗りをあげたらしいぜ。王子さまは姫の肖像画を、丁重に送り返されたそうだ」
「きっともう心に決めたかたがいらっしゃるんだよ。そのうち派手に公表するつもりなのさ」
「ねぇ、王都でまた人が殺されたって。それも同じ日に、別の場所で三人も。なんとかって男爵が現場を目撃して、死体の上におおいかぶさって心臓を食べている真っ赤な獣を見たんですって」
「え、獣ってなに? 犬? 猫?」
「バカね、犬猫なんて、あたしだって棒切れ一本で追い払えるわ。なんかね、体は人間で、長い爪と、顎の下までありそうな牙をしていたんですって」
「歯がそんなに長かったら、ものがうまく噛めないんじゃない?」
「化け物だからなんとかするわよ」
ゲルタはどちらの話題にも加わらなかった。
王子の話題はやっぱり避けたかったし、避けつつも実は気になるから、もうひとつの猟奇事件にまで関心がいかなかった。
そうだ、いつまでも王子さまへの未練を引きずっているなんて、愚かしいことだ。
あの人は手の届かない人なんだから、忘れたほうがいいんだ。
(あたしには……ウィールがいるんだから……)
けれどウィールは、ゲルタをからかっていただけだった。