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隣で寝ていたのは

作者: やまおか

 これは後から聞いた話で、娘はあのときのことをあまり覚えていないらしい。 

  

 その日、寝室で寝ていた幼い娘はリビングから聞こえてきた話し声で目を覚ました。 

 何かを怒っているようないらだった声で、怖くなり隣で寝ていた妻の手を握っていたそうだ。

  

 その声の主について聞いてみると、「ママの声だった」と答えた。

 

 

 

 当時のことを思い出すと、家庭内で不穏な空気が流れていた。

 妻は仕事がうまくいっていないと愚痴をこぼすことが増えていた。家の中でのストレスを少しでも減らそうと幼稚園の送り迎えや、時間があれば家の掃除や洗濯、料理をするようにしていた。

 妻の手料理が食卓に並ぶことはほとんどなくなっていた。

 

 幼稚園へ迎えに行くと、中でクレヨンを握ってお絵かきをしていた娘がパッと顔を明るくさせる。

 

 手をつないで一緒に歩いていると、楽しそうに幼稚園でのことを話してくる。しかし、だんだんと家に近づくにつれて口数が減っていった。

 

 具合でも悪いのかと暗い顔をする娘に聞いてみると

 

「最近、ママが叩くの」

 

「まぁちゃんが悪いことしたから?」

 

 娘の教育については妻のほうが厳しく、あまり甘やかさないでとよく言われている。

 

「……わかんない」

 

 泣きそうな顔で首を横に振る娘を見ながら、なるべく大げさにとらえないようにと考えた。

 まだ小さい子でちょっと怒られると、大泣きすることもあったから。

 

 

 家に帰り着替えさせている最中、薄く白い皮膚の上に一箇所赤くなっている部分があった。

 二の腕の柔らかい部分で服に隠れてわかりにくい場所だった。

 

「まぁちゃん、これどうしたの?」

 

「……えっとね」

 

 口を開こうとした娘の顔が急に強張る。首だけを動かして背後に視線を向けると、こちらを見下ろすように妻が立っていた。

 

「ただいま」

 

 そういってニッコリと微笑む妻はいつも通りに見えた。

 

「……今日は早いな。どうしたんだ?」

 

「うん、仕事が早く終わったから。びっくりさせようと幼稚園にいったけど、先越されちゃったね」

 

「そっか、でも、今日はオレの番だから。それなら連絡くれればよかったのに」

 

 なんだか妻の様子がおかしい。怖いというか、嫌な感じがする。そう思うのは娘から聞いたさっきの言葉せいなのかもしれない。

 

 

「ねぇ、まぁちゃん。ママはあなたを叩いてなんかないよね」

 

 

 不意の質問に空気が固まる。

 まさか、帰り道での話を聞いていたのか……?

 

「ママそんなことしてないよね? 傷ついちゃったな。ひどいよ、まぁちゃん」

 

「……ごめんなさい」

 

 そういって視線を床の上に落とす娘の表情は、いたずらや嘘がばれたときのばつの悪そうなものとは違って本当に辛そうだった。

 

 

 夜になり、娘をねかしつけるとリビングにはテレビから流れる音声だけが聞こえている。

 いつもだったら一緒にいたがるのに、テレビの前で一人で座っている。

 

 なんとなく嫌な感じがした。

 ケンカもここずっと1、2年はしたことがなく、家庭環境は落ち着いてきていると思っていた。

 

 そっとリビングから抜け出して寝室に向かう。

 娘はぐっすりと寝ていた。

 起こさないように部屋の明りをつけず、娘の寝顔を眺める。細く柔らかい髪を指先で梳いて頭をなでていると、気分が落ちついてきた。

 

 もしも、万が一、これが虐待だとしたら何か証拠を残したほうがいいのかもしれないとスマホを取り出した。

 スマホの淡い光を頼りに、寝息を立てている娘の服のすそをそっとめくる。

 

「なにしてるの? 起きちゃうよー?」

 

 急に背中から聞こえた声にびくりと肩を震わせる。いつからそこにたっていたのか、リビングからの光を背に立つ妻の顔は良く見えなかった。

 

「本当に叩いてなんかないよ。きっと、あなたに構ってほしくて大げさにいったんじゃないのかな」

 

 そういって、ニッコリと笑う彼女を本当に信じていいかわからなかった。

 

 

 まずは母親に相談することを考えながら、児童相談所の番号を調べたりもした。

 だけど、やっぱり妻を信じたいという気持ちが残っていて、何か確かな証拠がほしかった。

 

 会社からの帰り道、小型のボイスレコーダーを購入した。最近のものは本当に小さくて隠して設置すれば、まず見つかりそうもないものだった。

 

 

 なんとなく不安を残したまま、カレンダーの日付は正月となった。

 

 近所の神社へと三人で初詣に向かっていた。祀っている神様については詳しくはしらないが、とりあえず近場ですませればいいかと、ここにしていた。

 娘にとって初めての初詣だ。普段の娘だったらもっとはしゃいだ声であれこれと聞いてくるはずだった。

 娘は時折ちらりと隣を歩く妻に視線を向けて、口をきゅっと引き結んで何もしゃべろうとしない。

 

 

 途中で、妻が忘れ物があるといって先に行っててと言われた。

 来た道を戻っていく妻の姿が遠ざかっていくと、さっきまで強張っていた顔から緊張がぬけていく。

 

