其の七十六:鶴松、違和感を感じ取る
「なぁ、螢よぉ」
「どうしたのさ、急に」
「な〜んか最近よ、ずっと江戸に居ねぇか?オレ達よぉ」
「そうだねぇ。出ずっぱりだ。これで何連泊してるっけ」
「五から先は数えてねぇや」
「そうなるか。ボクは端っから数えてないからね。ま、いいじゃない。次で最後なんだ」
冬もそろそろ終わりを見せ始めた頃…年明けから暫く経った頃の江戸の夜。オレは螢と下らない雑談を交わしながら、橋の真ん中でボーっと川の流れを眺めていた。
「最後ねぇ…さっきの野郎を消した時もそう言ってたぜ」
「…そう言っても、今度こそ次で最後は最後!もうさ、誰かに押し付けない?」
「案には乗ってやるが、押し付ける奴がいねぇんだろうさ」
「何があっても!とりあえず次で最後!…お千代さんじゃないけど、さっさと帰って風呂に入りたいもんだね」
「全くだ。その後は酒盛りだなぁ…」
近頃、虚空記録帖の記録を破る輩が多いのだ。今も、違反した女が通りかかるのを待ち構えている真っただ中。螢が持って来た記録帖を見る限り、先程記録を破った女は、この橋を通って家に帰るだろう。それを待つ間、オレ達はグダグダと愚痴を言い合っていた。
兎に角、虚空記録帖から呼び出しが掛かることが多すぎる。もうどれだけ休んでいないか、覚えちゃいない。比良の国で酒を浴びながら、暇だと管を撒いていたのは何時だっけ。そんな記憶が薄れる程働きづめになることなんて、頭の中をずーっと溯っても記憶に無い位、久しぶりの事だった。
「何かが起きる前触れだねぇ…お千代さん、今頃ピリピリしてそうだ」
「帰っても気が休まらねぇかもしれねぇな。コイツァよ」
螢とこれだけ長く行動するのも何時以来だ。それ位、記憶に無い忙しさ。オレは気の置けない奴と居る事にどこか心地よさを感じてはいたが、それでもここまで長く一緒に居れば飽きもする。
「おっと、足音だ」
「よぅし、オレに任せな」
「はいよ」
橋の上に立ってどれだけ経っただろうか。螢がピクっと足音に気付き、俺は手を合わせて骨を鳴らす。さぁ、とりあえず…最後の仕事だ。標的はか弱い女、悪いが、手間を掛けずに入水自殺してもらわねばならない。
「……」「……」
橋の真ん中で柵に手を掛けて並んでいる俺達の後ろに、女がやって来た。周囲には誰もいない。まして夜…新月で、光源一つ無い中で、誰かに気付かれる要素は皆無だ。
「女の一人歩きは、危ないぜ」
ポツリとした呟きに、背後まで来ていた足音がピタリと鳴りやんだ。その瞬間、オレはパッと振り返って女に手を伸ばす。
「キャッ!」
肩を掴んで引き寄せる。上がったのは短い悲鳴…オレは気にせず女を身近に引き寄せると、クルリと女を回して背中を向けさせ、右手を頭に載せ…左腕で女を支えながら口を塞ぐ。
「だから、こうなるんだ。覚えときな」
頭を掴んだ右手に力を込めて一言。直後、ゴキッという鈍い音がオレの周囲に響き渡り、藻掻いていた女の力がスッと抜けていく。
「一丁上りっと」
力の抜けた女。脈が無いのを確認した後、ヒョイと持ち上げて橋の下に突き落とす。落して少し経てば、水が打ちあがる派手な音が辺り一帯に響き渡った。それなりの音だが…今は夜中、記録帖に縛られた者達は、誰も見に来ることは無いだろう。
「どうだ?螢。もう終いだろ?」
「あぁ。まだ赤文字は出て来るけどね、ボク達の管轄じゃないみたい」
「ようやく汲み取りやがったか…じゃ、戻るとすっか」
橋の上で二人。オレと螢は後始末が無いことを確認すると帰路につく。ここから比良の入り口は、そんなに離れていない。橋を渡り、道を進み…角を一つ曲がれば、比良へ繋がる家が見えてきた。
「風呂か、酒か?」
「酒が入っちゃ風呂は入れないな。溺れるよ」
「なら風呂からだな。この時間なら…空いてるぜ、きっと」
比良に戻る直前、俺達は言葉を交わして暗い笑みを浮かべると、家の戸口に手をかけた。一瞬の暗転の後、江戸の静寂が掻き消え、代わりに比良の国の喧騒が耳に入ってくる。瞬きを数回するうちに、闇に染まった光景は、比良の煌びやかな中心街を映し始めた。
「こんな所に出るのか。どこだ?ここ」
「鶴ちゃん、こっちこっち、向きが違うせい」
「あ?あぁ、あぁ、分かった分かった」
「年寄りみたいな事しないの」
「うるせぇ、オレよか年上の癖に」
最初に見えた光景のせいで現在地を見失う所だったが、螢の一声でそれを取り戻すと、俺達は中心街を歩いて銭湯の方に向かって行く。
「やっぱ忙しいんだねぇ、皆」
行き交う人々の少なさは、管理人の忙しさを示している様。夜でも明かりが絶えず、盛り上がりを見せ続ける中心街を歩く者は、俺達以外に数名といった所で、どの店も閑古鳥が鳴いていた。人通りの少ない通り。時折抜け殻が通っていくが、連中は所詮比良の奴隷…客と数えられる訳もない。
「忙しいだろうな」
今日は抜け殻の数すらも少ない様だ。喧騒が聞こえる程度には人が居るが、それでも、通りを行く抜け殻すら少ないとは…人手不足もここまで来たかと思う所がある。今回の忙しさのせいで、哀れな管理人が何人抜け殻にさせられることだろうか…
「まぁ、赤字が消えてねぇなら。働きづめだろうしなぁ」
「ボク達が解放されたのも一時的かもね」
「だろうよ。酒だ酒だって言ってっけど、風呂入って休めばまた働かされんのさ」
「参るな。今度は鶴ちゃんも記録帖持っててよ?二手に別れられる様にしとかないと」
「わーってるよ。そもそも螢の呼び出しに付き合ったらこんなことになったんじゃねぇか」
オレは螢にそう言い返すと、不意に道行く抜け殻の顔を見て足を止めた。そういえば、抜け殻が…少ない…?そんなこと、ありえるのか?
「……あん?」
コッチに出てきて、何気なく見過ごしていた事。ふと、気になってしまえば…それがおかしいと気付いてしまう。
「どうしたのさ?」
螢が怪訝な顔をして足を止める。オレは螢に周囲を見る様な合図を出すと、目を細めてこう言った。
「なぁ、抜け殻の奴等ァ。こんなに少なかったか?…というか、奴等、異様に若い気がするんだが、気のせいじゃねぇよなぁ…?」




