其の五十二:夢幻と現実の分水嶺
「噂だけで千代が動くとは、余程の確信がある様じゃな?」
やってきた茶と団子をツマミにしつつそう言うと、千代はコクリと頷き窓の外に目を向ける。釣られて窓の外に目をやると、抜け殻と管理人が行き交う普段通りの光景が目に入った。
「何も変わりは無いようじゃが」
「あぁ、見た目はな。栄、この間も螢と向こうに出た時、一匹若いのを〆てんだ」
「ほぅ…」
「その若いのが…あぁ、来た来た。あの抜け殻だ。見えっか?紫の着物着てる」
「抜け殻…」
千代の言葉を聞きつつ探すと、確かにそれらしい男の抜け殻を見つけた。大分若い男だ…紫の着物を着て、色の無い目を前に向けて歩いてきている。私は僅かに顔を青くすると、そっと抜け殻から目を逸らして千代の方に向き直った。
「この間は、〆ただけだぜ?ワタシと螢にすらそうする権限はねぇからよ」
「そうじゃが…その後にしくじりを犯したんじゃろうな。随分と若く見えるが…」
「若いな。歴で言えば中堅に手が届く頃ってか。とっちめた時に色々聞いたのよ」
そう言った刹那、千代の元に蕎麦がやって来る。中途半端だが、そこで一つ間が置かれた。私は茶を飲みつつ、顔を回して辺りを一回り…働き蟻になっている抜け殻の他にも数名の管理人の姿が見えたが、どいつもこいつも私達の席から離れた場所で談笑している様子…特に気にすることは無さそうだ。
「ん…悪ィ、間が半端だったな」
「全然。朝、食べて無かったのじゃな」
「昨日、ちょっと夜更けまで動いててよ」
千代は暫く夢中になって蕎麦を食べ、半分ほどを一気に平らげてしまった。その様子を見た私は思わず苦笑い。千代はそんな私を気にする様子も無く箸を進め、山盛りの蕎麦を崩していく。
「ん…ぐ…」
蕎麦を食べて、茶で喉に流し込む。行儀がいいとは言えないが、それがいつもの千代だ。千代は蕎麦を少々残した状態で箸を置き、一呼吸挟むと、ようやく私の方へ目を向けた。
「さっきの抜け殻な。中堅に手が届く年だっつったろ?」
「あぁ。他にも色々聞いてきたそうじゃないか」
「色々な。この間の一件のせいで嫌な風潮が広まってるらしい」
「この間の一件…?あぁ、わっちが世話をかけたやつか」
「気にしなさんな。あのせいでな?ちとばかり、管理人にも危険な考えを持つ奴が出てきたのよ」
千代はそう言うと、珍しく持ち歩いていたらしい虚空記録帖を懐から取り出して、机の上にトンと置いた。
「今まで虚空人っていやぁ、仕留め損ねた違反者だけだったろ?それがなぁ…管理人からでもなれるならどうなる?」
「そう言う事か。確かに、そうじゃな。勘違いする奴が出てもおかしくは無いか」
「見事に勘違いされたのよ。さっきの男には逃げられたが、そこそこの数がいるらしいぜ」
「そうか…まさか…もうすでに、外に出てるとか言わぬよな?」
「言うんだなそれが。ま、虚空記録帖を持ったままな以上…出た先で抜け殻化して野垂れ死ぬんだから、そっちは気にしなくて良いんだ」
千代はそう言いながら、記録帖を取り上げて紙を捲り始める。
「問題はこっち側…後で皆を集める気だったんだが、先に言っちまうか。仕事が無い時に、内偵したくてな」
私は千代の言葉を聞いて頷くと、ふと脳裏に小間使いが思い浮かんだ。私の花魁時代の噂を聞きつけたか知らないが、初音太夫親衛隊なるものを名乗る連中のことだ。
「わっちの使いにも出番がありそうじゃな」
連中の事を思い浮かべつつそう言うと、千代はこちらをジロリと睨み、そして僅かに目を細めた。
「どうだろうな。中身を調べ上げるのは大切だと思うぜ」
「まぁ、の。確かにどういう人となりかは知らぬが…」
「それに、立ち回り間違えりゃ、栄まで裁かれる側に回っちまう。考えもんだな」
「なるほど…結局普段の四人衆か…」
何気なくそう言うと、千代はポカンと口を開けて呆気に取られる。私はそれを見て首を傾げると、すぐにハッとした顔を浮かべた。
「あぁ。守月様が抜けておったな」
「お前達の厳しさは誰に似たのかね」
「はて…誰じゃろうなぁ?」
守月公彦…もう、一年かそれ以上か?まだ二年は経っていないだろう、新人管理人。千代が直々に引き入れた管理人。まだまだ青いが、ソイツも入れて千代の周囲に集う管理人は総勢五名。千代は私の様子を見てクスッと笑いつつ、私に記録帖を見せつけてきた。
「これは」
「先に螢と調べあげたんだ。怪しい連中の一覧よ」
「ほぅ…既にそこまでやってくれておったのか」
「まぁ、偶々螢と似た様な仕事を回されてたせいだな」
千代の言葉を聞きつつ、記録帖に載った名前を見て回る。どうやら、私の親衛隊を名乗っている酔狂な連中の名はココには無いようだったが…それでも、その数は異様に多かった。
「覚えてる限り、親衛隊はおらんようじゃの」
「流石。唯一神がここにいるもんなぁ……」
「揶揄うでない。鬱陶しいんじゃぞ?もう花魁なんかではないのに」
「その割に結構小間使いにするじゃねぇの」
「使う分には良い男が多いからの」
「……」
記録帖を見ながらの軽いやり取り。千代はいつも私に見せている呆れ顔をこちらに向けるが、私はそれを無視しつつ、記録帖に書かれた名前に覚えが在る者が居ないかを確かめていた。
「特に知り合いは居なさそうじゃが…これは全部江戸辺りを見てる管理人か?」
「あぁ。その数…ざっと半数まではいかねぇが、結構近い数出てるぜ」
「ひと悶着終わっても、後に響きそうじゃのう」
「あぁ。人手不足に喘ぐ未来が目に見えてら」
私は口元に苦い笑みを浮かべつつ千代に記録帖を返す。千代はそれを受け取り記録帖をパタン!と畳んで懐に仕舞うと、再び箸を手に持った。
「ま、そんなわけでな栄。普段と違う仕事だ。また暫く、面倒事が続くぜ?」




