其の二十三:虚空の微笑み
「お主。随分と…腹が減っている様に見えるのだがな。大丈夫か?」
まだ日が高い位置にある時間帯。街道から少し外れた路で、栄は歩いてきた男の姿を見止めて声をかけた。
「あぁ…路に迷ってしまって…ここは何処だろうか?何か食う物はあるのか?」
痩せた中年男。その姿からして何者か…というのが判別できないが、身なりの割には丁寧な所作が、男の素性を雄弁に伝えている。虚空記録帖によれば、男は京の貴族であった。
「あるぞ。この辺は辺鄙だからのぅ。お主の望むものが作れるかは保障できないが」
「構わない。食べられれば何だっていい。…いや、何があるのかだけは聞いておきたいな」
ここは宿場町からも離れた辺鄙な地。人が数日に一度しか通らぬ小さな小路。ワタシと栄が扮しているのは、小さな屋台の主。こんな人気の無い所で若すぎる女二人だけ…普通の人間なら怪しんで当然なのだが、今回の仕事対象であるこの男が相手であれば、十分に騙せる組み合わせだ。この男、貴族の癖に妙に人が良過ぎる。
「そうだね…うどんか蕎麦だ。他には、あぁ、米も残ってるから。少し冷えてるのでイイなら握り飯も出来るぞ。あとは山菜か…大して味付けも出来ないが。これくらいだな」
「そうか。なら、うどんを一杯。握り飯も付けてくれ」
「はいよ、ちょいとお待ち。お千代!聞こえてたな!」
「はいはいっと」
空腹を拗らせた男は、この異様さに気付く気配が微塵も無い。ワタシ達は顔を合わせて意味深な笑みを交わすと、互いに料理を始めた。
栄が米を掬って握り、ワタシは沸かしていた湯に麺を突っ込んで茹でてゆく。手つきは雑で、見る人が見なくても如何にも料理慣れしていない事がバレバレだと思うのだが…男はそんな様子を見て少しも怪しむ気配も無く、ただ苦しそうな表情を浮かべて黙っていた。
「にしても、随分腹を空かせていたな。何かあったのか?」
握り飯を握り終え、それに海苔を巻き…適当な山菜と漬物を添えてを皿に盛り付けて。一通りの仕事を終えた栄が、男にそう尋ねながら料理を出す。男はそれに応える事は無く、握り飯を頬張ると、身振り手振りで何かを伝えようと藻掻いて見せた。
「いいって。落ち着いてからで」
苦笑いを浮かべて栄が言う。その様子を横で見ていたワタシも、男の様子に思わず笑ってしまった。余程男は腹を空かせていたらしい。
「すまない。旅の途中で娘が急病で倒れてな。治せる医者が江戸にしかいないと言うから、医者を呼びに行く最中なんだ。それで、江戸の方へ行く街道を走っていたらこの道を見つけて…近道だと思って入ったんだ」
「なるほどな。確かにこの先を行けば、一つ宿場町を挟むが…すぐに江戸に着くじゃろう。だが、今の時間にここに居ると言う事は、今日中に江戸に着くのは無理じゃな」
「そうなのか…」
握り飯を食べつつ、栄の言葉に落ち込む男。顔色は暗くなっていく一方だが、食べる手つきが衰える事は無かった。
「諦めるんだな。賊も出る。江戸に行くまでにアンタが死んでちゃ意味ないだろ?」
「そうだな…」
男が握り飯を食い終わり、山菜や漬物に手を付け始めた頃。ワタシが作っていたうどんが茹で上がり、丼に盛り付けて男に出した。男はすぐに手を付け始め、麺を啜る音が聞こえてくる。
「美味い。出汁が違う…?」
「特製の出汁さ。作り方は秘密だよ」
「そうか」
うどんを啜る男の手が止まらない。男は何度も美味いと言いながら、うどんを啜り…少々多めに作ったソレは、大した時間もかからぬうちに空になった。
「まぁ、今日はその先を下って…宿が見えたらそこで一泊することだね。して、朝早くに出れば、昼前には江戸に着く。兎に角、出来る事は焦らない事と、娘を信じる事だけさ」
汁を啜る男に、諭す様に告げる栄。男は僅かに頷きつつも、汁を飲み切り、握り飯の皿に残っていた山菜を残らず食い切ると、懐から多めの金を取り出して皿の横に叩きつけるように置いた。
「すまない!これで足りるか?」
置かれた額は、多すぎる程の額。予想外の金額に、ワタシと栄は顔を見合わせた後、小さな笑みを浮かべながら頷いた。
「あぁ、帰り路もこっちを通るなら、寄ればいい。奢ってやれるよ」
「ありがとう。では…」
栄の答えに、男は満足したように頷くと、席を立って再び走り出す。
「…っ!」
走り出して数歩。男は突如胸を押さえ、そして崩れ落ちる様に地に転げた。
「………」
静寂。ワタシと栄は顔を見合わせると、ゆっくりと男の方へ歩いていく。そして、男の傍にしゃがみ込むと、そっと首筋に手を当てた。
「仕事完了だ」
「そうか…」
「余計な違反者を作られたもんだな。まだ残ってた良心とやらが疼いて仕方がネェや」
渋い顔を浮かべてそう言うワタシに、栄は似た様な顔を浮かべて頷くと、そっと男に向けて両手を合わせた。
「この男の娘は、どう改変されたのじゃ?」
「あぁ、明日には死ぬ様に変わったよ。薬が無けりゃ、死を待つのみさ。畜生…」
「これも仕事か…虚空人を殲滅せねば、こういう路も出来てしまうんじゃろうて。面倒な事よ」
栄の言葉に頷きながら、ワタシは屋台の方へ戻っていく。何もこの屋台はワタシ達が用意した物ではない。屋台に戻り、男から見た時死角になる位置に立てかけておいた大太刀を背中に背負うと、屋台の裏の崖下に棄てた虚空人二人の亡骸を見下ろした。
「地図にない街道を作り、そこで商売までやってのける。何処かに集落でもありそうだな」
「あぁ…じゃが、虚空人を相手にするにも、人手が足りぬからのぅ…どうなることやら」
ワタシの言葉に、隣にやってきて並んだ栄が応える。ワタシは崖下に唾を吐き捨てると、肩を竦めて踵を返した。何をするにせよ…一旦、比良に戻らねばならない。
「ま、ここで屋台を開けるんだ。この近くに居るんだろう。近いうち、こっちから挨拶に出向かねぇとな」




