其の九十二:鶴松、大火の恨みを知る
「火事だ火事だ!火が上がったぞぉ!」「あの野郎が火を付けたんだ!」「何だって!?」
オレ達の周囲がワッと騒めく。火元の近くにいたオレ達に近づいてきた人影は、次々に火事とその火元について喚きながら、オレ達の下へと駆けてきた。
「おい!テメェ!弥七だよなぁ?オレ達に付けよ!生きたいならなぁ!」
即座に感じる違反者が出た時特有の寒気。オレは腕を掴んだ同心にそう叫ぶと、パッと手を離して臨戦態勢に移る。
「何故俺の名前を?」
「んなことたぁ後だ!得物はねぇのか?腰の大小はどうした!?」
「こんなことするために来て、あるわけないだろ!持っておらぬ!」
「なーにが、ある訳ねぇだアホ!これ貸してやっから加勢しやがれ!」
あっという間にオレ達を取り囲まんとする群勢。八丁堀が火種同心に脇差を渡すと、弥七は戸惑いながらも刀を構える。その姿は中々の剣客に見えるが、この中を生き延びれるかは話が別だ。
弥七が比良に行けずここで死ねば、違反者として死んだものとされるだろう。本人がそれを知る由も無いし、オレ達も説明している暇は無いのだが。兎に角、今は生き延びる事だけが優先だ。火事からも、そして虚空人達の恨みからも…
「アイツが火を付けた!見ろ!同心だ!」
「嘘だろ!?役人が火を放ったぞぉ!!」
そう叫びながら襲い掛かってくる虚空人。オレ達は驚いた顔を貼り付けつつも、攻撃を躱し反撃に転ずる。
「うるせぇ!オレ達じゃねぇ!テメェ等見てねぇだろうが!!」
周囲を焚きつける言葉に、ほんのわずかな反撃を。こういう時は耳通りの良い方が採用されるから、オレ達の主張は通らないだろうが、言わないよりかはマシだろう。オレはオレに襲い掛かって来た男の攻撃を難なく躱すと、ソイツの首を真後ろに回して火元に放り投げる。
「オレ達は自然に燃えた火に驚いてたんだ!火を消そうとしてた!水も持ってたんだぜ!」
「うるせぇ!なら何故消さなかった!燃え広がってんだろうが!嘘吐き野郎!」
「黙れ!もう手遅れだった!大小も持たねぇ同心がどうこうできるわきゃねぇだろうが!」
「嘘吐き!ネタが上がってんだ!老中の手先なんだぜ!こいつ等はぁ!」
火事の横で乱闘が始まる。辺りには火を消しにやって来た火消しの存在もあったが、オレ達の騒ぎを見てオドオドとするだけで使い物になっていない。騒ぎを見に来た野次馬は、オレ達の殺し合いに巻き込まれていた。
「娘を搾り取るだけ搾って棄てやがったんだ!あの野郎ならそれ位やる!」
「そうだそうだ!娘を買い漁って金も出さねぇで、オマケに融通も効かせねぇ!」
「挙句の果てにゃ証拠隠滅で放火だぜ!溜まったもんじゃねぇだろ!恨みを晴らせ!」
「死ね!死ね!死ね!役人はワシ達から何もかもを奪う気なんだ!ここで殺す気だ!」
骨を砕いて殺しても、元同心達に斬り捨てられても、次から次に湧いて出て来る虚空人。お千代さんの所にも出ているはずだが、一体どれ程居るのだろうか。元の情報じゃ三十ちょっとのはずだったのだが…これは一体どういうことか。
「畜生!奴等増えてやがる。道中で散々っぱらに言い触らしやがったんだ!」
その答えを見つけたのは八丁堀だった。そう叫んで一人の男を斬り裂いた後、余りの強さにビビって動けぬ連中を血濡れの刀で牽制した後、オレの背後までやって来て、短く一言。
「昨日見た面が混じってる」
そう言うと、再び刀を振るいに踏み出した。直後、八丁堀に見定められた違反者が叩き斬られ血飛沫を舞い上げながら倒れていく。
