其の五十三:際限と無限の分水嶺
「で…こうなる訳か…」
千代と朝食を共にし、千代の家で皆と話し合い…諸々が終わった後。すっかり暗くなった比良の国の道端で、私は隣を歩く男に目を向けて呟いた。
「悪かったな…」
「そういう意味でない。何となく、そんな気がしてただけじゃ」
守月公彦…調べてみれば、そろそろ管理人になって一年が経とうとしているらしい。寡黙な元八丁堀同心。私と組んで何かをするのは…何時以来かは知らないが、相変わらず顔色は変わらず、何かあっても口を開かない。私は若干のやり辛さを感じつつ、頭を仕事の頭に切り替えた。
「ま、暗い夜道…八丁堀同心の護りがあるなら安心じゃな」
「…………」
冗談を一つ飛ばしても、横の男はピクリとも顔を動かさなかった。それはもう、織り込み済みだ。私は男の少し前を歩き、比良の国の中心部へと向かっていた。
「愛想は治す必要は無いが…しくじるなよ?」
「……あぁ」
綺麗に整備された道…私達が住む地区から歩いてどれ程か…考える事がないから分からないが、それなりに歩いた先に、中心部を囲う塀が見えてくる。塀の向こう側には、中心街を照らす明かりが創り出す光の靄の様なものが見えていた。
あの場所だけは、外ではお目に掛かれない光景だ。昼間の様に明るく…煌びやかな夜の街。私は自らの格好を見下ろすと、今着ているのは黒い着物…余りの地味さに僅かに顔を顰める。あの街に似合うような格好をしたいが…これも仕事の為。愉しむのは、また後でいい。
「確認しておこう。わっちらの目的は何じゃ?」
塀が見えた頃、私は隣を歩く守月様にそう尋ねた。
「…初瀬さんが言ってた人間の監視だな」
「そうじゃの…わっちらが見に行くのは何処じゃ?」
「…南東、川に沿って出来た屋台村」
「合っておる。その為にも、人目に忍ばねばならぬが…お主、その恰好は普段と変わらないじゃないか」
尋ね事は問題ない。問題は、この男の格好だ。私がそう問いただすと、守月様は自らの体を見回した後に首を傾げて見せた。今のこの男、普段通りの茶色い着物に黒い着流し…そして腰には刀を二つ…まんま同心の時と似た格好をしている。
「ソッチみたく目立たないからな」
「ぬかせ、お主、そこそこ人目についておるのだぞ?ま、向こうに行く前に着替えからじゃな」
「そう言う栄さんだって、それで忍ぶつもりか?」
「なんじゃ仕返しか?こんな地味な格好。普段のわっちはせんじゃろう」
「顔と胸が誤魔化し切れてねぇ。化粧変えて、そのデカい胸はサラシで押し付けないとな」
「………」
守月様の仕返しは中々に強烈だ。私は一瞬呆気に取られたが、すぐに甲高い声で笑い飛ばすと、バシッと男の背中を叩く。暗い夜道に、パン!と良い音が響き渡った。
「っ!」
「アッハハハハハハハ!!!言うのう!お主、そう言う所もあるのか。ま、女に疎そうなお主が言うなら仕方があるまい。わっちも少し化粧直しするとしようかの」
バシバシと叩きながらそう言うと、守月様は僅かに顔を赤らめる。この男、女っ気が無い割にはそれなりに見ている所は見ているらしい。この男からは、螢や鶴松から時折感じるその様な目線を感じ取ったことは無いが…さり気無さは同心故?なのだろうか。
「さて…」
私はひとしきり笑うと、スッと表情を消して元に戻った。今宵の目的は、管理人にあるまじき仕事。揉め事を起こす訳にもいかない。私は深呼吸を何度かすると、少しだけ和らいだ様な気がする雰囲気になった守月様の方へ顔を向けた。
「こんな仕事、同心だった頃にやってたことはあるのか?」
「それは隠密廻りの仕事だ。俺の管轄じゃない」
「そうか。なら、互いに初心者じゃな」
「あぁ。それといい時だから言っておくが。毒を盛る様な真似はしないでくれよ?」
「そうじゃな…お主には盛らないさ」
「盛る気だったのかよ」
雑談ついで…私は薬の話が出たついでに、何をする気だったかを白状する事にした。懐から小瓶を取り出すと、それを男に見せつける。
「自白剤みたいなものじゃ。死人は出ない。強めの酒と変わらん」
「なるほど。勝手に吐いてくって算段だな」
「あぁ。わっち達ですら…千代ですら管理人を抜け殻にする事は出来ぬからのぅ」
「んなもん出来てみろ、いよいよ初瀬さんが虚空記録帖の成り代わりに見えて来るぜ」
「似た様なもんだと思うがの」
私は男が言った言葉に同意して見せると、クスッと僅かに頬を笑わせた。今回の仕事は、虚空記録帖への裏切りが噂される管理人達の調査だ。調査はするが…奴等が裏切り者だった所で、私達に打つ手は無い。管理人が他の管理人を裁くなんて真似は出来ないのだ。
出来る事は、嘘偽りなく虚空記録帖に報告すること。管理人の処遇は全て虚空記録帖に一任される。複数名でその時の状況を洗いざらい報告すれば、些細なしくじり一つで抜け殻になるらしい…と言う事を、千代と螢が言っていた。
「しっかし抜け殻ってよ、アイツら、何時までもあそこで動きっぱなしか?」
少しの間の後、守月様がポツリと聞いてくる。私は小さく頷くと、僅かに顔を青くした。
「そうじゃな。抜け殻に成り立てかどうかも分かるんだぞ?」
「ほぅ?どうやって」
「目の生気じゃ。抜け殻に成り立ての時は、まだ僅かに残っておるんじゃな」
「初耳だ。最初からあの生気の抜けた目をしてねぇって事か」
「あぁ。自我が残りつつ、手遅れになったことを感じながら、ジワジワと抜け殻になっていく」
抜け殻の話題。成り立ての管理人や、中堅の管理人くらいまでは…何故か抜け殻を怖がらないのだが、それにはちゃんと理由があるように思える。抜け殻…ただ、生気が抜けた肉人形になると思えば、それはそれで救済と捉える者が居てもいいだろう?死ねない管理人に与えられた、唯一の救済だと…最初、話を聞いたものがそう思っても、私はそれを攻める事はない。
「今度見かけたらで良いが…自我を残した抜け殻と話してみろ。抜け殻になるものかと、強く決心がつくであろう」
「俺もまだピンときてねぇが…まぁ、なりたかねぇとは思ってんだが…そんなもんか」
「まぁな…話だけでは伝わらない怖さがあるものよ」
抜け殻。それは、自我を失ってなるものではない。自我が内側に強く押しとどめられたまま永遠に縛られる存在。私は、そう理解している。自我は消えないのだ。そこの解釈は私達でもまちまちだが、恐らく…徐々に自分を表に出せなくなって、自分で自分を動かせなくなるだけで…決して自我は消え失せないのだ。自分の体が永遠の牢獄になるだけ…それが、抜け殻というものだと思っている。
私は抜け殻の事に思いを馳せて、僅かに体を震わせると…これから見に行く未来の抜け殻候補に向けてボソッと呟いた。
「それが分かれば、どんだけ愚かな考えをしているか分かるだろうに。それが分からぬのが、若さというやつかの」




