其の百二十:心変わりて候
「これで終わりだな」
母娘だったモノを眺めて立ちつくすワタシ。さっきまでワタシの事を見つめて体を震わせていた運が悪くて良かった母娘は今、首と胴体が別れて…片手を捥がれた状態で、無残な姿を暗がりに晒していた。
「初めてだぜ。血の匂いが気持ち悪く感じるのはよぉ…」
寺の離れにある小屋の中に、母娘の血の匂いが充満していく。そこでワタシは初めて血肉が気持ち悪いと感じて顔を顰めてしまった。ただの血肉の匂い…これまでに何度も嗅いできた匂いなのに、何故か今日、この瞬間だけは体がそれを受け付けない。
ワタシは逃げる様に小屋から外へ出ていくと、小屋の前にある石段に腰かけて深い溜息をついた。何故だろうか…ワタシがワタシじゃない気がしてならない中、ワタシは手に持ったままの大太刀に目を向けて、未だに血肉に濡れている刀身をヒュッと拭う。
「……拭えねぇ」
座ったままで刀を振るっても、飛んで行く血肉はほんの僅か。普段は立ったまま、そこそこの力でヒュッと拭って血肉が飛んで行くのだから、この体勢で血肉が拭えないのは当たり前だ。ワタシは乾いた笑い声を上げながら、石段の脇にある芝の上にドン!と刀を突き刺した。
「はぁ……」
溜息ばかりが出て来てしまう。早く外へ出なければ、公彦たちがワタシを探しに来るだろう。だが、ワタシの体は動くことを拒否したまま…ワタシは石段の上に腰かけたまま、無駄な時間を過ごしていく。
人生、なってみなければわからないモノがあるだろう?ワタシは今、正にそれを思い知っているのだ。石段の上に腰かけたまま、スッカリ暗くなった空の下でボーっとしているワタシは、ワタシがワタシじゃなくなる感覚をまざまざと感じながら、何処にも焦点が合っていない瞳を動かして周囲の光景を眺めた。
ここは、浅草の、名も無き寺。ここの住民共は虚空記録帖を犯したから全員始末した。ワタシの仕事は、虚空記録帖を手にして違反者を殺して回る事。おかしい…抜け殻になるにしても、この感覚はおかしいだろう。
ワタシがワタシでは無くなる気がするのに、ワタシはワタシだと認識できるのだ。
意味が分からない?あぁ、ワタシも意味がわからない。だが、それが今のワタシの身に起きている事なのだ。
(何がどうなってる?)
体の感覚に頼るのであれば、ワタシはまだまだ虚空記録帖の管理人。だが、ワタシは…一体何者なのだろうか…?まだ管理人でいられるのだろうか?どういうことだ…?感覚が管理人であるワタシと別の何かであるワタシ…2通りの感覚が全身を駆け巡っている。こんな感覚は、今までに経験したことが無い不気味な感覚だ。
「お千代さ~ん!!」「お~い!まだかぁ~?」「初瀬さーん!!」
石段の上で座り込んでいると、公彦たちの声が聞こえてくるようになった。それ程までに長引いているわけだ。ワタシはその声に反応擦れド、直ぐに立ち上がる事は出来ず、声にも反応出来なかった。
いや、反応出来なかったんじゃない。
反応しようとしなかったのだ。
「…そうか」
そこで初めて、ワタシはワタシの気持ちに気付いて愕然とする。愕然としたが…ワタシはどこか愉快な気持ちになってきた。ガックリきたが、何故か体中は高揚感に包まれてきて、ワタシは段々と体中の力がみなぎって来た様な感覚に浸っていく。
「そうかそうか…」
気持ちに素直になってしまえば、そこから先は簡単だ。
「わかってしまったよ…遂に、ワタシにもキタみたいだな…」
楽し気な声色での独り言。自分に素直になればなるほど、体が軽くなっていく。ワタシは決して管理人で無くなった訳ではないのだ。管理人のまま管理人ではなくなったのだ。あぁ、それを知ってしまえばどうするかは簡単だ。ワタシは軽くなった体をヒョイと持ち上げて立ち上がり、傍にあった大太刀をそのままにして、背中に背負った刀の鞘をその辺に放り投げて、当てもなく公彦たちの声とは逆の方に歩きはじめた。
「体が軽いな。まぁ、それもそうか…刀が無けりゃ、軽い軽い」
軽くなった体。軽くなった気持ち。抜け殻や虚空人ではない何かに成り代わったワタシは、寺の裏門から外に出て、夜の浅草へと姿を溶かしていく。
今の状態をなんと言ったらいいのだろうか。管理人特有の不老不死はそのままに、抜け殻の様に永遠の地獄を味わう訳でもなく虚空人の様に虚空記録帖へ仇名す存在に変わった訳でもない。本当に着の身着のままその場に溶け込む存在に変わったのだ。
何故そんな事がわかるのかだなんて問いただしてはいけない。なにはどうあれそうなったとわかるのだから。どういうワケがあったかは知らないが、どういうカラクリかは知らないが…兎に角、ワタシは時代に溶ける存在と化してしまった。誰にも邪魔されない自由を手に入れたと言っても良いのだろう。
「~♪…~♪」
ワタシは鼻歌混じりに夜の浅草を練り歩く。軽い足取りで浅草の闇に溶けていく。これから一体どこへ行こうか?そんな事は気にしない、考えもしない。ただ、勘のままに足を動かすのみだ。
「江戸もそろそろ終わりだしなぁ…最後のアホ面位、拝みに行っても良いかなぁ」
誰にも存在を気とられず、誰にも邪魔されず…ワタシは一人、愉快な声色でそう呟いて、体の向きを江戸城の方へ向けた。
「飽きるまでは…この世界に付き合ってやっても良いだろうさ。飽きるまではなぁ…」
誰の耳にも届かない、誰からも注目されない独り言を呟きながら、ワタシは江戸城へと足を進める。今から歩けば…日が出る前には城に着くだろう。そうすれば、城の中に入って…時の人の面を拝むのだ。拝んでどうするかは…その時に考えればいい。虚空記録帖を犯さなければ、ワタシは空気そのものなのだから。
「時の風来坊とでも名乗ろう?いやぁ、名乗る相手が居ねぇか…あぁ、どうしてこうも軽いかねぇ?…こんな気分は久しぶり、いや、初めてだ…ははは…アーッハッハハァ!!!」
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