其の八十九:鶴松、揺らぎを振り払う
「なんか、騒がしいな」
近所の食堂で昼飯を食っていると、八丁堀が隣の席にやって来た。やって来るなりの一言。オレは握り飯を頬張りながら周囲を見回す。
「んっ…まぁ、この間のアレのせいだろ」
八丁堀のいう通り、周囲は確かに騒がしい。いや、騒がしいのはいつも通りだからいつもと違う騒めきがあると言うべきか。その理由は、オレ達の間で確認するまでも無かった。
「初瀬さんの様子は?」
「家に籠って調べ事。まぁ、暫く放っていけばいい」
「そうか」
そんな喧騒を他所に、オレ達はいつも通りの午後を迎える。江戸中を回った気がする違反者大量発生はとうに峠を越えて、ある程度落ち着いた日常を送れるようになってきた。
そんな今は二月の終わり。そろそろ暖かさを感じられるようになってきた頃。オレは握り飯を食べきると、熱い茶を飲んで喉を潤す。そんな横で、八丁堀はいつも通り鰻の蒲焼きを注文すると、辺りを見回して舌打ちした。
「なんだ、気になるのか?」
「あぁ…この間といい、惑わされやすい連中だ」
「そんなんだから入れ替わりがあるってもんよ」
「だろうな」
飯屋の隅で、落ち着いているのはオレ達二人だけ。残りの管理人は…見覚えの無い面ばかりだから、まだまだ新顔だろうか。そんな連中が話題に挙げているのは、この先…月が変わってすぐに来る、江戸の大火の話題だった。
この間、ここへ連れてきて、最後には抜け殻として放流した男の喚き。それがここの住民たちに漏れ聞こえ、そこからワッと噂が広まっていったらしい。次の大火は幕府の差し金で起される人災だと。こういった裏話を好まない人間は少ないだろう…それも、犯人が幕府の老中の様な大物ならば尚更だ。
「当日、江戸に行かないか?」
「お前に言われなくても出るさぁ。全員、駆り出されるぜ」
「やっぱりそうか」
さて、この話の問題は、只の雑談で済まない所にある。オレ達は、周囲の管理人の喧騒を聞きながら、嫌な話に耳を澄ませていた。
(敵が虚空人だけなら、どれだけ良いか)
茶を飲みながら、周囲の噂を聞いて目を細める。変な正義感に憑りつかれた若い管理人が、しきりに奴の正義を説いているのだ。それも、一人だけではなく、何人も…オレはそいつ等を再教育する気はなく、ただ黙って聞き流していたが、正義に溺れた奴の多さに頭が痛くなってきた。
「学ばねぇよな」
オレの気持ちを見透かしたかの様に八丁堀が呟く。奴の前には、出来立ての蒲焼き。奴はそれを見て僅かに口元をニヤつかせると、箸を手にしてガッつき出した。
「何時の話だ。大昔だぜ」
八丁堀の言葉に返すオレ。奴が言うのは、何時ぞやの仮面の男の一件だろう。そん時抜け殻になった連中すら消えている時代なのだ。その時を生き抜き今でも残ってる連中など、オレ達を除けば栄の親衛隊周辺位なモノじゃないか?…流石に他にも大勢いるだろうが。兎に角、今は以前の過ちを知らぬ世代が喚きたっているだけ。それが管理人の、虚空記録帖の脅威になるって言うなら、オレ達はそれを阻止するだけだ。
「に、しても…」
蒲焼きを頬張る八丁堀が、不意に手を止めた。
「威勢が足りねぇな。毒されたか」
こちらを見て一言。オレは八丁堀の方に目を向ける。
「まさかぁ。思うところがネェとは言わねぇけどな」
「やっぱ毒されてんじゃねぇか」
「それとこれとは別よ」
「そうか?いざ江戸に出向いて動きが鈍っただなんて真似は御免だ。頼りにはしてんだぜ」
八丁堀はそう言うと、再び蒲焼きに手を付ける。オレはその様子を見て、背中を一発叩いてやろうかと思ったが、一口食べ終えると再びこちらを見たものだから、思わず踏みとどまった。
「ま、いつでも泣きを見るのは下の連中だって思ってよ」
「素直になったな。そんなことだろうと思ってた」
「お前もじゃねぇか」
「俺もだよ。んなの、奉行所にいりゃ一日に数百回は見れるぜ」
「そうだったな」
「んなもの、一つ一つ気にしてられっか。嫌なら見なけりゃ良いだけなんだ」
「簡単に言いやがる」
「実際そうだろ?あっち側は記録帖に縛られてるが、俺達はそうじゃない。初瀬さんみたいに、あっち側を何かのカラクリで動いてるモンだとでも思えばいい」
オレは八丁堀をジッと見据えて押し黙る。八丁堀はそんなオレを見てニヤリと口元を歪めると、茶を飲んで一息、溜息をついた。
「ま、お前は惑わされるタマじゃねぇよ」
「何を根拠に」
「惑わされてんなら当に抜け殻になってるさ。それが無駄に長生きしやがって…今更人間ぶって何になる」
八丁堀はそう言って、再び箸を手に蒲焼きを食べ始める。オレはその様子を呆然とした目で眺めると、そのうち肩を震わせだした。
「ふっ…ふっははは…言いやがんなぁ好き勝手によぉ…」
なんか大層な事を言われた気がする。オレは徐々に顔を歪め、そしておかしな笑い方をして見せた。気恥ずかしいやら、おかしいやら。何もかもが八丁堀のいう通り…どれだけあっち側の連中に同情しようとも、今更オレにどうこう出来る話では無いのだ。
「あと数日。敵がどんだけ増えるか見物だぜ」
肩を震わせて笑うオレに、蒲焼きを食べ終えた八丁堀がポンと肩を叩いて囁いた。そして、そのまま席を立ち、笑って見送るオレに一言、こう告げる。
「支払いは任せた。洗脳を解いてやった分だと思いな」




