其の七十四:新薬作りの悩み
「うーむ…流石にこれは手持ちに無いぞ…?」
ある日の昼過ぎ。私は薬の調合をしていて行き詰った。虚空記録帖に尋ねた後、作る薬の成分をよく読んで、手持ちに全ての材料があることを確認したはずなのだが…細かい一文に書かれた成分を見落としていたが故の出来事だった。
「弱ったな。流石に比良には無いか?…無いよなぁ…」
その薬草は、江戸の方でも珍しい物で比良の国ですら流通していない物。私は顔をクシャっと歪めると、台に載せた粉を一思いにゴミ箱へと棄てていく。材料が無いのでは完成しない。そのまま取っておいても…腐るだけだ。
「半日が潰れたか」
作業台を片付けてポツリと呟く。今は昼過ぎ…朝から初めてこの時間だ。もう日の位置は大分傾きかけていた。流石は冬と行った所か…昼過ぎなのに、もう夕方前の気分。私は脱力して適当な椅子に座り込むと、フーっと一つ、溜息をついた。
一日を無駄にすることなど、今までもあったが…久しぶりに無駄にしてしまうとそれなりにガックリと来るものだ。脱力して、暫く動けない私。暫くそのままでいると、家の外に人の気配を感じ取れた。
「?」
「おーい、栄さん、いる~?」
家の前から声がかかる。その声は螢の物だった。
「いるぞ~」
気だるげな返事。その直後、家の扉が開かれて、螢が家の中へと上がって来た。
「偶々近く通ったから、飲みにでも…って思ってたんだけど。な、なんか忙しかった?」
家に上がり込み、私が居る作業部屋にやって来た螢は、私の様子を見るなり唖然とした顔をこちらに向ける。私はその反応を見てニヤリと笑うと、首を横に振って立ち上がった。
「なにかやらかしたのかい?」
「いいや、只の材料不足さ。見落としがあってな…」
「あらら。それで、その顔は…そこそこ高い材料を無駄にしたって顔だ」
「当たりじゃ。丁度良い。螢、飲むなら街に出よう」
「ご愁傷様で…街ね、もとよりその誘いだったんだ」
螢の言葉に笑みを返す私。パン!と手を叩くと、着ていた服に目を落とす。街に出るには、この格好では不格好というものだ。
「ならば居間で待っててくれるか?外に出る支度をしてしまおう」
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着替えて螢と共に街へ出てきた。冬の中心街、日が傾きかけた頃。既に街には明かりが灯り、いつも通りの賑やかさが街を彩る。私は適当な飲み屋を探す前に、街へ出てきたついでに少し寄り道をしたかった。
「酔う前に少し、寄り道をしても良いか?」
「全然、どーぞ。何を見たいのさ」
「本じゃな」
「本?」
寄り道の内容を告げ、本屋が並ぶ通りへ足を向けると螢が驚いた顔を浮かべる。私がそれを怪訝な顔で見返すと、螢は首を傾げながらも横に付いてきた。
「薬の本?なら珍しいよね。虚空記録帖だけで終わらせてると思ってた」
「そうじゃなぁ…大半は記録帖に書かれておるから、それで済ませるが、本も使うんじゃ」
「どうしてさ。江戸の本に書かれた事なんて嘘かもしれないのに」
「実際嘘が多いな。じゃが、取っ掛かりには持ってこいなんじゃよ」
「へぇ」
理由を告げると、螢は合点がいったように頷く。子供の成りをして舐められにかかっている男だが、こういう頭の回転は異様なまでに早いのだ。
「何でも知ってるってのが、毒になる訳だ」
「そういうことじゃな。それに、ダメな事を知るのも一つよ。幸い、わっち達には時間は余るほどあるからのぅ」
私はそう言いながら、本屋の通りへと進んでいく。江戸で流通し始めた新書や、その他各地でしか見られない本が置かれた新書屋…私がまだ向こう側に居た頃に出ていた本すらも扱っている古本屋。様々な本屋が軒を連ねる通りは、この時間帯に来る人が疎らなようで、私と螢以外、人の影は殆ど見られなかった。
「抜け殻すら居ないや。珍しい」
螢の一言が重く聞こえる。この間、千代とやった雑談のせいだ。私はそれに反応はせず、目についた本屋に入り込み、医学書や薬草を取り扱った書物を漁り始めた。
「一杯あるもんだねぇ…」
「そうじゃろ。幾ら時間があるとはいえ、全ては読めぬからのぅ…目利きは大切じゃな」
「これは?」
「蘭学か。手は出しておるが…どうものぅ…外国語は好かん。翻訳書片手というのがな」
「そう。ボク、読もうと思えば読めるけど。手伝おうか?暇なときに」
「そうか?それなら心強いな」
「但し、薬の実験だけは御免だよ」
「しないしない。ちゃんとやる相手はおるからの。千代という名の女が」
「へぇ……」
螢は僅かに苦笑いを浮かべると、手にした蘭学の本を私に寄越してくる。図を見る限り、人体の仕組みを示した本だろうか。私はそれを脇に抱えると、別の本を探しに動き始めた。
「千代と約束したのじゃよ。この間の体が動かなくなる薬を改良するとな」
「へぇ…なんかダメな所あったっけ?便利な毒だったと思うけど」
「毒じゃない薬じゃ。まぁ、味と匂いじゃな。それを無くそうと思って色々やっておったんじゃがな…結果は出ておらぬ」
「ふーん…」
目に付いた本を手にして、中身を見てはピンと来ず、元に戻して次の本へ。こういう一時も楽しいものだが、結果が付いてこないと嫌になってくるというもの。私は外に目を向けて、外の色付きが夕方のそれから夜のそれに成りかけているのを確認すると、螢に渡された蘭学書のみを求める事にした。
「これだけで良いかの。出て、店を探そう」
「はいさ」
店番の抜け殻に本を渡して会計を済ませ、店を出る。空の色は、もうすっかり夜の色。私は吐息が僅かに白くなるのに気付くと、ブルっと体を震わせた。
「こういう日は熱燗じゃ。熱いものでも食いながら…体を暖めねば話にならぬな」




