第十九話 アン・トニアが日記を書き始めた理由
平良薫ことカオル・タイラは、自室で東方諸島国語での独り言を続けていた。
「考えてみれば旅芸人をやっている時は、同じ場所にいるのは数日ぐらいだったからな。僕を男だと知っている一座の人以外とは個人的に親しくなった人はいなかったから、男だとはバレなかったのかもしれない。でも、ここでは高等部を卒業するまで三年間は、この女子寮で女子生徒の振りをしなければならないからな。もっと気をつけなきゃ」
カオルは制服を脱ぐと、ベッドに入った。
「しかし、これはエレノアさんたちには話せなかったけど、関白さまは僕を女の子だとしばらく思っていて、最初から僕を男の子だと見抜いていた師匠にそれを指摘されて残念がっていたな。『もう少し成長したら、ワシの側室に迎えるつもりだったのに』なんて、怒らせなかったのは良かったけど……さて、寝よう」
カオルは目を閉じると、眠りに就いた。
星明かりのもとで、夜の間は静かな時間が流れていった。
朝日が昇ると、寮の中はにぎやかになった。
大勢の女子生徒たちが自室で朝の支度をして、一階の食堂で朝食を食べている。
朝食を済ませた女子生徒たちは寮の正面玄関から出て、寮の前にある馬車鉄道の停留所に向かった。
馬車鉄道に乗って、授業が行われる校舎に向かうのだ。
朝のラッシュアワーは、馬車鉄道は数十台の鉄道馬車がひっきりなしに走っている。
女子生徒たちが馬車鉄道で校舎に向かうと、寮とその周囲はまた静かになった。
日が高く昇り、西に傾いて夕日になるまで、静かな時間は続いた。
授業を終えた女子生徒たちが帰って来ると、また寮はにぎやかになった。
カオル、エレノア、ユリア、アンの四人はお喋りをしながら寮の正面玄関から中に入った。
もし、その四人の様子を画家に描かせたとしたら、画家は絵に「仲良き少女たち」とでも題名を付けるだらう。
四人は寮に入ると、別れて、それぞれの自室に向かった。
その一人であるアン・トニアは自室に入ると、鞄から買ったばかりの新品の日記帳を取り出した。
アンは机に向かうと日記を書き始めた。
あたしアン・トニアは、いよいよ本格的に日記を書くことにした。
今まで何度も書こうとしたのだけど、途中でやめることになってしまった。
なぜなら、母があたしが留守の時にあたしの部屋に勝手に入って、どこに隠しても日記帳を必ず見つけだすからだ。
そして、日記帳にあたしが書いたことで、お説教するのだ。
あたしが「人の日記を勝手に読むなんて信じられない!」と抗議しても、母は「母親として娘のことはすべて知っておく必要があります」と言って平然としているのだ。
本音の書けない日記なんて書く意味が無いので、諦めていた。
でも、母はここにはいない。
大陸中央学園まであたしに付き添ってきて、さらに、この学園のどこかに屋敷を借りて、あたしの側にいようとしたが、それはできなかった。
学園では生徒の自立を促すために全寮制にしており、親などの保護者が学園内住むのは禁止ではないが、「好ましくない」としているからだ。
エレノアさんの場合は叔父のセオドア・フランクリンが学園長だけど、学園長はエレノアさんの保護者ではないから構わないのだ。
母はそれでも何とか学園に居座ろうとしたが、「そうすれば帝国貴族として我がトニア家の恥になる」と言ったらようやく帰って行った。
母の判断基準はいつも「帝国貴族としての恥になるかならないか」なのだ。
学園に居座ろうとしたのも、あたしを心配したわけではなく、あたしがトニア家にとって恥になるようなことをしないか監視するためなのだ。
ずっと、あたしに過剰に干渉する母が嫌いだった。
あたしが大陸中央学園を受験したのは、そんな母から離れるためだった。
父の方は娘であるあたしに対しては無関心だ。
父が関心を持っているのは、二人の息子、あたしの兄たちだ。
一番上の兄は帝都インペラトールポリスにある内務省で官僚としてエリートコースを進んでいるし、二番目の兄は帝都の帝立大学に通学している。
二人ともたまには家に手紙をよこすが、手紙は父に宛てた物で、内容はいつも帝都で遊ぶために必要なお金を送ってくれという物だ。
二人の兄たちも、あたしに対しては無関心で、家にいたときも優しくされたことも、イジメられたこともない。
あたしはそんな家族が嫌いで、それなのに何もできないでいる自分自身も嫌いでいる。
大陸中央学園の入学を目指したのは、そんな自分を少しでも変えられるかもしれないと思ったからだ。
学園を受験するまでが大変だった。
父も母も「女には学問は必要ない」という考えの人で、中学卒業後はあたしを花嫁修業のための学校に入れようとしていたからだ。
中学の担任の先生に協力してもらって、「お嬢さまは、大陸中央学園に充分合格できるラインにいます。合格なされば、十年ぶりのこの地方での合格者ですから、大変な名誉になります」と、両親を説得してもらったのだ。
「名誉」という言葉に弱い両親は、あたしの学園受験を認めてくれた。
実際には、あたしの学力は合格ラインにはギリギリだったから、必死になって勉強した。
