第2話:狐の女中と朝の支度、そして幼馴染との再会
硫黄の混じった温泉の香りが、ほんのりと鼻をかすめた。
この匂いも、もうすっかり日常の一部になっている。
昨日は、久しぶりにエララと温泉宿で食事をとった。気の置けない時間に少しだけ心がほどけて、良い気分転換になった気がする。
「……さて。今日からまた頑張らないとね」
自分にそう言い聞かせながら、布団の上で伸びをひとつ。
体を後ろにぐっと反らせると、布の擦れる音がかすかに聞こえた。
視線を下ろせば、ぴょこぴょこと小さな黄色い尻尾が見えている。
(……頭隠して、尻隠さず、ってやつね)
布団の端にもぐり込んでいたのは、女中見習いのエリーナ。狐族の獣人の少女だ。
紛争を逃れてこの地に来たばかりの頃は、いつも耳を垂らして不安そうにしていたのに、なぜか私にはすぐ懐いて、離れようとしなかった。
だから、そのまま屋敷に置くことにした。
学校よりも、ここで私の傍にいながら学ばせるほうが、この子には合っていると感じたのだ。
「……エリーナがいる気がするなぁ」
からかうように言ってみると、布団の中から勢いよく飛び出してきた。
「アグニス様っ!」
元気いっぱいに抱きついてくるエリーナの頭を、私は軽く撫でてやった。
「おはよう。……これから着替えるからね」
にこにこしながら尻尾をぶんぶん振るエリーナと一緒に、朝の支度を済ませる。
ふと横を見れば、今日の仕立て服が丁寧に整えられていた。きっと誰よりも早く起きて準備してくれたのだろう。
「ありがとう。助かったわ」
そう声をかけると、エリーナは嬉しそうに尻尾をさらに振った。
支度を終えて廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
窓から差し込む朝の光が床を照らし、静けさが屋敷を包んでいる。
執務室に向かうと、エリーナがそっと茶器を運んできた。
大きな盆を抱えて、慎重に歩いてくるその姿は、けなげで愛らしい。
温かな茶の香りが、張り詰めていた思考をゆるやかにほぐしていく。
添えられた焼き菓子は少し甘すぎたので、彼女に手渡すと、うれしそうに受け取ってぺこりとお辞儀した。
一口、茶を含む。
そして──時計を見る。
「……そろそろ、会談の時間ね」
静かに書類をまとめ、立ち上がる。
背筋を伸ばし、深くひとつ息を吸ってから、私は応接室へと向かった。
コツ、コツと石造りの廊下に響く自分の足音。
何年も聞き慣れた、私の“日常の音”だ。
(ヴィクトリア……ね)
今日の相手は、幼馴染であり、戦場でも幾度となく背中を預けた信頼の戦友──その彼女が、わざわざ記録の残る形式での会談を望んだ。
雑談では済まされない話がある。
そう、直感が告げていた。
「おはようございます、ご当主様」
声をかけてきたのは、レオンだった。
だが、次の瞬間、彼は顔をあげて変顔をしてきた。
目玉を寄せ、鼻をひくひく──
「ぷっ……!」
思わず吹き出しそうになったが、直後、鋭い咳払いが廊下の奥から聞こえた。
「……あ」
柱の陰には、ロルフが静かに立っていた。
まるで「私はここにいません」と言いたげな姿勢ながら、目だけがはっきりと語っている。
(レオンには「当主の前でその態度は?」
わたしには「そろそろ真面目にしなさい」──ってね)
レオンは肩をすくめて立ち去り、私はなにごともなかったように歩き出す。
中庭では、エリーナが小さな翼竜の首元を撫でていた。
翼竜は気持ちよさそうに目を細め、のどを鳴らしている。
(あの子は……ヴィクトリアの)
顔を上げると、渡り廊下の先で彼女と目が合った。
ヴィクトリアは微笑んだ。
けれど、それはいつもの笑顔とは少し違って見えた。
何かを決意したような、張り詰めた空気が、その瞳の奥に宿っていた。
私はその意味を深く詮索することなく、小さく笑みを返して歩を進める。
会談の場へ──心を整えながら。