其の五十:有為転変の火種
「ほぉ…よく見えてたなぁ螢。お手柄ってモンだぜぇ、コイツぁよぉ…」
ある夜の日。偶々仕事の為にお千代さんと共に江戸へ出向いていたボクは、仕事を終えた帰り道、怪しい人影を見つけた。
「ついこの間、ちょっとだけ会話してた気がするんだ。なんか、見覚えがあってね」
その人影を追いかけて、それがバレて追走劇となって、捕まえ今に至る。ボクとお千代さんの足元に転がされた若い男は、何時だったか中心街の屋台で愚痴を零していた男の一人だった。
「やぁ、若いの。何時だったかボクが直々に話してやった事、忘れてた見てぇだなぁ…」
そう言って、男に話しかける。ここは江戸のド真ん中…人目のつかない裏路地の行き止まり、お千代さんに足の筋を斬られて動けない男は、涙でクシャクシャになった顔を向けて声にならない悲鳴をあげていた。
「なんだ螢。知ってんのか」
「ちょっと飲み屋で一緒になった程度だけどね。なぁ?坊や?」
「ひぃ!…は…はぃ…」
コソコソと動いていた男。ここは江戸だ、管理人が自由に動き回れるような場所じゃない。そんな所で何をやっていたのか…ここはしっかりとお話しなくてはならないだろう。
「なるほどなぁ…ちと、話をしようや」
ボクはお千代さんに目を向けると、お千代さんは小さく頷いて手にした大太刀を男の首筋に突き立てた。管理人は死なないから、怖くも無いと思うのだが…男はその刀身を見るなり震えだし、股間の辺りをジワリと濡らしてしまう。
「死なないのになぁ…」
それを見てボソッと呟くボク。そう言いながら周囲を見回すが、こんな夜中に、外をほっつき歩く者も居ないだろう。だが、ボクもお千代さんも、何処かに嫌な予感をヒシヒシと感じていた。
「螢。この野郎はワタシに任せてくれ。見回り、任せられるか?ざっと三町分。直帰で良いぜ。報告は向こうで聞くからよ」
「分かった。じゃ、そこのお漏らし男…預けたよ?」
短いやり取りの後、ボクは後をお千代さんに任せて見回りに出る。あの男、とてもじゃないが単独犯になれるような度胸を持ってはいない。
ボクは路地を駆け抜け適当な場所までやって来ると、塀やら何やらを使って屋根の上に乗り上げた。見て回るなら上からだ。新月の夜、殆ど光源が無い夜。ボクは辺りに顔を回して、夜に慣れた目をジッと凝らしていく。
「お千代さん、もう少し静かにしてあげてね。寝てる人居るんだから…」
男を捕らえた現場の近くにいる間は、時折お千代さんの怒声が耳をつんざいたが…少し離れればそれも無くなり、夜らしい空気の中で、自分の放つ音以外が聞こえてこなくなる。
「……」
そこから耳を澄ましつつ、当ても無く路地を見下ろして誰かが隠れていないか探して回る…それがまた大変なんだ。ボクは適当に街を駆け巡り、上から下を見回して何かの影を追い求める。
居ると決まった訳じゃない。ただ、居なければ居ないで、後々面倒になりそうな予感をヒシヒシと感じるが…ここまで、江戸の夜の街を歩いている愚か者の姿はボクの目に映らなかった。
「あいつだけ後合流とか…?それにしちゃ、出て来る場所が悪すぎるんだよねぇ」
独り言をポツリ。ボクはお千代さんと別れた場所から既に三町は離れた場所にいるだろうか…その辺りで足を止め、ふと背中側に目を向けた。何となく、お決まりのように江戸の外側の方へと進んできたが、実はそうじゃないのでは?と…
普通、虚空人となるならば、人気の無い山々を目指す。それが習性…人の習性というモノなのだが…今回に限っては別なのでは?と、ふと思った。
「……」
気が早いのだろうか…と不安になる。まだ、お千代さんと別れて三町程度。江戸の外を目指す方角に来たわけだけど、さっきいた場所は八丁堀の近く。とても三町程度じゃ山々の景色なんて見えやしない。
「信じてみるか?」
どうしようか。暫し足を止めたボクは、足を止めた勘を信じる事にした。外へ向かうのではなく、中へ中へ…江戸の中心部。奉行所よりもさらに中心の方へと足を向ける。
そうと決まれば、ボクは足を一気に早めて家々の上を跳ぶように駆け抜けた。何故か焦りの様なモノを感じる。こういう焦りは杞憂に終わった試しがない。
嫌な予感…それと同時に感じるのは、不思議な緊張感。あれだ。普段、江戸の中心に顔見せする事なんて先ず無いから、そのせいだ。幾ら管理人と言えど、その手の権力者の近くというのはそれなりに緊張するものさ。追われる立場だった過去があれば、尚更。
「!」
お千代さんが居る場所の近くを通り過ぎ、足を緩めず駆け抜けた先。暗がりの中に、僅かな明かりが見えた。
すぐさま足を止め、そっとした足取りでその明かりの場所を目指していく。徐々に、何者かが歩く足音が耳に届くようになってきた。どうも探している相手ではなさそうだが、それでも、何か別の面倒事が始まりそうな予感がする。
屋根を飛び越え別の家の上へ着地し、ボクは更に光源との差を縮めていった。遠くに見えるのは、お役人様という奴だろうか。それなりの身なりをした人々が、行燈を持った付き人の後ろをついて何処かへ歩いていく。
ボクはそっと屋根の上から顔を覗かせると、見えたのは、恐らく奉行所の人間だ。ボクは記録帖を持ってこなかったことを内心で毒づくと、周囲を見回した後にその場でしゃがみ込んだ。
結局、思った通りの人影は逃したらしい。居たとも限らないが…だが、その中で、有り得そうもない場面に出くわしてしまった。
「誰かがやりやがったな…面倒な…」
僅かに感じる、ひり付いた感覚。それは、管理人のみが感じられる嫌な感覚。この辺りで、記録帖が破られたという証…だが、記録帖を持たぬボクには個人を特定できないから、その感覚を感じながら何も出来ない…誰かが比良から来るのを待つ位だ。
ボクはそっと屋根の上から通りを歩く人を見下ろす。その者達は、確実に良からぬ事をしでかす直前の様。ボクは連中の発する言葉を一つも漏らさぬように聞き入れようと耳をそば立てた。
「…を…すれば…なりますな」
「あぁ……通りだ。……が……だとは」
僅かに距離が遠い。途切れ途切れに聞こえる会話。人の列は、ボクの居る方へと近づいてくる。だからわざわざ出向く必要も無いのだが…それでも、焦れる時間だ。
ボクは焦る気持ちを押さえてジッと待つ。やがて、人の顔が分かるほどに列が近づいてきた。そこで発された言葉…それは、ボクの顔から色を失わせる事になる。
「当代の将軍は腑抜けも良い所だからな。だが、悲しい事に長生きすると決まっておるのだろう?それを知れて丁度よかった。待てぬなら、動くのみよ」
列に居た男の一人が発した言葉。それは明らかに虚空記録帖の事を知ったうえでの発言。ボクはすぐさま懐に手を伸ばすと、そのまま固まった。行くか引くか…間違えた時にどうなるか…金縛りにあった様に固まる刹那。眼下の列は何事も無く通り過ぎていく。
「撃つわけにいかないか…だけど、遠くないうちに、挨拶出来るだろうなぁ…畜生め」




