第九話 男爵夫人の怒りをカオルがおさめた理由
平良薫ことカオル・タイラはエレノアの日記を読み進めていた。
トニア男爵夫人の隣には私と同い年ぐらいの女の子がいて、男爵夫人の向かいには女性の学園職員がいた。
男爵夫人は学園職員に向けて怒鳴り散らしている。
学園職員は私が顔の見覚えのある人で、この第四女子寮の職員だ。
男爵夫人に何やら責められて、かなり困り顔になっている。
男爵夫人も対応している職員さんも帝国語で話しているようなので、何を話しているのか私には分からなかった。
「何か揉めているみたいだけど、何なのかしら?」
ユリアが答えてくれた。
「要約して言えば、男爵夫人は自分の娘に割り当てられたこの階の部屋が、お気に召さないようだ」
私のトニア男爵夫人に対する印象は、カオルさんのことから実際に会う前から悪かったが、今はもっと悪くなった。
この第四女子寮は十階建で、地上十階、地下一階になっている。
二階から十階までが生徒の居室、一階が食堂と職員寮だ。
生徒の居室は、どれも広さは同じで、部屋の造りも同じだ。
部屋の違いと言えば、窓から見える景色ぐらいだ。
いったい、何が気に入らないと言うのだろうか?
それについて尋ねようと、ユリアとカオルさんの方に向くと、ユリアはかがんでカオルさんから耳打ちされていた。
私もユリアも女性としては背が高い方なので、廊下に立ったままで小柄なカオルさんから耳打ちされると、ユリアはかがむことになる。
(ああ、私もあんな風にカオルさんに耳打ちされたい。耳でカオルさんの吐息を感じたい)
と、思ったが、大切な話をしているようなので邪魔はしなかった。
「なるほど、たぶんカオルくんの言う通りなのだろうね。それなら、カオルくんの言う方法で解決できるだろう」
ユリアは男爵夫人に近づいた。
帝国語で話をしているので、私には何を話しているのか分からなかったが、男爵夫人も職員さんも納得した顔になっていた。
話が終わったらしく、男爵夫人たちはエレベーターの方に歩いて行った。
下の階に行くらしい。
「何が、どうなったの?」
戻って来たユリアに、私は尋ねた。
「つまりね。男爵夫人はこの最上階の十階に自分の娘の部屋があることが気に入らなかったんだ。『こんな最低の使用人が住むような最上階の部屋に、ウチの娘を押し込めるなんて!』と、怒鳴っていたよ」
「どういうことなの?最上階で眺めが良い部屋に文句を言うなんて……、あっ!?男爵夫人の娘が高所恐怖症なの?」
ユリアは笑いながら、首を横に振った。
「そうじゃないよ。連邦首都のジョージシティにあるエレノアの実家のお屋敷は、確か三階建だったよね?」
「ええ、そうよ」
「ユリアの部屋は最上階の三階にあったよね?」
「そうよ。十階にあるここの部屋ほどではないけど、屋敷は小高い丘の上に建っているから眺めは良いわよ」
「じゃあ、住み込みで働いている使用人の部屋は何階だい?」
「一階よ」
「そう、それだよ」
ユリアは人差し指を立てると話を続けた。
「帝国の貴族の館では家族の部屋は一階にあって、使用人の部屋は二階から上にあるんだよ」
「えっ!?どういうことなの?」
私は少し驚いた。
なぜなら、ジョージシティではどの屋敷も、一階が使用人の部屋で二階から上が家族の部屋だからだ。
理由は、上の階の方が眺めが良いからだ。
ジョージシティで最近多く建てられている鉄筋コンクリートの十階建ぐらいの高級マンションは、どこも上の階ほど高級な部屋になっていて家賃は高くなっている。
その事をユリアに言うと、私の疑問に答えてくれた。
「ジョージシティでは、ユリアの実家もそうだけど、たいてい高い建物にはエレベーターが付いているだろ?」
「ええ」
「でも、インペラトールポリスでは高い建物にもエレベーターは付いていないんだ」
「聞いたことあるわ。帝国では機械仕掛けを嫌う人が多いからだそうね。あっ!そういうことなのね」
私は分かった。
「帝国ではエレベーターは無いから、階段の上り下りが大変なのね。ジョージシティとは逆に下の階が『良い部屋』になるわけね」
ユリアはうなづいて、私の言葉を補った。
「それに帝国では揚水ポンブも無いから、水を上の階に運ぶのが大変なんだ。帝都にも十階建ぐらいの集合住宅があるけど、上の階に住むほど家賃が安くなる。下の階に住んでいる人ほど、収入が多いということになるのさ」
「なるほどね。男爵夫人が怒っていたのは、自分の娘が上の階の『悪い部屋』に割り当てられたからなのね」
「そうだよ。だからボクは職員さんに下の階に空き部屋がないか聞いたんだ。幸いにも二階に空き部屋があった。男爵夫人は二階の部屋に移るのをあっさり納得してくれたよ」
私は少し悪戯っぽい笑顔をユリアに向けた。
「でも、その事に気づいたのユリアじゃないでしょ?」
ユリアは苦笑した。
「もちろん。カオルくんから教えてもらったんだ」
「ユリアは、カオルさんから耳打ちされていたでしょ?うらやましいわね」
私はかがむと、右耳をカオルさんに向けた。
「カオルさん。私にも耳打ちをしてちょうだい」
「あ、あの、何を言えば?」
