其の七十八:鶴松、失敗し取り逃がす
今日も今日とて赤字続き…虚空記録帖にどやされて、出てきたのは江戸の日本橋。江戸の中心地に出向いたオレは、適当な道端にしゃがみ込み、日が暮れても衰えを見せぬ人通りを眺めながら、一時休憩の水を飲んでいた。
(まだ寒いってのに収まらねぇか。これで何人目だ?…覚えちゃいねぇぜったくよぉ…)
暗くなっていく空を眺めてから、ポツポツと行燈に火が灯されていく様に目を向ける。ボワっとした、暖かい火が道を彩り…その周囲を人々が行き交う。毎日繰り返されているであろう光景。オレは柄にもなく郷愁にも似た感傷を覚えると、溜息を一つついて立ち上がった。
今回の相手は、この通りに面した所に店を出している男だ。それなりに大きな商家。オレは道行く人々の歩みを邪魔せぬように気を付けながら、家までの残りわずかな道のりを歩いていく。
こんな場所で仕事はしたくないが、記録帖をどれだけ漁っても、野郎は家から出てこない。ならば出向くしかないというわけだ。
(手間かけさせやがって…)
内心で毒づいていると、目の前に件の商家が見えてくる。金物を扱っている大きな店だ。こんな時間でも、まだ客が出入りしている辺り、繁盛しているのだろう。オレは現役時代の悪い虫が疼くのを感じながらその家に近づいていく。
吐く息が白くなることは無くなって久しいが、未だに肌寒さを感じる今日この頃。オレは羽織り物を脱ぐと、手に抱えて店の中へ入っていく。中から感じる熱い空気は、幾ら肌寒さが残っているとはいえ暑くてしょうがない。
(いい出来だ。こう言うのが表に出回る様になったのか…時代ってもんかね)
店に入り、金物を眺めて出来に感動を覚える。こういうモノは比良の国でよく目にするが…江戸でも見られるようになるとは。そのうち、比良の様な夜の明るさもこちらにやって来るのだろうか。
オレは江戸の進歩を感じながら金物屋の奥へ消えていく。中に居る人間は誰も不審に思わない。そのままスーッと奥へ消え、喧騒を背後に聞きながら、オレは家の廊下を歩きはじめた。
暖かい店内から比べれば、流石に冷え込む廊下。再び羽織を羽織って奥へ進む。中庭を横目に見ながら、オレは標的が仕事している奥の部屋まで迷うことなく歩いて行った。
(ここか)
明かりが障子を照らす部屋。その前でオレは足を止める。そして、そっと影を作らぬ位置を意識しながら障子の先を覗き込めば、机に向かう男の影が見えた。
「……」
ここまで来てしまえば、後は簡単。オレは手を合わせて軽く骨を鳴らす。静寂に包まれた廊下だが、この程度の音じゃ気付かれまい。骨を鳴らして手を暖めると、オレはそっと障子の隅に穴をあけた。
「……」
中を覗き込むと、何かをしたためている男が見える。こちらに気付く様子はない。オレはその野郎の顔を目に焼き付けると、そっと足を進めていく。そっと障子の前に移動して、立ち止まる。
「ん?茶でも持って来たのか?」
障子にオレの影が映り込むと、男はオレの存在を気取った。男の言葉には、何も反応しない。何も答えず、そっと障子を開けると、男はオレの姿を見てギョッとした顔を向ける。
「お前は…」
その反応は、どこか変だった。オレを見てお前かとでも言いたげな反応。オレは最近の違和感もあって、仕事をするのを躊躇してしまう。
「お前が、管理人とかいう奴だな?」
オレの存在を見止めた男がオレに問う。管理人…虚空記録帖を手にした者しか分からぬ言葉。オレはその言葉に目を見開いた。
「なっ!」
そして、その隙が仇となる。
突如背後から羽交い締めにされたオレ。
商家の男は、呆気に取られた顔を浮かべたオレを見て、下衆い笑みを浮かべた。
「案外、来るのが遅いのだな。これは僥倖だ。いい報せが出来るぜ」
いつの間にか背後に現れた男が、俺の耳元でそう囁く。そしてその直後、オレの首は小さな刃物で斬り裂かれた。
「!!」
畜生!やられた!と思う間もなく、オレは力が抜けて畳の上に血をまき散らす。商家の男と、背後にいた男は倒れたオレの行く末を見る間もなく、目を合わせると立ち上がり、何処かへ消えていった。
「すぐ起きるぞ。急げ!」
「はいはい…とんだ囮にされたものだな」
「黙れ!急がねば死ぬぞ!急ぐんだ!」
消えゆく意識。血が吹き出る中、オレは何も出来ないでいた。すぐに死なない様に斬られたんだ。オレは辛うじて動く体で、男達の消えた先を眺める。向かった先は家の裏手側…オレは用意周到さを呪いつつ、久しぶりの死の感触に溺れていった。
・
・
「クソッ!」
意識を取り戻したオレは、バッと起き上がると、即座に男二人が消えた方へと足を出す。まさかこんな所でやられるとは思ってもみなかった。
「畜生…畜生!」
焦る気持ちを押さえて家の奥へ。扉は気にせず蹴破って開けると裏庭に繋がっており、そこから先に見えた裏口が、僅かに開いていた。
(まだ運は残ってるか!僥倖だぜクソッタレ!)
内心で毒づくと、裏口を開けて外に出る。そこは、日本橋の通りとは打って変わって寂しく狭い小路だった。小路に出たオレは、右か左か…どちらに逃げたかを思案した挙句、郊外に近いであろう右を選んで駆け出していく。
相手は虚空人。管理人をおびき寄せる程に頭が回るなら、人が多い場所は選ばないだろう。小路を駆け抜け、少し大きな通りに出たオレは、再び岐路に立たされる。
「ん?」
だが今度は、オレの足に助けられた。左の方をチラリと見やった時。影に消えた着物に見覚えがあったのだ。
(まだ離れちゃいねぇか…)
すぐさま左の方へ駆け出し、着物が消えた角を曲がって更に先へ進んでいく。人通りも少しある道だったが、ここで騒ぎを起さない限り、一般人には注目されないだろう。オレは気にせず全速力で駆け抜けた。
「逃がさねぇぞ…」




