面白いと言う言葉と別集団
最近エッセイに増えた面白いと言う言葉への言及。コレを私創作論の初期に書いてる。結果全く受けなかった。理由はさっぱり分からない。どうしてそういった差が出来るのか分からない。多くの人は私が感想欄を閉じてる点を指摘するだろう。批判や否定は簡単に出来る。間違っていても良いからだ。
でも本人には正しさだけが得るものになる。どれだけ批判や否定が下らないか?これで分かると思う。これを端的に扱った童話が「ろばを売りに行く親子」である。多くの人は知識として知っててもそれを経験として吸収できない。私は知性と言うのは平均思考とランク上の思考に分けられると思ってる。
平均思考はとても大切だと思うし、常識もこの1つだと思う。だが多くの人はそれと同時に人より抜きん出た知性が欲しいと思ってしまう。そして大半の人間はこれを同時に行おうとしてしまうんだ。何故か?が平均人間を大衆と使わせてもらうが、大衆は頭ごなしに人の話しを聞かない=馬鹿、頑固者として扱うようになってしまってる。
人の話を聞くというのは平均以下の人間を平均に引き上げる効果を持つ。最初から馬鹿物に常識を教えるための教訓に過ぎない。闇雲に人の話を受け入れてはいけないんだ。それが「ろばを売りに行く親子」の教訓になる。平均ランク上の思考をするには、人の話をなるべく無視して自分勝手に思考したほうが良い。だが例外的にフィルターを掛けるのなら人の話を聞いても良い。
そのフィルター機能がまともじゃないから私は感想欄を閉じてるんだ。馬鹿の批判や否定をフィルター無しに聞くのは無駄が多い。はっきりいって大半のなろう批判がゴミなのはこれが原因だ。じゃどうやってフィルターを機能させるのか?分からん、そんな知恵があったら運営がとっくにやってるだろう。それが難しいからうっとしい馬鹿とつきあって知恵を貰おうと謙虚に振舞ってるのが多いんだ。無駄だとは思うがね…。
戻るが何故私の初期の言及が受けなかったか?は分からない。だがコレに伴って受けるとは何か?で多数派に受けるとランキングは上に来る。当たり前だろう。数が大事だから。そして気がつくのだが、ランキングの上に来る言及は基本つまらない。何故か?それは平均人間が理解できる言及こそが良い文章力になるからになる。
理解できないと書く方が悪いとしてしまうんだ。ただの頑固者の馬鹿な意見か?私はそうは思わない。その根拠として度々私の言及は理解出来ない酷い文章だからと結論付けられる。だが段々その嘘が分かってくる。違っていた、実際は読者が理解しようとし無い怠惰にあると分かってきた。多数派が求める文章力ってのが、自分が理解できるレベルの低い言葉で固められた安直な言語に過ぎない。
本当の真実は分からないが、私が受けずに今受けてるのは多数派が理解しやすいどうでも良い言及でも、理解できる文章力の違いで差がついてる可能性と見ている。じゃ私はなろう小説批判者か?と言うと違う。創作論は予測性という大衆の求めとは別の正しさがある。創作そのものはそんな正しさとは別である。
エッセイのランキングとなろうファンタジーのランキングを同一視する人が多いが、私は違うと思っている。絶対に曲げられないただしさが予測にはある。外れる言及は間違ってて価値が無いんだ。どれだけ受け手もである。競馬で言えば皆が納得できる予想には何の価値も無いのと同じだ。結果儲からないといけない。
競馬において実は妥当性だけなら一番人気が一番確率が高い。だが儲からないんだ。この儲かる思考こそが、ランク上の思考になる。この思考をする人はどんなジャンルでも例外なく闇雲に人の話を真剣には聞いてないんだ。平均思考に価値が無いわけじゃない。それは競馬の一番人気がまさに平均思考そのものだから。
人類の知性の大半は真似にあるらしい。人間の賢さの9割は多分文化だろう。個人差の知性の差なんてあまり価値が無い。人間は模倣による集団の英知が他の動物を圧倒し、他の人類集団を圧倒する。だがそれは集団外と集団外の対決と、集団内の平均レベル以下の人間のためであり、集団内で抜きん出た知性を発揮するには雑多な多数の人の話を聞いちゃ駄目なんだ。
こんな話聞いたことが無いと驚くだろう。何故か?集団内で教えられる社会常識は平均思考のレベルを維持するためにするものだからだ。それは何度も有意義で無価値ではないと書いた。だがこの先を教えてくれる人は中々居ないんだ。
前置きが長くなったが実はこれ関係してるからだ。面白いは広義と狭義に分ければすっきりする。広義の面白いはシンプルに快であるに尽きる。これ以上言及できない。多くのランキングの上に来る人はこれを一義的に別の言語で置き換えようとするが、それが受ける。見事に受ける。
何故か?大衆は分かりやすい言及を間違っていても取り入れるからだ。広義の裏は相対主義になる。面白さは人それぞれ。なんだ当たり前の話しじゃないか?実はそうじゃない。モヤモヤするはずだ。そうだ面白いと言う一義的な意味はちゃんとあるんだ。面白いと言うのは、一義的狭義では、ユニークが一番これに当てはまり、これに伴って感情は期待と同時の驚きである事が多い。
おっと驚きは他の人が数多く上げてるじゃないか?そうこれはランキングの上に行きやすい。だが同時にもやもやする。なろうファンタジーにそれはあるか?疑問が生じる。そこでランク上の思考に絡むんだ。狭義の面白いを使う人間は、マニア的で大衆的平均の広義の面白さと違うんだ。
広義の面白さは必ずしも驚きや意外性を必要とし無い。シンプルで個人差の相対的な快があるだけだ。それ以上別の言葉に狭くする事は出来ない。出来たら広義って単語に意味がなくなってしまう。
何故私が初期に面白いを取り上げたか?同じ言葉を使ってても全く接点が無い面白いに議論や対話の価値なんて0だからだ。真っ先にこれが問題だと看過したからになる。先見の明だと自負している。