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一章 どん底の生活と魔女の予言(1)

 

 もともとゲルタは夢見がちな娘だった。

 生まれたとき、すでに両親はなく、村の地主の家に下働きの召使いとして雇われていた。


 仕事は、年端のゆかない女の子には、どれもつらいものだった。

 毎朝台所と外の井戸を往復して、大きなカメをいっぱいにするまで食事をもらえなかったのは、たった五つのときだ。

 ゲルタが仕事を終えるころには食事はあらかた食いつくされており、小さいゲルタはいつも残り物をほんのちょっぴり口にするだけだった。


 地主の奥方や娘たちが湯浴みをするときは、もっとたくさんの水を運ばなければならなかった。

 残り湯を洗濯用の桶に移すのもゲルタの仕事である。

 ある日、あんまりお湯が温かくて気持ちがよさそうで、ゲルタはそっと服を脱いで、湯に体をひたした。

 お湯の風呂に入るのはとても贅沢なことで、ゲルタはいつも川で体を洗っていた。

 冬になると川に氷が張って入れなくなる。もうずっと体を洗っていなかったので、手でこすると、ほろほろと垢がこぼれた。

 体がどんどん綺麗になってゆくのは、気持ちがよかった。

 まるでお金持ちのお嬢さんになったような気分で、ゲルタは風呂桶のふちに寄りかかって空想の世界に心を飛ばした。


 あたしはこれからお祭りに行くところで、部屋の外ではお母さまが素敵なドレスを用意して待っているのよ。

 赤い天鵞絨(ビロード)に金の刺繍がしてあるドレスで、下には真っ白の絹のペチコートをはくの。

 お父さまが栗毛の馬に乗せてくれて、みんながあたしに注目して……。

 ゲルタの夢想は突然破られた。


「あー! なにしてんだよ、おまえ」


 地主の一人息子で、ゲルタより三つ年上のウィールが、大声で叫んだ。

「使用人のくせにお湯を使ったりして、いけないんだぞー。母さんに言ってやろーっと」


 ウィールはゲルタの服を持って、

「ここまで来てみろよ」

 と囃し立てた。


 女の子が三人続いたあとに生まれた、待望の男の子だったので、ウィールは甘やかされていた。

 当然のごとくわがままで、いたずら好きで、年の近いゲルタは特に虐められた。

 ゲルタは、なにをされてもウィールを無視すると決めていた。


 あたしは、あんたなんて相手にしないのよ、と沈黙によって示すことが、ゲルタにとって自尊心を守る唯一の方法だった。

 けど、さすがに服をとられては平静でいられない。


「返して、返してよ!」


 お湯に身を沈めて、ガリガリに痩せた体を隠しながらゲルタは訴えた。

 いつも生意気にすましたゲルタがうろたえているので、ウィールは大喜びした。

 もっと意地悪なことを言う。

「じゃあ、そこから出て、犬の真似をしてみろよ。床に膝をついて、三度まわって、ワンワン、ご主人さまって言うんだ。そしたら返してやるよ」


 ゲルタは両手で水をすくって、ウィールに引っかけた。


「わっ、なにするんだ」

「あんたは、この世で一番卑怯で恥知らずだわ!」


 ゲルタは何度も何度も水をかけた。ウィールは悲鳴を上げた。

 騒ぎを聞きつけて、大人たちがやってきた。

 侍女頭のネリーは風呂桶に裸で突っ立っているゲルタと、濡れねずみのウィールを見て、表情を険しくした。

 

 ゲルタはその場で頬をぶたれた。


 みんなの前で裸で折檻(せっかん)されて、ゲルタは頬の痛みよりも、恥ずかしさで息が止まりそうだった。

 その夜は、ガチョウ小屋で寝かされた。

 濡れた冷たい服を着て、ガチョウたちにつつかれながら、怖くてつらい夜を過ごした。


 もし、あたしがお金持ちの家に生まれていたら、こんな恥ずかしめを受けることはなかったのに。

 お父さんやお母さんがいたら、きっと守ってくれたのに。


 そう考えると、悲しくてたまらない。

 大人になってからもずっと、ウィールや他の人たちから(さげす)まれて生きていかなければならないなら、今ここで死んでしまいたい!


「どうか、あたしをお金持ちにしてください。ウィールなんか、あたしの足もとにはいつくばって犬のまねをするくらい、エラい人にしてください。大人になってお城のお姫さまみたいに暮らせるなら、今はつらくてもがまんします。水くみも洗たくもガチョウの世話も、いっしょうけんめいやります。だから神さま、お願いします」