カオルさんは戸惑っているようだった。
「何でも良いわ。カオルさんの吐息を感じたいだけだから」
カオルは日記を読むのを一旦止めると、エレノアに目を向けた。
「あのー、エレノアさん。耳でわたしの吐息を感じたいと言われた時には、さすがに……」
「私が変態みたいだって、言いたいんでしょ?」
カオルは口籠もったが、エレノアはあっさりと答えた。
「分かってるわよ。私の『可愛い』って感情は暴走気味なのは、気持ち悪かった?カオルさんは私のこと嫌いになっちゃった?」
カオルは首を横に振った。
「嫌いになんかなれません」
エレノアはホッとした顔になった。
「カオルさん。日記の続きを読んでちょうだい。私の本心が書いてあるから」
カオルは日記に目を戻した。
私とユリア、カオルさんの三人は私の部屋に戻った。
私は本棚から一冊の本を取り出した。
本の題名は「東方諸島国見聞録」。著者は大賢者さまだ。
「これが大賢者さまが書かれたカオルさんの国について書かれた本よ。いくつかカオルさんに質問したいことがあるのだけど?」
「はい、良いですよ」
「東方諸島国には椅子はほとんど無くて、『タタミ』というカーペットを床に敷いて、それに座るというのは本当なの?」
「はい、本当です。でもタタミを床に敷けるのは比較的裕福な家で、ほとんどの家では板の間です」
「食べ物についての質問なのだけど、魚を切り身にして、火に通さずに生のまま食べる『サシミ』って料理があるのは本当なの?ちょっと信じられないのだけど……」
「はい。本当です」
「いやっ!気持ち悪い!」
私は思わず声を出していた。
「でも、サシミは贅沢な食べ物なんですよ」
「どういうことなの?」
「海に近い所なら新鮮な魚が手に入りますから、サシミが食べられるのですけど、海から離れると塩漬けか干物の魚しか手に入らないんです。山国の領主はわざわざ『低温』の魔法を使って海から魚を運ばせているぐらいです」
それを聞いて、私は考えた。
大陸の一般的な野菜料理に「サラダ」がある。
生の野菜を皿に盛り合わせて、塩やドレッシングをかけた物だ。
昔は生の野菜は、農村地帯はともかく都市部ではほとんど食べられなかった。
運ぶのに時間が掛かり、どうしても悪くなってしまうからだ。
だから、昔は都市部で食べられる野菜は、塩漬けか乾燥させた物だったと聞いている。
魔法帝国の貴族階級は「低温」の魔法を使って、新鮮な野菜を運ばせていたそうだけど。
そう考えるなら魚を生で食べるのも、それほど奇妙な事ではない。
「ごめんなさいね。カオルさん。サシミのことを気持ち悪いなんて言っちゃって。異なる文化に対する理解が足りなかったわ」
カオルさんは優しい笑顔で答えてくれた。
「いいえ、わたしの師匠も最初はサシミを気味悪いと思っていましたから、でも今では、サシミをおつまみにしてお米から作られたわたしの国のお酒を飲むのが、毎晩の楽しみになっています」
私の過ちを笑顔で許してくれるなんて、何てカオルさんは心が広いんだろう。
私は、ますますカオルさんが好きになった。
「あれっ!?カオルくん。質問いいかな?」
「何でしょうか?ユリアさん」
「ボクはカオルくんの話の中に時々出て来る『カオルくんの師匠』を東方諸島国の人かと思っていたんだけど、最初はサシミを気味悪く思っていたということは、カオルくんの国の人じゃないのかな?」
「はい、この大陸の出身で、数年ほど前から東方諸島国に住んでいます」
「ひっとして、カオルくんの師匠というのは……」
ユリアが話を続けようとしたところで、ノックの音がした。
ドアの外から女性の声がしたが、帝国語らしくて私には分からなかった。
「エレノア。トニアさんが訪ねて来た。部屋に入れても良いかい?」
「男爵夫人が、この部屋に何の用なの?」
「違うよ。違うよ」
ユリアは軽く右手を振った。
「来たのは。母親じゃなくて、ご令嬢の方だよ。名前はアン。アン・トニアさんだ」
「そのアンさんが、私の部屋に何の用なの?」
私の声も態度も少し不機嫌な感じになった。
「エレノアが男爵夫人に悪印象を持つのは分かるけど、その娘のアン・トニアさんはカオルくんに何もしてないよ」
「分かったわ。入ってもらって」
ユリアがドアを内側から開けた。
中に入って来たのは小柄な女の子だった。
廊下では男爵夫人の印象が強かったので、ほとんど覚えていなかったが、確かに男爵夫人の隣にいた女の子だった。
アンさんは部屋に入ると、口を開いて何か喋ったが、私には分からなかった。
「アンさん。エレノアは帝国語が分からないんだ。大陸中央語で話してくれないか?」
ユリアの頼みにアンさんは戸惑った顔になった。
ユリアは大陸中央語で頼んだが、アンさんにも理解できているはずだ。
なぜなら、大陸中央学園の入学資格の一つが「大陸中央語を日常会話に支障が無い程度に話せること」だからだ。
「あっ、あの、アダジはアン・トニアと言いマズ」
アンさんの口から出たのは酷い訛りの大陸中央語だった。
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