死神と母親
「可愛いでちゅね~、おいで~」
目の前でだらしなく頬を緩ませて赤ちゃん言葉で僕を呼びかけた。右手には継ぎ接ぎだらけの布色や柄がバラバラの手のひらサイズの小さな熊のぬいぐるみを持った女性、もとい僕の母親
「あー」
僕は四つん這いになって近づいた。赤ん坊なので足の筋力がなく、自身の頭を支えきれないので立てない。
すると母さんは辛抱たまらんと言う顔で僕を抱きかかえた。
「可愛い!さすが私の子だわ!」
母さんはクルクル回った。僕も目が回る、視界が高速に回っていて、段々記憶が薄れてきた。
なぜこんな事になったのだろう。僕は産まれる2週間前の事を思い出す。
目を覚ますと暗い部屋にいた。「暗い」というよりは「黒い」の方が正しいと思った。だが、暗く黒い所にしては僕の姿がハッキリ見える。
「ここ、はどこ、だ」
まず、そんな言葉を口にした。ズキズキと痛み、破裂しそうで、意識が朦朧としている頭で、ここはどこか考えた。
確かそんな時だったのを覚えている、僕の目の前に「死神」と名乗る老人が現れたのは。
「お前さんのせいでまた面倒事が増えた」
ため息を吐いて僕に問いかけた、いや、あれは今思えばただの独り言に近い愚痴に過ぎなかった。
人の声に驚いた僕は鉛のように重い体を腕で支えながら立ち上がった。
「起きたか…では早速生き返るがよい」
老人は初対面であるにも関わらず僕に命令を下した。
そもそも誰だ、知り合いなのか、知り合いじゃない、こんな髪のバカ長い知り合いなんていない。
老人は僕の眉間に軽く人差し指を置いて、一方的に喋った。
「いいか、ワシはお前を生き返らせてやる、本当はあのヒョロイ男が死ぬはずだったが、お前が邪魔をした。
本来お前は死ぬはずはない男だ、つまりお前が生き返るのはワシの詫びの印じゃ。
じゃが、お前が産まれ変わる世界は違う場所じゃ、死んだ人間が生き返るなんて恐ろしいじゃろ?有り難く思え」
後半はほとんど聞いていなかったけど、やけに腹立つ喋り方だけは覚えていた。そして、老人は僕にある条件をつきつけた。
「お前の生き返った世界で人を殺せ」
その言葉で朦朧としていた頭がゆっくり動き始めた。
「僕に、人殺し、しろ…と?」
「ああそうだ人殺しをしろ」
老人は僕の眉間を人差し指で押した。
足に力が入ってなかった僕は後ろ向きに倒れた。
すると、黒いもやのような、霧のような物が僕の体をゆっくり浸食していった。
強引で、一方的で、自己中心的な老人に僕は嫌悪感を抱いた。
顔まで黒い霧が覆う時だった。老人が何かを思い出したかのような顔になったが、すぐさま真顔に戻った。
「そういえば自己紹介がまだだったな
ワシは死神、死の神じゃ、あとお前が人を殺すまでの期間は20年としよう、もし過ぎたらお前には残酷な死に方をしてもらう。
人を殺すのは1人で構わない、頼むぞ**」
**?僕の名前だ……あれ?僕って**って名前だっけ?僕の名前、僕の
そこで意識が途絶えた。人間は誰もが初めて貰うプレゼントが「名前」だ、そんな大切なプレゼントを忘れるなんて。
黒い霧が僕を完全に浸食した。
「真也ちゃーん、ご飯にしましょうねー」
そして僕は、この緩んだ頬で服をはだけさせ、豊満な胸を露わにする女性、もとい僕の母親から産まれ変わった。
最初は女性の胸を見るのを躊躇したものの、今はもう慣れた。慣れとは怖いものだ。
僕は一生懸命乳房を吸い付き、食事にありつく。甘いようなしょっぱいような味わいはクセになる。
母さんはそんな僕を愛しい者を見る目になった。母親とは子を愛するのだ。
だが、愛する子を産まれるには、異性がいなければならない、つまり僕の父親、僕が産まれた時から父親はいなかった。
そんな家庭もある、僕はさほど気にしない。
「真也ちゃんおねむなの?ふふ、じゃあベッドでお寝んねしましょうね」
ベッドと言っても、薄い布を何枚も重ねた物だ……。
だけど、赤ん坊の僕にはピッタリのサイズで羽毛のような柔らかさである。
ぬいぐるみといい、ベッドといい、気づいてはいたけど我が家は貧乏なのだ。
「じゃあお母さんと一緒に寝ましょうね」「あー」
人差し指を僕の指に絡めた。反射的に握ってしまう。これはどの赤ちゃんにもあるのだろうか。
僕は20年間の間、人を1人殺さねばならない、殺せるのか?それとも殺さずに20年たって自分で死ぬのか?
いや、その時がきたら考えればいい。
僕は考えるのを止めて、母さんの人差し指を握りしめて微睡んだ。