 目に涙を浮かべて一心に祈るゲルタの横で、ガチョウたちが不気味な声で唱和していた。


  ◇◇◇


 ゲルタがヤン婆さんに会ったのは、それから少しあとのことだった。

 ヤン婆さんは、村のはずれの古いお屋敷に住んでいる。

 ずっと昔は名門でお金持ちだったらしいが、今は没落していた。

 広い屋敷は手入れをする使用人もなく、荒れ放題に荒れており、幽霊屋敷のようだ。


 ヤン婆さんは、村人たちの前にめったに現れなかった。


 屋敷の庭に畑を作り、ニワトリを一羽、ヤギを一匹飼って、細々と暮らしている。

 人の話では薄暗い部屋の中に怪しげな道具を並べ、魔法を行なっているらしいということだった。

 ヤン婆さんは悪魔と契約して本物の魔女になったとか、いや、ヤン婆さんはとっくに死んでいて、屋敷に住んでいるのは幽霊だとか、あまりよくない噂がささやかれていて。

 要するに村のほとんどの者が、関わり合いになりたくないと思っている存在だった。


 ゲルタも事情がなければ、ヤン婆さんの住むお化け屋敷を訪ねたいとは思わなかっただろう。

 正直、事情があっても行きたくない。

 その日、隣の村まで使いに行って帰る途中、ゲルタの足もとをなにかが駆け抜けていった。

 ひっくり返りそうになりながら下を見ると、ヤン婆さんのニワトリが、ゲルタの周りを羽をばたばたさせて走っていた。

 ヤン婆さんのニワトリとわかったのは、首に木の実のペンダントをぶらさげていたからだ。

 飼っているニワトリやヤギに、まじないのような首飾りをぶらさげていると、誰かが話していた。

 噂のお化け屋敷も、すぐそこだ。


「どうしよう……」


 逃げようとするニワトリをつかまえ、胸にかかえたまま、ゲルタは途方にくれた。

 ヤン婆さんにニワトリを届けるべきだろうか。

 もちろん、届けたほうがいいに決まっている。

 ニワトリがいなくなったら、ヤン婆さんは卵が食べられなくなってしまう。


 だけどヤン婆さんは子供をつかまえて、シチューにするという噂だし……。


 迷った末に、ゲルタは門のところまで行って、ニワトリを中へ追い立てて返してしまうことに決めた。

 そぉーっと、そぉーっと、近づいていって、扉が片側しかない門からニワトリのお尻を手で押し込んだとき、中から声がした。


「そこにいるのは誰です」


 ゲルタは飛び上がった。

 黙っていると、また声がした。

「ミーメを届けてくれたのね。お入りなさい」

 怖くてたまらなかったけれど、好奇心もあり、ゲルタは庭に入っていった。


 突然白いものが顔の前に、ぬっと現れ、ゲルタは「きゃーっ」と叫んだ。


「メェ……」

 白いものが鳴いた。


 ヤギはジロジロと意地の悪い視線をゲルタに向けた。

(おまえさんは、なんだってノコノコやってきたんだい?)


 ヤギの赤い目がそう語っているようで、ゲルタはまた急に怖くなった。

「ケイ、おまえは下がっておいで」

 ヤン婆さんと思われる老婦人が、ヤギの首を叩いた。

 ヤギは「メェ──!」と、つまらなそうに鳴いて、荒れはてた庭を優雅お尻を振って歩いていった。


「あの、あたしはお使いの途中で、すぐに帰らなきゃ……」


 ゲルタはヤン婆さんから目が離せない。

 ヤン婆さん、上から下まで黒づくめだった。

 年寄りなのに背中は少しも曲がっておらず、背も村の若い衆たちよりも高かった。しわだらけの顔の中で緑の目だけが異様な深みをもって、宝石のように光っている。

 驚くほどに長い骨張った指が、ゲルタの(あご)にふれ、ぐっと持ち上げた。


「!」


 悲鳴を飲み込むゲルタを、ヤン婆さんは珍しい猫でも眺めるように、無遠慮に、執拗に、見つめた。

「お使いの途中と言ったね。おまえは、どこかで働いているの? 両親は?」

 ゲルタは震えそうなのをこらえながら、主人の名を口にした。


「りょ、両親は……あたしが生まれたときにはもう、いなかったの。父さんは、あたしが母さんのおなかにいるとき、雷が落ちて死んで、母さんはあたしを産むときに亡くなったって聞いたわ……」


 ヤン婆さんは、ふぅーんとつぶやきながら、まだじろじろとゲルタを眺めている。

 しわだらけの顔がだんだん近づいてきて、額がくっつきそうになったとき、やっと口を開いた。


「おまえは、“本当の王女”だよ。今じゃちゃんとした血筋の王さまとお妃さまのあいだにだって、本当の王子や王女が生まれることは(まれ)なのに。どういう神さまの気まぐれだろうね」


「本当の……王女?」


 甘美な呪文のように、ゲルタはその言葉を繰り返した。

 あたしが、王女?


 ヤン婆さんの口もとに、笑みが刻まれる。

 人の心を惑わす魔女の笑みだった。

「そうとも、おまえは天が人間を守るために選び、支配者としたものたちの、正しい血を引いているんだよ。あたしの目に狂いはない。おまえの体から白い光がきらめき立っているのが見える」

 それからヤン婆さんは、歌うように続けた。


「王は威厳を、女王は慈悲を、王子は勇気を、王女は純潔を表すもの……。おまえは王女。じきにおまえの力がどんな意味を持つのか、わかるときが来るだろう」


 ゲルタはすっかり夢中になって、ヤン婆さんの言葉を聞いていた。

 あたしが王女?

 正しい血を継ぐ“本当の王女”?

 それが真実なら、なんと素晴らしいことだろう!


 ヤン婆さんはゲルタに、未来の栄光を約束してくれたのだ。


 ◇◇◇


 そのあと、ゲルタはどうやって地主の屋敷に戻ったか、覚えていない。

 ぼーっとして、なにを聞かれてもまともな返事ができず、地主にさんざん怒られて、鞭で手を打たれた。


「やっと帰ってきたと思ったら、あずかった手紙をなくした上に、肝心なことは、なにひとつ覚えとらんときてる。まったく役に立たない娘だ。これでは将来、ろくな使用人にならん」


 地主の言葉を聞いて、ゲルタの胸にむらむらと反抗心が沸き上がった。

 使用人ですって?

 あたしは王女なのよ。

 大きくなったらお城へ行くのよ!

 ゲルタが反抗的な目で睨み返したので、地主はちょっと臆したようだった。

 しかしすぐに、

「なんだ、その目は!」

 と鞭が飛んだ。


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