其の五十七:微風と暴風の分水嶺
「な…!」「野郎!!」
屋台村の一角が、俄に騒めきたつ。守月様の一閃は、私達を下衆い目で見ていた男を見事に斬り裂いた。舞い散る血飛沫、それを浴びてニヤつく守月様。私は驚いた顔を浮かべつつも、守月様に手を引かれると同時に足を動かす。
「さーて、逃げるとすっか!遅れるなよ!?」
「ちっとは気を使ってくれればのぅ!」
「ソイツぁ難しい相談だな」
呆気に取られた男達の脇をすり抜け駆け出していく私達。後ろからは、怒声と共に男達の駆け抜ける足音が聞こえてきた。夜真っ盛りの屋台村を通り抜け、私達が向かうは中心街の中心地。ここから何処かへ逃げるなら、まずは中心に向かうのが一番だ。守月様は、少ない経験ながらも、それを分かっていたらしい。
「銭湯の辺りまでいくぜ!いいな?」
「あぁ!」
手を引き、道行く人々を脅して道を開けさせ、駆けていく。屋台村から、銭湯までは直線距離で五町といった所だろうか。それでも、右に左にと、細かく碁盤の目をした街を行かなければならないのだから、走る距離はもっとあった。
「ぬぅ…」
私は千代の様な肉体労働派ではない。只の花魁なのだ。だから、体力があるはずもない。それでも、足をがむしゃらに動かして、守月様についていく。守月様は余裕な様だ。駆けて曲がって振り向いて…私の様子と、背後から迫ってくる男達の様子を見ては楽し気な笑みを顔に貼り付けた。
(コイツも千代と同じ部類の者か…)
それを見て、私は背筋を僅かに凍らせる。守月様の剣の腕前は、さっきの一閃もそうだが…これまで度々目にしてきた。私の感覚だが…一番とはいえぬまでも、十指に入る勢いがありそうな腕前だ。そんな腕間を持つ男がこうも戦闘狂だとは…喧嘩を売って来た追いすがる男達に、僅かながら同情してしまう。
(味方で良かったと思うべきか)
息を切らしつつ、その割に冷静な頭でそんなことを考えていると、路地の向こう側に銭湯の煙突が見えてきた。
「じゃ、先に帰ってな!明日朝、家に邪魔させてもらうぜ!」
守月様はそう叫ぶと、私を前に出し、自らは足を止めて振り返る。ここは、銭湯がある路地まで繋がる細い一本道。行き成り前に出された私は思わず足を止めて振り返るが、守月様はこちらを見ることなく剣を構えて男達を待ち構えていた。
「行け!」
背中越しの一喝。私は前へ前へと進みつつ、時折振り返って守月様の様子を見つめる。その度、地面に転がる者の数は増えていた。一定の感覚で悲鳴が上がる。徐々に遠くなっていくのに、悲鳴の大きさはそれほど変わらない…
(何処かで身を変えねば…)
後を守月様に任せた私は、銭湯を目指して足を動かしていた。変装…というには余りにも稚拙だが、今の格好になるために脱ぎ捨てた元の格好は、銭湯に預けてある。私は守月様の方へと見物に出かける者達の隙間を縫って走り、銭湯に辿り着くと、番台に立っていた抜け殻に訳を話して中へと入れてもらった。
「ふぅ…」
脱衣場まで来て、周囲を見回し、誰も居ないのを確認して溜息一つ。私はパパっと服を脱ぎ出し、着ていた物を使った後の手ぬぐいが入れられる籠へと放り込んだ。私達の着ていた服は、この銭湯が貸し出している予備の服だったのだ。
一通り服を片付けると、備品の手ぬぐいを手にして、化粧を落とすために風呂場の方へと入っていく。夜も遅い時間帯。銭湯の盛り上がりは二階に集中していて、風呂場の方に人の気配は殆どなかった。
「……」
女湯の暖簾を潜ってからというもの、他人に合わないまま風呂場に入る。人がおらずとも薬味が染みた湯が張られ、明かりが付いているというのは…今更だがなんとも贅沢なものだ。
入ってすぐ、私は化粧を落とすために洗面台の前へ座る。椅子に座ると、贅沢品の硝子が目の前に掛けられていた。そんな席がざっと30程…日常になった夢のような光景に何の感慨を抱くことも無く、私は化粧を落として頭と体を洗い流していく。
「…ん?」
人の気配がしない風呂場に、不意にお湯が波を立てて揺れる音がした。誰もいないと思っていた風呂場…私の背筋がゾクリと冷える。だが、そんなことが出来る人間が一人しかいないと思い当たると、私はすぐに頬を緩ませた。
「誰か来たなと思えば、栄か。終わったのか?」
湯船の方から、洗い場の方へと顔を見せたのは、思った通り千代だった。私は千代の顔を見てニヤリと笑うと、彼女の言葉にコクリと頷く。
「あぁ。わっちの方はな…守月様が追手の掃除を買って出てくれたんじゃ」
「ほぅ…奴が一暴れすっとなると…面倒だなぁ、後始末がよぉ」
真っ白な、少々短い鬢そぎ髪を濡らし…女にしては、十代半ばにしては抑揚の少ないスラリとした体躯をした千代が、そう愚痴りながら私の隣の席に腰かけた。
「でぇ?どうだったんだ?」
「酷いもんじゃな。あの様じゃ毎晩独演会が開かれてるんじゃろうて。道行く人々を言葉巧みに引き入れて駒にしてる奴がいるんじゃろうな」
「ほぉ~…一大勢力とみて良いか…」
「あぁ。噂以上じゃないかのぅ…喋っておったのは狐面をした男じゃから、顔は分からんかったが…まぁ声のデカい男じゃった。あそこまで大きけりゃ、それなりに誰なのか分かると思うがのぅ」
私は石鹸で体を洗いつつ、見てきたことを千代に話す。元はといえば、千代が持って来た噂話。それが、本当で…ましてや、もっと酷いとなれば、誰かが動かない訳にはいかないだろう。
「そっかぁ…安い噂なら、笑い飛ばしてたのによぉ…」
「で、一通り話を聞いた後…出ようとしたところを捕まり、追いかけっこじゃ。守月様はその始末に残ったというわけだ」
「ふーん、格好は?栄は面割れがヒデェから、なりすましたんだろ?」
「当然。それが裏目に出たようじゃな。見かけぬ面だと、看破されたからの」
「なるほど。管理人の名簿があるとみて良いか…ま、それこそ虚空記録帖に問えば似顔絵と共に出て来るからなぁ…」
千代はそう言いつつ、欠伸を一つすると、呆れた顔を隠すことなく浮かべて肩を竦める。
「なんだって管理人を敵に回さにゃならんのだ。哀れな違反者と、虚空人の相手だけで十分だってのによぉ…ったく。休みの日でも退屈させてくれねぇ見てぇだなぁ…クソ…」