受験本番では、あたしの大陸中央語の発音が酷いので、あたしの審査をした試験官がかなり難しい顔をしていたので、合格通知が来るまでは不安な時間を過ごしていた。
この学園に入学して何よりも嬉しいのは、ユリアさん、エレノアさん、カオルさんの三人と友達になれたことだ。
ユリアさんとエレノアさんは、大陸の上流階級の社交界では、男女ともに人気のあるスターで、あたしはパーティーでは遠くから眺めるだけで、話し掛ける勇気が無かった。
それなのに、入学初日でもうお二人と親しくなることができたのだ。
カオルさんも大賢者さまの弟子なので凄い人だ。
彼女のお陰で、酷かったあたしの大陸中央語の発音が修正できた。
彼女たち三人の側にいれば、あたしも変われるかもしれない。
前置きはこの位にして、今日の授業初日のことについて書こう。
あたしはユリアさんたちと四人で寮の食堂で朝食を摂り、一緒の鉄道馬車で校舎に向かった。
一年生用の校舎に入ったところにある掲示板では、クラス割りのリストが張り出されていた。
「わたしたち四人は、同じ一年A組ですね」
カオルさんが素早くあたしたちの名前をリストの中から見つけた。
「嬉しいです!これで授業でもみなさんと一緒ですね!」
あたしが喜んで、ユリアさんとエレノアさんの方を向くと、お二人はその美しい顔にふさわしくない表情をしていた。
あたしは文章力に自信が無いので、変な例えかもしれないが、嫌いな食べ物を無理矢理口の中に入れて、飲み込みもせずに、舌の上にのせたまま嫌いな味を我慢しなければならないような顔になっている。
お二人に、どうしたのか尋ねようとしたところで、カオルさんの声がした。
「サリオン・カエサル……、この男子生徒は名字が『カエサル』ですから、ひょっとして、皇族ですか?」
カオルさんは一年A組のリストの男子の欄に目を向けていた。
そこには確かに「サリオン・カエサル」という名前があった。
「カオルさん。当然知っていると思うけど、帝国では皇族以外が『カエサル』の名字を名乗るのは禁止されているのよ。連邦の方では法律上は問題無いけど、連邦人が好き好んで、帝国皇族の名字を名乗ることはまず無いわ」
カオルさんは、あたしの言葉にうなづいた。
「皇族で『サリオン』という名前の人は他にいるのですか?」
カオルさんがあたしに質問してくるので、意外に思った。
「カオルさんは、あたしよりずっと物知りよね?何で、こんな事を知らないの?」
カオルさんは笑った。
「ああ、これは大陸では常識な事なんですね。わたしは大陸の事を師匠から教えてもらったり、師匠の蔵書を読んだりして学びました。でも、『常識』というのは誰かから教わるわけではなく、その社会で生活していて自然に身に付くものです。だから、わたしには『大陸における一般常識』が知識から抜けているところがあるんです」
あたしよりはるかに物知りなカオルさんに物を教えるのは嬉しいので、あたしは喜んで質問に答えた。
「皇族では男女を問わず。新しく生まれた赤ちゃんに名前を付ける時には、生存している他の皇族と准皇族や貴族と同名にならないように名前を付けるのよ。だから、同じ名前の皇族はいないわ」
「帝国の一般市民に偶然同名の人がいた場合は、どうなるんですか?」
「その場合は問題は無いわ。でも、皇族の名前は過去の皇族の名前を付けることが多いから、貴族も一般市民もその名前を付けることは避けるわ。『サリオン』という名前は、初代皇帝の元々は息子の名前で、今まで何度か皇族男子に名付けられていて、今の『サリオン』は十何代目かになるそうよ」
「正確には十五代目だ。だから、名前は正確に言うと『サリオン十五世』だ」
ユリアさんが会話に加わった。
「ここで言っておいた方が良いと思うから、言うけど、ボクもエレノアもサリオンのことが嫌いなんだ。リストの中にサリオンの名前を見つけた時は、ボクたちは呆然としてしまったよ。同じクラスになるなら、そのことで、アンさんやカオルさんにも迷惑を掛けてしまうかもしれない」
あたしが、ユリアさんとエレノアさんが何故「サリオンさん」を嫌っているのか質問する前に、男の声が割り込んできた。
「よう!ユリア!エレノア!久し振りだな!同じクラスになれたようだな!嬉しいぜ!」
声の方をみると、長身に銀髪に銀色の目をした男子生徒がいた。
パッと見た印象はユリアさんにどことなく似ているが、ユリアさんが上品な感じならば、この男子生徒は良く言えば「ワイルド」、悪く言えば「粗暴」な感じがする。
間違いない!帝都での皇帝陛下主催のパーティーで、遠目だけど見たことのある皇族の「サリオン・カエサル」さんだ!
「やあ、サリオン十五世。本当に久し振りだね。できればボクは永遠に君とは再会したくなかったんだが、神さまは意地悪らしい」
こんな冷たい声をユリアさんが出せるとは思わなかった。
周囲が冷たい雰囲気になった。
あたしはどうしようもなく、立ち尽くしていた。
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