第十話 アン・トニアが流暢に大陸中央語を話せるようになった理由
アン・トニアさんは言葉を発した後、恥ずかしそうに顔を赤くしてうつむいて黙り込んでしまった。
「アンさん。とにかく、ここに座ってくれ」
ユリアが用意した椅子に、アンさんは座った。
何となく、話を続けるタイミングを失ってしまって、私たちは口を開くことができなかった。
平良薫ことカオル・タイラは、読んでいたエレノア・フランクリンの日記から顔を上げると、エレノアの方に視線を向けた。
「エレノアさん。アンさんが部屋に入って来た時の感想書いてありますけど、これはちょっと酷いんじゃ……」
エレノアはうなづいた。
「分かっているわ。『アンさんの口から出たのは、とても訛りの酷い大陸中央語だった。聞いている私の方が恥ずかしくなるような、酷い発音だった。小柄な体に可愛い顔立ちをしていて、それだけならお友達になりたくなるような女の子だけど、声がすべてを台無しにしていた』と私はその時思ったし、その通りに日記に書いたわ」
「わたしに読ませるつもりだったのでしたら、このような事は書かなくても……」
「それは駄目!私はカオルさんに私の嫌なところも見て欲しいの!」
エレノアはきっぱりと言った。
「私は自分で言うのも何だけど、機械連邦の名家であるフランクリン家の娘だから、社交界での『お友達』は多いわ」
エレノアは遠くを見る目になって、ため息をついた。
「でも、ほとんどの『お友達』は当たり障りの無い会話を交わして、作り笑いを向けるだけの存在なのよ。本音を言うことのできる『本当のお友達』は、今まではユリア一人だけだったわ」
エレノアはカオルに真剣な目を向けた。
「カオルさん。あなたには私の『本当のお友達』になって欲しいの」
(えらく僕はエレノアさんに気に入られたものだな。この女子寮の前で再会した時には、僕が『エレノアさんの好みの可愛い女の子』を演じたから、気に入られたみたいだけど、今はそれ以上の理由があるように感じる)
「あの、エレノアさんが、わたしをそんなに気に入ってくれている理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「それは日記に書いてあるわ。続きを読んでちょうだい」
カオルは日記に目を戻した。
しばらく顔を伏せていたアンさんは、顔を上げてカオルさんに向けた。
「アダジはガオルざんに誤りだいゴトが……」
相変わらず酷い発音の大陸中央語だった。
話しているアンさん自身も恥ずかしいのだろう。
また、顔を赤くして、うつむいて黙り込んでしまった。
ユリアが帝国語でアンさんに何か話し掛けた。
アンさんはそれに帝国語で答えた。
「なるほどね。やはりそうか」
ユリアは納得して、うなづいた。
「どういうことなの?」
私は帝国語が分からないので、ユリアに質問した。
ユリアは大陸中央語で答えてくれた。
「聞いての通り、アンさんは大陸中央語の発音が苦手なんだ。大陸中央語の文字の読み書きはできるし、聞き取ることもできるけど、発音が上手くできないんだ」
私は疑問を口にした。
「でも、この学園の入学資格の一つが『大陸中央語を日常会話に支障が無い程度に話せること』でしょ?それはどうしたの?」
「発音は酷いけど、一応会話は通じるからね。それで合格したそうだ。だけど、入学試験の時に他の受験生に馬鹿にされたらしい。それで大陸中央語を口にするのが恥ずかしいそうだ」
「それで、アンさんは何の用で私の部屋に来たの?」
楽しそうな笑い声が聞こえた。
笑い声の方を見ると、笑っているのはアンさんだった。
カオルさんが帝国語でアンさんに話し掛けていた。
もちろん、私には話の内容は分からなかった。
「さすが、カオルくんだな」
ユリアが感心していた。
「カオルくんは、アンさんの故郷の帝国南西部沿岸地帯の事を話題にしているんだ。ボクも知らないアンさんの故郷の名所や名産について、カオルくんはよく知っているね。アンさんはリラックスすることができたようだ」
楽しそうに会話をするカオルさんとアンさんを見て、私の心の中で嫌な気持ちが湧いた。
アンさんをあらためて見ると、小柄な体に茶色い目、腰まで伸ばした長い茶色い髪をしている。
可愛い顔立ちをしているが、カオルさんがどこか意志の強さを感じられる顔をしているのに対して弱々しく感じる。
カオルさんと出会う前に、アンさんと出会っていれば、彼女と親しくなりたいと思ったのかもしれないが、今はそうは思わない。
男爵夫人のこともあって第一印象は悪かったのだが、大陸中央語が下手なことでますます印象が悪くなった。
(何よ!大陸中央語がまともに話せないから、帝国語でカオルさんと話をするなんて!帝国語ができない私が、話に加われないじゃない!カオルさんを独占するなんて!アンさん!あなたは何様のつもりよ!)
私の中で嫌な気持ちが、ますます膨れるのを感じた。
カオルさんが椅子から立ち上がった。
「すいません。わたしの部屋に取りに行きたい物があるので、一旦失礼します」
カオルさんは部屋から出ていった。
「カオルさんは、何を取りに行ったのかしら?」
私はユリアに質問した。
「何か、アンさんにプレゼントしたい物があるらしい」
(プレゼント!プレゼントですって!?私はまだカオルさんから何も貰っていないのに!)
