其の三十二:失態無頼漢
突如として聞こえた轟音。振り向けば、のうのうと煙が立ち込め、炎が見えた。これは洒落になってない…ボクはすぐさま近場の屋根に飛び乗ると、屋根を伝って現場へ走る。あの場所は、公彦が女を追い詰めたであろう場所…何が起きたかは知らないが、公彦がしくじった事は間違いなさそうだ。
「暫く寝る間も無いだろうなぁ」
屋根を伝ってポツリと愚痴を零す。道行く人々は皆違反者…連中を殺して回っても構わないが、埒があかない。一旦無視だ。どうせ後で皆揃って都合良く改変されるのだから…虚空記録帖の力に任せる。
屋根を伝い路を5本越えた先。火災の現場が目に見えた。そこには立ち尽くした公彦がおり、相手の女は何処にも見当たらない。
「八丁堀!何があった!」
怒声を交えた叫びに、公彦が反応を見せる。ボクは屋根から飛び降りて公彦の手を掴むと、周囲の人目を気にせず一気に現場から離れていく。
「何があったって聞いてんの!答えろよ!」
「あの球のせいだ。女が野焼きしてるところに放り込みやがった」
「ほぅ…」
呆然とした様子の公彦。火元から少しでも遠い場所までやって来ると、ボクは辺りを見回し僅かに乱れた呼吸を整える。
「そうか。女には逃げられたな?」
「すまない」
「畜生。荷が重かったか」
「どうする?」
「どうも出来ないよ。ま、八丁堀は先に戻れ。戻ってお千代さんに懺悔してな」
そう言うと、近くに見える出口を指さす。運がいいのか悪いのか、ここは比良と繋がる家の近所だった。ボクが帰るまで、焼けずに残ってくれればいいのだが。
「ボクは残って後始末。お千代さんに伝えてよ。明後日の朝、銭湯で会おうって」
公彦にそう告げたボクは、立ち尽くす公彦を放置して火元へと向かった。今はどっち側かなんて関係ない。火が江戸中に廻れば、それこそ大事。それだけは避けねば…
ここは江戸の北…町家が並ぶ場所にしては最北端辺り。神田の街。辺りを行く人々は、大きく分けて二種類だ。火事装束を着て道具を手に火元へ突っ込む町火消、火元から逃げて来たであろう只の町人…ボクは町火消に混じって火元へ走って行く。
「火事だ火事だ!どけどけどけぃ!」
「水持ってこい!火は小せぇぞ!」
怒声が飛び交う現場付近。火元に近寄ってみると、燃えているのは、神田の街の一番端に建つ町家の庭。火はそれ程広がっておらず、更に運が良い事に、神田川の水が使えるかもしれない。
「旦那!火元は野焼きだ!こりゃ煙たいだけだ!」
「おうよ!煙吸い込むなよ!一気に消すぜ!」
近くにいた火消に火元を伝えると、連中は混乱もせず、手際よく動き始めた。何人かの男達が木桶を持って川へ飛び込み、そこからズラリと人が列を成して並ぶと、川から汲んだ水を陸へ上げ、火元へぶちまける。ボクもその列に加わり消火作業を手伝った。
「家は壊すな!まだ燃えちゃいない!」
「コッチ手伝え!水で消せるぞ。煙たいだけだ怯むな!」
最初の轟音と煙球が出した煙が強烈だったからか、大火と勘違いして気を狂わせ、右往左往する者も中には見受けられたが…いざ来てみれば、大したことのないボヤ騒ぎ。日が暮れるまでには火は消え失せ、未だ僅かに煙を吐き出し続ける煙玉の煙が辺りに漂うだけになった。
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「誰だ!こんな場所で煙玉投げやがったのは!」
「分からねぇ!ただ、女だって話だぜ。近所の奴が喚いてやがる」
「探せ探せ!こんな騒ぎにしておいて、タダで済ましやしねぇ!」
火消しも終わり、お役人様の見分が始まった。ボクは家の前の通りの隅で、その様子をボーっと眺めている。日も暮れ、辺りは暗闇に包まれ出した。
「大変だねぇ…仕事ってのは」
江戸に残ったボク。公彦には後始末といったが、それには、公彦の罪を被ることやこの先を生きる人間の選別という目的もあった。一度に多くの人間が記録を破ったのだ。故意では無いにせよ、裁きが下されるには十分さ。
「さて…ここからが問題だ」
ボクは懐から記録帖の一部を取り出す。それは、今日処理するつもりだった五人の情報が書かれた五枚の紙…折り畳まれ、ボクの汗が滲んだそれを開いて束ねると、ボクは近場の家を尋ねる事にした。
「ごめんくださーい」
騒ぎが冷めやらぬ火元の近所。丁度、家の前の行燈に明かりを灯そうとしていた男に声をかける。
「なんだい?」
「ちょっとだけ。筆、借りられませんか?」
「筆?…あー、待ってな。墨、磨らにゃならねぇが。坊や、一体何の用だい」
「明日、ちょっと寺子屋のあれこれがあって…それを今、思い出しちゃって」
「あぁ。そうかい。ま、待ってな」
「どうも~」
中途半端にボクを見る事が出来る様になってしまった一般人。ボクは男に上手く言い含めると、筆を借りられた。江戸の人間は根掘り葉掘り聞かないし、いい意味でテキトーなのが良い。
男の家の軒先に座ると、ボクは愛想笑いを貼り付けたまま、文字が書かれた記録帖に自分の言葉を上書きしていく。下に墨がいかぬよう…なるべく薄く…それでいて、記録帖が分かる程度の濃さで文字を書き込むと、汚れた記録帖は、書かれていた文字を消し、ボクの文を飲み込んだ。
「ありがとう~」
五枚全てに文字を書き込み、答えが返って来たのを確認すると、ボクは筆を男に返す。そして、記録帖で確認を済ませると、ボクは男に向けていた笑みを僅かに歳不相応なものに変えた。
「これからも、人には親切にしてあげてね?」
ボクの急変に、ポカンと口を開けて首を傾げる男。ボクはそんな男を放っておいて、神田の街に繰り出した。今、記録帖で出したのは違反者させられた者達の素性だ。緊急対応だから善悪の判断はボク自身の感覚になってしまうが…何もせずに国が崩壊する未来を描くよりかは大分マシというモノだろう。
「さて…仕事…の前に、腹を満たしたいなぁ…お金、持ってきてたっけ?…」