「そういうことかよ」
昨日見た…つまり、昨日の段階では只の一般人だった人間だ。虚空人は、自ら知り得た事実を言い触らし、道中で違反者を増やしながらこちらへやって来たという訳か。急に現れたのならば、火付けには一歩及ばなかったが…周囲の住民は目を覚ませたわけだ。なんてことをしてくれる。
「何もかもワシ達が邪魔になった老中戸田は、同心を買って火を付けた!」
「娘も商いの利権も、金も全部奪われた!戸田はこの町が欲しいんだ!違いねぇ!」
「今頃戸田は火を見て笑ってるだろうぜ!こいつ達を殺したら次は城へ攻め入るぞ!」
「おう!やっちまえ!」「戸田の首を取るんだ!」
分かり易い恨み声。虚空記録帖で事実を知ってしまえば、人の駆け引きなんざその程度の言葉で収まってしまう。その恨みが簡単な言葉では収まり切らないというのは、話を全て読み切ったオレでも分かってないだろう。それだけで分かった等というのは、当事者達への侮辱になってしまう。
オレは心を無にして、一人、また一人と殺して炎の燃料にしていったが、このままではキリが無さそうだ。
願わくば、サッサと延焼して辺り一面が炎に包まれないだろうか。こいつ等の喚きは次々に違反者を生み出し、気付くはずも無い者がオレ達に気付いて刃を向けてくる。
「クソ!キリがネェ!弥七!生きてっか?」
「あぁ!何とかなぁ!」
「八丁堀ィ!ソッチはどうだ?」
「八丁堀?」「死にてぇ奴が多すぎる!」
「よーし、八丁堀ィ!八丁堀まで引くぞ!」
「ヨシきたぁ!」
ある程度始末したところで出来た隙。オレ達は言葉を多く交わさず八丁堀の方へと足を向けた。炎は既に空き地裏の武家屋敷まで燃え広がっていて、勢いはさらに増している。ここまで炎が燃え広がれば、あとは強風が何とかしてくれるだろう。
「これは何時終わるんだ?」
「知るかぁ!暫く目に付いた連中を斬り捨てて回れや!」
「間違いが怖いぜ!」
「んなもん最初から織り込み済みよ!握ってるって言ったろ!?」
騒ぎつつ、八丁堀の方まで退却していくオレ達。途中、お千代さんや螢、栄やその親衛隊がオレ達に合流し、一大勢力となって江戸の道を駆け抜けた。
「どけどけぃ!火事だ!火事だ!火が来るぞぉ!」
「ごめんね~通らせて!火事が来るからね!」
多少の干渉は意に介さない。車町を出て暫くすれば、虚空人の気配も違反者が生まれた寒気も徐々に収まって来た。炎に巻かれたのだろうか。結果は後から知るっきゃない。
「この辺りまで来れば良いか?」
先陣を切っていたオレと八丁堀が足を止める。弥七にお千代さん、螢、栄にその親衛隊達もオレが駆け足を止めると次々に周囲に溜まり出した。ここは八丁堀近くの大通り。既に火災の一報が知らされ、周囲の人間が慌ただしくなっていた。
「とりあえず、一息ついて良さそうじゃの」
当たりの様子を見て栄が呟く。周囲に違反者は見当たらない。オレ達を怪訝な顔で見る奴はいれど、違反者が出た時の寒気は一切感じなかった。
「あぁ、そうらしい。後は暫く見物してりゃ、終わりじゃねぇかな」
辺りを見回していたお千代さんがそう呟くが、その瞬間。オレ達の周囲にある屋敷の上に人影が出来た。驚くオレ達…見やれば、その影は只の人間では無い。そいつらは、オレ達と同じ匂いをさせている、管理人だった。
「今この瞬間を待っていた!今から、我ら管理人が江戸を正しい道に乗せてやるのだ!」




