其の六十:変節と転身の分水嶺
「そうか。記録帖からは何もねぇか…この手の裏切りに、こんなに無関心だったっけかなぁ?」
昼過ぎ。守月様と近所の食堂に出向いたら、丁度千代達が卓を囲んで昼飯を摂っている所に出くわした。私達もそれに混ざり…話は自然と噂の話へ。これまでの事を一通り話した直後、不意に千代が呟いた。
「さぁな。管理人が抜け殻になる理由には、裏切りも混じっておったがのぅ」
握り飯を手に持ちつつ、千代の言葉に付け足す。確かに裏切りも抜け殻になる理由の一つ…だが、その基準とやらは、私達が分かる筈も無かった。全ては虚空記録帖次第なのだ。
「でもさぁ、明らかに今回のは変じゃない?話を聞いてる限り、明らかな裏切りじゃないのさ」
螢の返答が最もだ。今回、動くに動けないというのはあるにせよ、そもそも記録帖が動き出さないのが引っ掛かる。訳が分からない事だらけ…私達は螢の言葉に頷くものの、それに対して何か答えを持ち合わせている者は居なかった。
「まぁ…記録帖が変なのは今に始まった事じゃねぇ。どうする気だ?今日は俺等が見に行くか?俺と螢でよ」
「あ、ボクもなんだ」
「当然よ。ガキの姿は紛れやすいだろ?」
「どうかなぁ…ボク達の面は割れてると思うよ?」
そして、特に変化も無く進んでいく話。出来るのは監視だけだろうか。隣で話し始めた螢と鶴松を眺めながら頭を巡らせ、行き詰る前に茶で思考を濁す。
「見たところで、刺激するだけだなこりゃぁ…」
千代がポツリと呟き、皆が静まり返った。刹那、昼時の飯屋…喧騒が耳に入ってくる。私は残った握り飯を全て口の中に放り込むと、千代の言葉に頷いて見せた。
「余計な仕事を増やしちまったなぁ。藪を突いて蛇だぜ。すまねぇ」
「いやいや、多分、お千代さんに言われなくても何れはやる羽目になっただろうし…ね?」
「あぁ。どうせお鉢が回ってくるのは分かってたんだ。早いか遅いかでしかねぇさ」
「右に同じじゃ」
若干弱った千代を慰める私達。最初はキナ臭い噂を突こうか位の感覚だったのだろう。いつもの、大したことのない裏切り事…それが、大したことが無いと分かって、誰かが抜け殻に成り果てた様を見ながら、無駄だ無駄だと笑うのが千代の腹積もりだったのだろうか?
「こう言う事に頭使うのは苦手でなぁ…畜生」
だがここに来て、その問題は、将来を見据えた上では避けて通れない面倒な事だと知ってしまった。やらなくていいのに、やらねばならない。矛盾…わきまえる分水嶺が何処にあるのかも分からない中で取り掛からねば、どうなるか分かった事じゃない。私達は、そんなおかしな状況の中で、身動きが取れなくなっていた。
「難しいよね。ある意味ボク達がやろうとしてる事も、ボク達の為みたいなもんでしょ?」
「あぁ。俺等が全面的に正しいかと言えぁ、言えねぇぜ」
千代と似た様に頭を抱える螢に鶴松。そんな中で唯一、若干怪訝な顔を浮かべていたのが守月様だった。
「メンドクセェな。事情は大体分かったけどもよ、布教を止めにゃならねぇってことは確かだろ?」
守月様の一言に、場の全員がそちらに顔を向ける。守月様はその視線に怯むことなく私達を見回した。
「あの狐面連中が消えようとも、アレが邪教にならねぇ限り終わりはねぇぜ」
「なんだ八丁堀、似た様な事に覚えがありそうだな」
「あぁ、テメェ等見てぇな賊共と同じよ。江戸にいる善良な民はあれになるやつの気がしれねぇんだが、ちっとでも世が乱れると惹かれちまうんだなぁ…」
守月様の言い草に、良くない方の例にされた鶴松と螢は僅かに顔を顰める。気持ちは分かるが、まぁ…この二人、良い事をして生きてきた訳ではないから怒る資格は無いだろう。私は苦笑いを浮かべて肩を震わせながら、守月様に目配せをして続きを促した。
「虚空人の件で管理人が乱れてんのよ。違反者だけの問題だと思ってたら、そうじゃなかったんだものなぁ…仕方がネェと思うぜ?だから、この流れはある意味自然だ。取り締まる記録帖が動かねぇのもまた自然よ。ちっこい賊風情に幕府が動くかってんだ」
酒が入っているのでは無いかと思う程に挑戦的な守月様の言葉。私と千代は苦笑いを浮かべるばかりで、鶴松と螢は若干怒り気味…だが、当の本人は自信満々といった様子で続けていく。
「だからよ、これを何とかするのは無理だ。正攻法じゃな」
言い切った言葉に、千代の眉がピクリと動く。この男には、何か策がありそうだ。
「正攻法じゃダメなら?何かあんのか?」
「あぁ。俺には向かねぇが、あるぜ?頓智みてぇなモンだが」
千代の問いかけに、守月様は飄々とした様子で答えて私達の顔を見回した。そして、私に目を合わせて口を開く。
「例えば、栄さんを担ぎ上げる。娯楽がありゃ良いのさ、あんなモン。それか…初瀬さん、アンタが頭に立って堂々と見てきた事を語ればいい」
「はぁ?」「ほぅ…?」
「今は年の事で暴れないでくれよ?真面目な話だ。栄さんは花魁として名が売れていたと聞く。その時の経験を生かして、何か大衆向けの娯楽でも打ちだせねぇか?…それか初瀬さん。アンタが生きてた時は戦乱の世だろ?…恐らくだけど。その時の話を歌にしてやれねぇか?」
大真面目な守月様の言葉。私と千代は顔を見合わせ目を点にし、螢と鶴松は僅かに引きつった顔を浮かべつつ、どこか合点のいった様な顔になっていた。
「見た所、あの連中はまだ話半分にしか取られてねぇ。だから熱心に人の集まる…ましてや酒が入って判断があやふやになる屋台村でやってんだろ。裏付けがあって自信のある論なら、銭湯の前でブチ上げるよな?」
そういう守月様の言葉に、一様に頷く私達。彼らが中心でやらぬのは、まぁ…私達…主に千代の存在もあるのだろうが、それが自信の裏返しだと言われれば否定は出来ないだろう。守月様は全員の反応を見ると、僅かに気恥ずかしさを感じたのか少々声色を潜めてこう〆た。
「だからよ…その、まだ話半分であるうちに、何か別なもので管理人を惹いてやればいい。真面目になってる連中は切り捨てさ。何れ、手が下るだろうよ」




