第三十三話 アンに嬉しいことがあった理由
平良薫ことカオル・タイラは、日記を書いていた手を止めた。
「あの防護盾が攻撃魔法に耐えられない粗悪品である事に、僕は気がつかなかった。ユリアさんも気づかずに火の球を盾に向かって放った。その結果はサリオンさんがユリアさんが放った火の球をまともに食らって、サリオンさんが大怪我だ」
カオルは今日の出来事を思い出しながら、独り言をつぶやいていた。
「取り敢えず。僕はその場では、応急措置の治癒魔法の『止血』をしてユリアさんたちと一緒に病院に行ったら、高度な治癒魔法を使える魔導医師がいなくて、僕がサリオンさんに治癒魔法を使う羽目になるし……」
カオルは考え込んだ表情になった。
「今になって、あの魔法の授業の事を思い出してみると、サリオンさんは火の球を放つ寸前で止めていたな。あの防護盾が粗悪品なことをギリギリで気づいたのか……。彼はユリアさんを傷つけたくなかったんだな。ユリアさんはその事に気づいていないみたいだけど」
カオルは目を閉じて考え込んだ。
「あの防護盾を運んで来た学園職員……、あの人がサリオンさんと帝国で敵対している勢力の手下だったのだろうが……、防護盾を粗悪品とすり替えて、いきなり『事故死』を決行されるとは、帝国の後継者争いはなかなか過激なんだな」
座っている椅子から立ち上がると、壁に貼ってある授業の時間割りをカオルは見た。
「まあ、今回の事は大きな騒ぎにならないように、サリオンさんは裏から手を回すようだけど……、あっ!あーっ!」
時間割りを見ていたカオルは思わず叫んだ。
「明日の授業には『美術』があるのか、とうとうこの日が来てしまったのか……」
次の日の夕方、第四女子寮前の鉄道馬車の停留所から、カオル、エレノア、ユリア、アンの四人が今日も仲良く寮に帰って来た。
カオルは少し気落ちしているようで、それを他の三人が励ましている。
四人は寮の中に入ると、それぞれの自室に向かった。
アン・トニアは自室に入ると、机に向かって日記を書き始めた。
今日は嬉しい事が一つあった。
あたしの友達のカオルさんに苦手な事があるのが分かったのだ。
もちろん、人に苦手な事があるのを喜ぶのは良くない事だと分かっている。
でも、カオルさんは何もかも完璧に見えて、あたしは少し近寄りがさたを感じていた。
彼女は勉強は間違いなく学園トップクラスだろうし、あたしにも色々と個人的に親切にしてくれている。
彼女は凄い人だし、あたしに親切にしてくれているのは感謝しているけれども、彼女の側に友達としていると「引け目」のようなものを感じる。
「あたしみたいな学園の入学試験では合格ラインにギリギリで、男爵家の娘だというだけの者が、カオルさんのような凄い人の友達でいて良いのだろうか?」
もちろん。この気持ちはカオルさんには知られないようにしている。
エレノアさんとユリアさんのお二人にもだ。
お二人とも平凡な私から見ると凄い人たちだから、あたしのこの気持ちについて相談はできない。
でも、カオルさんたち以外で、あたしの本心を吐露できるほどの親しい友達は学園にはいないから、この気持ちは一人で抱えているしかなかった。
このモヤモヤとした気持ちが解消されたのは、今日の「美術」の授業でだ。
授業は美術室で行われた。
部屋の中央にある台に、リンゴやバナナ、ブドウなどの果物が置かれていて、その周りで生徒たちがそれをスケッチするのだ。
昨日、あれだけの大怪我をしていたのに、それをまったく感じさせずに元気一杯のサリオンさんが
「果物なんかじゃなくて、女のヌードを描かせろ!」
と言って、みんなを笑わせていた。
相変わらずエレノアさんとユリアさんは、サリオンさんを嫌っているようだけど、今朝教室で会った時にはさすがに心配そうにしていた。
サリオンさんが
「俺を心配してくれていたのか、やはり俺は二人と固い絆で結ばれているんだな!」
と言うと、お二人は氷のような冷たい目でサリオンさんを見た。
それに対してサリオンさんが
「おお!幼なじみの美少女二人から冷たい眼差しを向けられるとは!俺はゾクゾクと感じているぞ!俺の心に新たな扉が開いてしまいそうだぜ!」
と言って、やっぱりクラスのみんなを笑わせた。
最初にサリオンさんに会った時には何だか怖く感じたけれど、今はそうでもない。
皇太子候補で、次の皇帝になるかもしれない人に失礼だけど、舞台の上の喜劇俳優のように感じられる時がある。
美術の時間に話を戻そう。
「ほう、きみの描く絵は、対象物の特徴をよく捉えているね」
美術の先生が、あたしがスケッチブックに鉛筆で描いた絵を見て言った。
「特にこのリンゴの描き方は良い。リンゴが『球体』であることが分かる描き方をしている。平面の『丸い円』ではなく、立体的に描かれているね。絵を描く勉強を本格的にした事があるのかい?」
「いいえ、趣味でやっているだけです」
「それでこれだけ描けるとは凄いね」
そう言い残すと、先生は他の生徒の方に歩いて行った。
先生に誉められたのは嬉しかった。
