其の五十一:虚構と事実の分水嶺
「随分と、苦しそうじゃのぅ」
私は目の前でもがき苦しむ老人に向かってそう言った。ここは江戸にある茶屋の中…まだ日は高く、周囲を行き交う人の影もある。そんな中で、老人は餅を喉に詰まらせたようだ。もがき苦しみながら、悲鳴もあげられず私に何かを求め手を振っていた。
「まぁ、主を助けるのは…わっちに出来ぬ事。諦めなんし…」
助けを求める老人に一言。気取った様な嫌いな口調でそう言うと、老人は顔を青くして徐々に弱っていく。きっと奴はまだ、餅を喉に詰まらせたと思っているのだろう。きっと、死ぬその時まで。
「ついてなかったな」
私は死にかけの老人にそう吐き捨てる様に言うと、クルリと踵を返して茶屋の外へと出て行った。背後でバタっと崩れ落ちる音がする。私は店を出て、帰路へ歩き出す前に茶屋の方へと顔を向けた。
「思った以上の効果じゃったの」
机に突っ伏す様に倒れた老人。その様は、ちょっと耄碌した年寄りが居眠りに入った様にしか見えない。私は着物の袖から今回使った毒が入った瓶を取り出すと、それを軽く弄んで再び仕舞いこんだ。体を硬直させる効果を持った毒…あの老人は、餅を喉に詰まらせたのではない。餅を飲み込めなかったから死んだんだ。
「ふむ…」
茶屋を後にして、私は比良への帰路につく。ここは江戸の街中。栄えていて、人の行き来は多いが…比良の街に比べると、こんな景色でも酷く田舎の様に感じられた。
私はそんな中。道の端をゆっくり歩いていく。私がこの辺りに居た頃は、身請けされた後の事だったか…慣れない軽装に少々の気まずさと恥ずかしさを感じたものだった。
「ちょっと、格好を間違えたかな?」
それが今ではどうだろう?今の格好は、当時よりも軽装だ。動きやすい格好だから、何をするにしても楽だが…少々目線が気になる箇所もある。そこへの恥らいはとうの昔に掻き消えているのだが…それでも、時折ジロリと見られれば僅かに顔を赤らめる位の感覚は残っていた。
「千代位に何も無い方が楽じゃの」
ボソッと呟く。昔から恵まれてる面は自覚していた。それが花魁をやる上で武器にもなった。だけど、足で稼ぐ管理人になってからは…とてもじゃないが恵まれてるなんて思えない。邪魔なだけだ。
「帰ったら…少しばかり千代をおちょくってやろうか」
一人、そんなことを呟きながら江戸を行き…やがて比良への入口へとやってくる。それは何の変哲もない、裏路地の一角にポツリと立った古い家。私はその家の戸に手をかけると、一瞬、私の感覚全てが無に消えていった。
「ん…」
そして、失った感覚はすぐに戻ってくる。音を感じ、地面を感じ…目を開けると、そこは比良の国の中心街だった。いつも通りの帰還。私は目を数度開け閉めして感覚を取り戻し、ゆっくりと比良の国の流れに身を委ねる。
時はまだお昼前。朝と言っても良い時間。私は家に帰る前に、中心にある銭湯へ立ち寄る事にした。多分、いや、ほぼ確実に、アノ人がいるだろうから…
「やぁ…上で一休みさせてくれ。風呂は入らぬ」
番台に立った抜け殻にそう言って札を貰い、銭湯の二階へ上がっていく。銭湯の周囲、中には薬味の効いた湯の香りが鼻をつき、その香りに思わず頬が綻んだ。私がやったことだが、良い物は良いといって何が悪い。
「おぉ…そこの。茶を一杯。あと、団子を一つ貰えるか?」
二階に上り、すぐ目についた抜け殻に注文を付けると、辺りを見回した。そしてすぐに思った通りの人影を見つけると、口元をニヤリと笑わせてその人に近づいていく。
「千代。やっぱりここに居たのじゃな?」
そう言って、濡れた白髪頭を持った女子の前に陣取る私。千代は私に気付くと僅かに口元を歪めて窓の外に目を向けた。
「なんだよこんな朝っぱらから。仕事じゃねかったのか?」
「とうに終わらせたぞ。その帰りじゃ」
「なるほど。どんな手使ったんだ?確かジジィだったろ?」
「試してみるか?」
「いいやぁ、結構」
挨拶も無しに普段通りの会話。千代は邪険な様子を出しつつも付き合ってくれる。私は懐から毒瓶を取り出すと、それを千代の方に滑らせた。
「これを使ったのか?」
「あぁ。暫く体が固くなる薬をな」
「薬じゃねぇな。毒だぜ」
「致死量は余程の量じゃ。さっきの老人には、饅頭の餡子を半分コレに変えてやったが」
「ヒデェ殺し方だこと」
「味には拘ったぞ?くどくない甘みの効いた薬じゃ」
私は千代にそう言いつつ、徐々に冗談から本題へと近づけていく。何も、じゃれ合う為だけに千代に会いたかったわけでは無い。まぁ、半分くらいは会いたかったから…だけど。
「頼まれてた物だったハズなんじゃが」
「そうだったなぁ…そんなもん、頼んでたっけか」
本題の方に話題を寄せると、千代の顔つきが僅かに変わる。千代は周囲を見回した後、薬瓶を取って懐に仕舞いこんだ。
「ちと、管理人側がキナ臭くてな」
「お?虚空人絡みじゃないのか?」
意外な千代の言葉。私の問い返しにコクリと頷いた千代は、抜け殻を指さした後、私に顔を寄せてくる。
「?」
珍しい仕草。だが今はふざけてる暇は無いだろう。私も千代に体を寄せると、千代はそっとこういった。
「どうもな、裏切り者がいるらしいのよ。管理人の中に…な」