「まぁちゃん、ママのことは好き?」

 

「……うん、やさしいママは好き。おいしいごはんをつくってくれて、頭をなでてくれるの。でも、怖いママはキライ」

 

 娘の中で『優しいママ』と『怖いママ』が分離しているようだった。幼い子供ながら、その二つをまったくの別人と考えることで現状に対応しようとしているのかもしれない。

 

 境内には人の気配がなかった。

 混雑する元旦をずらしてきたが誰もいないというのを不思議に感じながら、たまにはそんな偶然もあるのだろうと本殿に向かう。

 

 正月用に飾り付けられた賽銭箱の前に、一本の縄が垂れていた。

 

 妻がまだきていないようだったけど、混む前に済ませてしまおうことにした。お参りの手順を教え、縄を引きやすいようにと小さな身体を抱き上げる。

 

「ねえ、お願いってどんなことを神様に言えばいいの?」

 

「まぁちゃんが、今年はどんな年になればいいかって神様にお願いすればいいんだよ」

 

 小さい手で一生懸命に縄を引いて鈴を鳴らし、二人で一緒にお祈りをした。

 

「神様お願いします。まぁちゃんはいい子にするので、優しいママが帰ってきてください」

 

 神社でのお祈りは黙ってするものだと教えようかとしたが、目をつぶりながら一生懸命に両手を合わせる娘にうまく声をかけられなかった。

 

 合わせた手を解いてお祈りを終えると、境内の入口に人影を見つけた。

 

「ごめんなさい、遅くなっちゃった」

 

 さっき見たばかりの妻のはずなのに、その姿になにか違和感を覚えた。

 

「どうしたの?」

 

「……なんでもないよ」

 

 首をかしげる彼女を前に誤魔化すように笑って見せた。

 

 帰り道、まだ距離をとろうとする娘に妻が笑顔で手を差し出した。一度こちらをちらりと見てから、娘はおずおすと手を取った。

 

「帰ったらあったかいお汁粉食べようね。まぁちゃん、おもちはいくつ食べる?」

 

「……2つ」

 

「2つかぁ、じゃあ、ママは3つたべちゃお~。パパはいくつにする? 4つにしちゃう?」

 

「ずるい! まぁちゃんも3つ食べる!」

 

「うん、わかった。お汁粉はまぁちゃんの大好物だからね。でも、ちゃんと噛んでたべるのよ、でないと喉をつまらせちゃうからね」

 

 娘を間に挟んで3人で歩いていると、だんだんと娘の顔に楽しそうな笑みが広がっていった。

 それは、まるでさっきの娘の願い事がかなったようだった。

 

 家に帰ると、緊張が抜けたのか娘が眠いと目を擦っていた。

 

「じゃあ、起きたらお汁粉にしよっか」

 

 眠そうに頭をふらふらさせる娘の手をひいて寝室に入っていく妻の背中を見送った。その姿はとても仲の良い親子そのもので、この前までのことなんて嘘のようだった。

 

 ゆったりと流れる正月気分がようやくやってきたようだった。

 もう、これはいらないだろう。

 隠しておいていたボイスレコーダーを取り出す。


 なんとなく中身を再生させていくと、日常の音が流れ出す。その中には自分の声を含めた3人の声が聞こえてくる。


 そして、つい10分前にたどりつき再生時間は残りわずかになる。

 玄関の開く音と一緒に聞こえてくる3人分の足音。

 「眠い」という娘の声と妻の声。

 そのあとあくびをする自分の声がきこえ苦笑する。


 だけど、その後、さらに玄関を乱暴に開ける音が入ってきた。その足音は怒っているようでどたどたと荒々しい音だった。


 身を固くしながらレコーダーから聞こえてくる音に耳をかたむけていると、そこから聞こえていたのは妻の声だった

 「置いていかれた」とぶつぶつとつぶやく声が聞こえる。


 足音は移動して遠ざかっていく。


 それっきり再生が終了した。

 すっかりさっきまでの気分は吹き飛び、部屋のあちこちに視線をむけるが何も見つからない。


 寝室に向かう。

 娘は大丈夫なのかという焦りのまま勢い良く扉を開いた。

 

「どうしたの? びっくりした」

 

 上半身だけをおこしてこちらを向いているのは確かに妻の顔だった。

 その隣には母親の手をぎゅっとにぎり、安心したように静かな寝息を立てている娘がいる。

 

 ひんやりと廊下の冷たい空気が首筋をなでる。

 ゆっくりと、後ろを振り向いても誰もいない。

 

 玄関に向かう。

 鍵は掛かったままだった。

 

「……なんなんだ」

 

 乾いた笑いが漏れるだけで、何も起きることはなかった。


 

 正月も終わり、ひさしぶりの会社にうんざりしながらも幼稚園に向かう道を娘と一緒に歩いていた。

 

「今日のおむかえはママだよね。早く幼稚園おわらないかなー」

 

 前のように妻に甘えるようになり、すっかり娘は元気になっていた。


 だけど、妻へ感じる違和感はいまだに消えることはなかった。

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 久しぶりに小説を読んでぞっとしました。 優しいママになってそのままハッピーエンド、かと思いきやまさかの展開で、焦りと不安でもうドキドキでした。 冒頭のシーンは違和感はあったのですが、ど…
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