「絵を描く事」は、あたしが数少ない少しは自信を持っている事の一つだ。
本格的に絵の勉強をしようと思った事もあったが、両親に「絵を描く画家は卑しい職人の仕事だ。男爵家の娘がすべき事ではない」と言われて、止められてしまった。
確かに昔の画家は、貴族やお金持ちから肖像画や宗教画の依頼を受けて報酬を貰う「職人」だった。
しかし、今では「芸術家」として社会的な尊敬を受けている画家もいる。
その中には貴族出身者もいるのに、あたしの両親の価値観は帝国の貴族社会の中でも少し古いのだろう。
でも、両親に本格的に絵を描く事を止められて、残念に思っている自分と同時に、少しホッとしている自分もいる。
なぜなら、本格的に絵の勉強をして、「自分の絵の才能がたいしたことない」と分かるかもしれないのが怖かったのだ。
趣味で絵を描いているのならば、「少し上手」ぐらいでも人に自慢できるけれども、本格的に絵を描くとしたら画家を目指している人たちと競争しなければならなくなる。
そうすれば、あたしの描いた絵は、「たいしたことない」と評価されてしまうかもしれない。
それが怖いのだ。
少しでも自分を変えようと、この学園に入学したのに、そんな考えでいる自分が嫌になる。
あたしの両隣にいるユリアさんとエレノアさんの描いている絵を横目で見た。
お二人とも素人としては上手だけど、あたしほどではない。
私は、ほんの少しの優越感に浸った。
他の分野ではお二人にまったく適わないのは分かっているから、みみっちい優越感が自分で嫌になる。
続けて、カオルさんの方を見た。
カオルさんなら、きっと素晴らしい絵を描くのだろう。
今日の音楽の授業の彼女は素晴らしかった。
先生のピアノの伴奏に合わせて、クラスメートから歌に自信のある数人が歌声を披露したのだ。
彼女の歌声は素晴らしかった。
訛りが無く、流暢に帝国語・連邦語・大陸中央語が話せるのは分かっていたが、歌声として聞くとさらに凄かった。
彼女が歌ったのは大陸では誰もが知っている童謡だったが、歌詞を帝国語・連邦語・大陸中央語に何度も切り替えたのだ。
どの言葉で歌っても、その歌声は素晴らしく、まるでプロの歌手のようだった。
それをカオルさんに言うと
「わたしは旅芸人だったんですよ。歌が下手だったりしたら、今日のご飯が食べられませんでしたから、必死になって上手くなるように練習したんですよ」
と笑って言った。
彼女は五歳で、ご両親を亡くし、自分を「身売り」して十歳まで旅芸人の一座で生活をしていたそうだ。
ハッキリとは言わないが、その日の食べる物や寝る所に困る時もあったらしい。
同じ頃のあたしは、男爵家の娘として衣食住に不自由した事は無い。
両親は普段のあたしの世話は使用人に任せていて、あたしの顔を見るのは一日に一回有るか無いかぐらいだった。
あたしは自分の両親が嫌いだが、五歳でご両親を亡くしたカオルさんに比べれば、とても恵まれているのは分かっている。
それでも、彼女を羨ましく感じる。
彼女は、あの大賢者さまのお弟子さんなのだ。
学校の歴史の時間に習ったが、歴代の大賢者さまのお弟子さんたちで、大賢者の地位を継承した人はわずかだそうだ。
では、大賢者になれなかったお弟子さんたちは、どうなるのか?
大賢者になれたお弟子に比べれば劣るけれども、高い能力を持っているのは保証されているので、各国政府からスカウトされて高い地位に付くの事が多い。
カオルさんも次の大賢者さまに成れなかったとしても、彼女の祖国の東方諸島国で重要な役職に付くのだろう。
あたしは学園に入学したけれども、将来は結局両親に勧められた結婚をして、どこにでもいる「平凡な貴族の奥さま」に成る可能性が高い。
だから、あたしの行けない所に行けるカオルさんが羨ましくてたまらない。
そんな後ろ向きな事を考えながら、あたしはカオルさんの描いている絵を見た。
えっ!?何?これ?
これがカオルさんの描いた絵なの?
「あの……、カオルさん。今の授業では前衛絵画を描くのが目的じゃなくて、課題の物を見たまま正確に描くのが目的で……」
カオルさんは顔をしかめながら答えた。
「前衛絵画?ああ、最近大陸で起こった新しい絵画の流派で、見たままを描くのではなく、心に残った印象を描く、一部の画家が始めた芸術ですね。そうではなくて、わたしは見たままを描いているつもりです」
「えっ!?これが見たままなんですか?」
カオルさんは笑った。
「小さい子供が描いたみたいに下手な絵でしょ?師匠からも『おまえには絵の才能はまったく無い』と言われましたよ。こうして下手な絵を人に見せるのは恥ずかしいのですけど、今日は覚悟して来ました」
「完璧」に見えたカオルさんにも、あたしより劣る所があったんだ。
あたしの心の中のモヤモヤは解消された。
アンの部屋のドアが外からノックされた。
「アンさん。いますか?」
カオルの声だった。
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