アンさんが羨ましくて妬ましくて堪らなかった。
それを態度に出すほど、私は馬鹿ではないので、作り笑いを浮かべていた。
戻ってきたカオルさんは、片手に小さな袋を持っていた。
袋からカオルさんが取り出したのは一粒のキャンディだった。
それを渡されたアンさんは、口に入れた途端に大声を出した。
「おいしい!このキャンディ、どこで売っているんですか?」
アンさんの口から出たのは、訛りのほとんど無い流暢な大陸中央語だった。
アンさんが急に流暢な大陸中央語を話したことに私は驚いたが、彼女自身も驚いたのだろう、アンさんは驚いた表情のまま固まってしまった。
「カオルくん。そのキャンディに仕掛けがあるみたいだけど?」
ユリアの質問に、カオルさんは楽しそうな笑顔で答えた。
「僕の師匠の魔力が込められているキャンディで、『音感キャンディ』です。元々は音楽をやっている人のために作られた物です」
「それは、どういう物なんだい?」
「耳で音楽を聞いて理解できるのに、自分で歌ったり楽器を演奏したりするのは下手な人がいますよね。その人がこのキャンディを舐めると、耳で覚えている通りの歌が歌えて、楽器が演奏できるんです」
「なるほど、それでアンさんは流暢な大陸中央語を話せるようになったわけだ」
「このキャンディには、舐めた人の知らない外国語を話せるようにするような機能はありません。あくまでも、本人が耳で覚えた言葉しか話せるようにはなりません。流暢な大陸中央語が話せるようになったのは、アンさんの実力です」
ユリアに顔を向けて質問に答えていたカオルさんは、今度はアンさんに顔を向けた。
「アンさん。そのキャンディの効き目は丸一日で切れますが、切れるまで大陸中央語を話していれば、コツを覚えるはずです。そうすればキャンディ無しでも流暢に話せるようになるはずです」
「ありがとうございます。カオルさん。とても嬉しいです」
心の底から嬉しそうにカオルさんにお礼を言うアンさんを見て、私はさっきまでの自分を思い出した。
醜い!本当に私は、とても醜い!
アンさんは困っていたのに、私は内心で文句を言っているだけだった。
カオルさんは、困っているアンさんの力になってあげようとしていたのに……。
そんな私の内心を知らずに、カオルさんとアンさんは言葉を交わしていた。
「ちゃんとした大陸中央語が話せるようになったので、あらためて謝ります。カオルさん。列車ではあたしの母が大変失礼なことをしました。本当に申し訳ありませんでした」
「頭を下げることはありませんよ。全然気にしていませんから。それより、もう一粒音感キャンディは、どうですか?このキャンディは味も良いですから」
「はい、こんなにおいしいキャンディ初めてです!」
「カオルくん。ボクにも、そのキャンディ貰えないか?」
ユリアが受け取ったキャンディを口の中に入れた。
「本当においしいな!エレノアもどうだい?」
私は首を横に振った。
「ううん。私にはそのキャンディを食べる資格は無いわ」
カオルさんの人としての行いの綺麗さに、私は彼女に対する尊敬の気持ちが浮かぶと同時に、ますます彼女と本当のお友達になりたくなった。
カオルは日記からエレノアに視線を向けた。
「あの時のエレノアさんの言葉の意味が分かりませんでしたが、そういう意味だったんですか」
「そうよ。私のことが嫌いになった?」
「嫌いになんかなれませんよ。エレノアさんは正直に自分の嫌な所を見せてくれたんですから」
「ありがとう。カオルさん」
エレノアは安心した笑顔になった。
(僕はエレノアさんたちに『性別』という大きな嘘をついているんだからな。それに比べれば、どうということはない)
カオルは自分が今のような状況になった原因を思い出した。
(……そもそも、僕が性別を偽ることになった原因は、エレノアさんの叔父さんの学園長にあるんだけど、エレノアさん自身には責任は無いからな)
「あっ、カオルさん話は変わるのだけど、アンさんのカオルさんと同室になりたいというお願い、何で聞いてあげなかったの?」
カオルは机の上に置いてある自分の日記を見た。
それに書いてある出来事をカオルは脳裏に浮かべた。
僕、平良薫ことカオル・タイラがアンさんに、音感キャンディを上げた後、僕とエレノアさん、ユリアさんとアンさんの四人でお喋りをした。
話が弾んで、夕食の時間になった。
寮の一階の食堂で同じテーブルで食事をしながら、お喋りを続けた。
「あの……、カオルさん。お願いがあるんですけど……」
アンさんがおずおずという感じで、私に話し掛けてきた。
「わたしにできることかしら?」
「と言うより、カオルさんとしかできないことです。あたしと同室になってくださいませんか?」
僕は思わず固まってしまった。
当たり前だが、僕は女の子と同室になることはできない。
女の子と同室になったら、僕が男だと確実にばれてしまうからだ。
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