其の百四十五:帳簿の不惑
「あ?螢よ、もう一回言ってくんねぇかな」
「だからさ、別世界ってのがあるんだって」
初瀬さんの問題に一応のケリがついて早数日。終わってしまえば呆気ないもので、俺達管理人はいつも通りの怠惰な日常に戻っていた訳なのだが…
「じゃぁ何だぁ?初瀬さんは別世界の初瀬さんだって言いてぇのか」
「まぁね。確証も無いし、確認しようも無いけれど…」
仕事も来る気配が無く、なんとなく中心街で暇を潰していた時。偶然道端で会った螢と飲み屋で飲む事になった俺は、螢から目を剥く様な話を聞かされる羽目になった。
「ボクの記録帖にこんな文面が出て来てさ。第三軸の世って。これ、そういう意味じゃない?」
与太話も良い所だと思うが…俺は螢が懐から取り出した記録帖を覗き込んで目元を歪める。別世界…それは、この比良の国から繋がる帝都の事でもなく、ましてや誰かの夢の中でもない。第三軸の世…螢の記録帖に記された初見の単語。何の変哲もない最近の世の流れを示した文を読み進めてみれば、その単語は、どうやら俺達の居る世の事を指している様だった。
「じゃ何か?少なくとも、第一軸と第二軸の世ってのがあるってか」
「そうとも取れるよなぁって。幾つまで続くかは知らないけどさ」
「そもそも、なんでそんな書き方になったのよ。なんか弄ったのか?」
「別に。ただ、お千代さん絡みの記録を見てただけなんだけどさ…」
晴天の平日。賑やかな飲み屋。清々しい雰囲気と逆行するかのように、俺達の雰囲気はマジなソレへと変っていく。螢は一度記録帖を机の上から下げると、サラサラと何かを書き始めた。
「興味本位だったんだ。これまでの、現実に居たお千代さんの動向を探ろうとして色々やってたんだけど…ホラ、見てよ」
虚空記録帖に何かを書いた螢。記録帖から答えが返って来たらしく、奴は再び机の上に記録帖を置いた。俺はその中身に目を向け…そして、さっき以上に目元を歪める。
「コイツは…」
それは、一応の解決が図れた問題が再燃しかねないものだと言って良いだろう。螢が見せてきたのは、風来坊と化していた初瀬さんの軌跡。現実と夢の双方で、ブラブラ動いては虚空記録を犯し続けていた初瀬さんの軌跡なのだが…初瀬さんの名前…初瀬八千代という文字の前には、常に第三軸と第四軸という単語が付けられていた。
「二人いるって事か…?」
現実味の無さに、俺は呆然とした声色で呟く。記録を見る限り、初瀬さんは2人居る様だった。俺達が捕えた方は…第四軸…つまり、俺達が知ってるソレとは別人の初瀬さんという事になる。
「そうなのさ。第三軸…つまり、ボク達の知ってるお千代さんは、まだ向こうに居るんだ」
もう一人…螢が言う通り、俺達がよく知る初瀬さんは今、大阪の場末で暮らしている様だった。こっちの初瀬さんは記録を犯す事も無く…まるで虚空人の様に、人目のつかぬところで過ごしている。この間までの騒ぎの時、俺達が見張っていたのは帝都の周辺のみ…そこにしかいないと思っていたから、記録帖に尋ねる時もそこしか出さなかった訳だが…それが裏目に出てしまった様だ。いや、そもそも同一人物がいるなんて…世界が幾つもあるだなんて、思わないから…当然の事だろうと思うのだが…
「……」「……」
薄い酒に、美味い料理。それを楽しみながら眺める虚空記録帖。こんなものを見せられては、美味いものも味を感じなくなるってものだ。俺と螢は何とも言えない表情のまま互いの目を見合うと、どちらからともなく「ハァー」と長い溜息を付くのだった。
「今は考えたくもねぇな」
「でしょ?まぁ…いつか大阪巡りをする羽目になるんだろうけどさ」
「そん時はコッチにいる初瀬さんを連れてってやるか」
「やめてよ、そんな事。更なる面倒の引き金にしかならないよね。きっと」
高まった緊張感をジワジワと解していく俺達。何も、虚空記録帖の異常が起きた訳じゃない。ただ、ただ…俺達が知らないだけなのだ。管理人だっていうのに、虚空記録帖の全容など…知れる日が来るのだろうか?俺は酒を口にしながら、答えの出ない問いを延々と頭の中で反響させていった。
「しっかし、別世界…ねぇ」
「専任の管理人が居そうなものだけど」
「どうだか。その本に聞けば分かるんじゃねぇか?」
「後で聞いてみようか。どうせ無言だろうけどさ」
「都合の悪い事は言わねぇからなぁ…せめて俺達が気にしてる事位は答えろってもんだぜ」
「ねー…何も言わないなら大丈夫って訳にもいかない事があるんだしさ」
「全くだ。余計に気を揉む羽目になるんだ」
徐々に気楽な雰囲気になっていく。酒も回り、俺達は徐々に口数を増やしていくと同時に、少しばかり…いや、結構な毒を吐き捨てるようになっていった。虚空記録帖への愚痴…きっと、聞かれている事だろうが…知ったこっちゃない。その程度で抜け殻にするほど、虚空記録帖というものは薄情ではないのさ。
「ま、そのうち…な」
「そうだね。そのうち…だね」
暫し毒を吐いた後で、俺達は徐々にその話題を隅っこへ追いやっていく。その時がいつになるかは分からないが…まぁ、そのうち動く羽目になるのだろうから、今喚いても仕方がない。俺と螢は全く関係のない話…近頃次々と出てくる機械とやらについての話を始め、あっという間に時が過ぎて行った。
「じきに、空まで飛べるんだろ?さも普通に、下っ端の給金から出せる程度でよ」
「それどころか、月まで行けるさ。せめてそれまでは…抜け殻になりたくないね」
「どれだけ粘ればいいんだか…」
「まぁまぁ、気は衰えてくだろうけど…退屈はしないんじゃないかな」
未来の話は、薔薇色の様でそうじゃない。それはよく分かっているのだが…そんなものは俺達に関係無いのだから、ただ、時を過ごしてその時を待てばいい話。永く暇な日常に戻ってきた俺達は、酒と料理を次々に平らげながら、未来の話に花を咲かせるのだった。
「しっかし、そろそろ替え時かもなぁ…初対面だった女に江戸被れなんて言われてよぉ…ちと、来るものがあるってもんだぜ」
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