其の七十二:虚空人へ置き薬
「この間の薬?まだあるにはあるが…そろそろ増やさねばと思っていた所じゃな」
仮面の男騒ぎも昔話と言える様になってきた頃。朝もまだ早い時間帯。千代が私の家を尋ねて来るなり、アノ時に使った薬の在り処を聞いてきた。
「そうか。それ、増やせねぇかな。出来れば、八人分」
「八人分…?あー、そういうことか」
千代の言葉から千代の意図を汲み取る。私は薬についての諸々を書き出す作業をしていた手を止めると、手を拭いて千代の方へ体を向けた。
「虚空人に使う気じゃな」
「あぁ。そういや、そんな薬があるなら…使わねぇ手はないだろ?」
「うーむ。まぁ、そうなるが…」
要件は、以前対峙した虚空人への使用…といった所か。要は向こう側の世界に出てしまったために対処できぬ存在になってしまった千代の両親とその仲間に使いたいのだろう。
理屈で言えば、あの連中にも効果は出る。人間離れしていると言えど、所詮人は人。薬の効果から逃れる事は出来ない。だが、問題は別の場所にあるのだ。
「もうしばらく消息不明じゃろう?江戸近辺の山々を記録帖で追える今、影も見えない。それに、見えたところで…この薬をどう使う気じゃ?一度殺さねば、使う隙は無いぞ?」
「まぁ、そうだろうなぁ…って、見つかれば良いと思ってたが、殺す必要あんのか?井戸の水にでも混ぜちまえば良いと思ってたんだが」
「無理じゃ。味があるだから今までも、殺してからが基本じゃったろう?」
「そうか?殺す前に使った事なかったっけか」
「味が濃い物に混ぜた事はあるが…それが連中に通じるとでも?それか…良いだけ酔わせれば可能性はあるが、それも連中に通じるとでも?」
私の問いかけに押し黙る千代。そこまでの事は考えていなかったらしい。私は最初から分かり切っていた事に苦笑いを浮かべると、さらに畳みかけた。
「それにじゃなぁ…井戸に混ぜるなんて手は使う気ないぞ?」
「どうして」
「薬は残るんじゃ。やるにしても、何処まで汚染されるかが分かって、それに対処できなきゃやらぬ。今は只の山岳地でも、遠い将来に人の手が入れば…どう影響が出るか分かったものではないからな」
そう言うと、千代は更に押し黙った。実際、私の使う薬は自然由来の成分しか使わないから、そこまで神経質になる必要は無いだろうが…何があるかは分からないのもまた事実。念を押すにこしたことはない。私が仕事に出る時も、持って行く薬の量は必要最低限に留めているのだ。
「ま、朝っぱらから千代の頭を動かすのは土台無理な話なのは分かっておるわ。やりたいことも、どうなればいいかも分かった。じゃが、今の手持ちじゃそれは出来ぬな」
私は頭から湯気が出ていそうな千代にそう言って笑うと、机の前から退いて、適当な所に出してあった羽織物を取り上げた。もうそろそろ、何度目かも分からない冬が来る頃だ。
「街へ出よう。その様子じゃ、まだ風呂に入ってきておらんな?」
「あ、あぁ」
私の言葉に、千代は悶々と動かしていた頭を止めて立ち上がる。千代の格好はまだ夏のまま…寒そうで敵わないが、それでも震えない辺り、千代にはまだその姿で良いのだろう。
「寒くないのか?」
「全然。この程度で震えてたまるかっての」
「ヒュー…」
私達は家を出ると、落ち葉が目立つようになった石畳の道の上を歩きはじめた。北風が吹けば、体を震わせる程の気温。千代はその中を平然とした顔をして歩いていく。私はその姿を見て苦笑いを浮かべると、話を元に戻した。
「話を戻すが…千代は薬を使って、あの八人衆を比良に連れ帰る気じゃな?」
「おう、そのつもりだった。まだ…連中が管理人のままかは確かめる術はねぇがな。不老不死が続いてんなら、十中八九管理人だろうさ」
「分かった。その為には、あの薬を無味無色にすれば良いじゃろうな。味もせず、色も付かない様にする…まだどうやるかは浮かばぬが、手はあると思う」
「ありがてぇ。真正面から行って叩き斬れれば良いんだがな。まぁ、まだ無理だ。だから、あんまり乗り気はしねぇが、謀るしかねぇんだよ」
千代はそう言いながらも、徐々に殺気立っていた。あの八人衆の事を話す時は何時だってそうだ。余程の恨みがあるのか、恨み以上の感情があるのかは分からないが…千代が渾名通りの鬼人な表情を浮かべるのは、この話題の時だけ。
私は千代の言葉に頷きつつ、薬の改良案を頭に浮かべていく。今の体が動かなくなる薬は、僅かに薬味の匂いと味がある。それを消すとなれば…少々厄介だ。匂いや味を消すだけなら、幾つか思いつく薬草はあるが、そのせいで効能が薄れては意味がない。
「話は分かった。薬を作るにも、実際に人に試さねばならぬな」
「そういうもんか…まぁ、そうならぁな」
「出来た暁には、千代で試させてくれ」
「はぁ!?」
必要な薬の話が終われば、次は出来た暁の話。私が千代にそう言うと、千代はヒョイと跳ねて私から距離を取った。普段の行いが悪いのは自覚があるが…ここまで派手な反応をされては、真面目な話をしにくいな…
「冗談を言ってる場合か。理由ならある」
私は苦笑いも浮かべずにそう言うと、千代は怪訝な顔をしつつも元の距離感に戻ってきた。
「こんな寒い中で飄々としてられるような頑丈な奴等、千代以外におるか?」
「……いねぇな」
「あの連中、千代ですら遅れを取る事がある人外としか思えぬ連中じゃ。そ奴等に効く薬を作るんじゃ。千代に効かねば、連中には効かぬじゃろうな」
淡々というと、千代は僅かに肩を震わせて押し黙った。私の薬で酷い目に遭った事は幾らでもあるが…それがまさか、真面目にならぬ時の障害になろうとは。私は自分の行いを僅かに悔いると、それをすぐに振り払い、千代にこう畳みかけた。
「というわけじゃ。薬が出来た暁には…ウチに泊りがけじゃな。何もかもの面倒はわっちが見てやる。薬の出来は…千代次第。それで手打ちじゃ」




