三、剣舞
夏至前日の夕日が地平線に消えると同時に、夏至祭は始まる。戸外に並べられた机には、香辛料がふんだんに使われた料理が所狭しと置かれていた。邑の人間は老人や赤子に至るまで土壁の家から出て、邑に立ち込める熱気に高揚している。まだ陽光の名残があるが、間もなく随所に篝火が焚かれて闇を照らすだろう。
鼻孔をくすぐる香りに食欲をそそられるが、ラクシオの食事は剣舞の後だ。いつもより少しだけ上質な衣装に香辛料を付けないように気を遣いつつ、片手に剣を持ち、もう片方の手でコーラルの細すぎる手を引いて人込みを抜けた。はぐれないようにするためだ。なかなか図太いというか、ラクシオは邑長から訊いた南邑の悲劇など記憶の片隅に追いやり、祭りの空気を存分に楽しんでいた。
しかし、少し困ってもいた。
「まいったなあ。コーラル、俺が迎えに来るまでここにいられるかい?」
剣舞に参加する間、コーラルをどこかで待たせておかなければならないのだ。もちろんコーラルとて十歳にはなっているので、棒付き飴でも握らせておけばしばらくの間は待っていられるだろうが。ラクシオに連れられている事情が事情なので憚られる。ラクシオの育て親たるデイアは祭りだというのにさっさと床に入ってしまっている。もともと偏屈な老婆ではあるが、去年までは欠かさず祭りに参加していたのだ。よりによってラクシオの晴れ舞台が始まる今年に限って、体の調子でも悪いのだろうか。
コーラルはこくりと頷いた癖に、ラクシオの衣の裾を掴んだ。およそ一日で、コーラルは随分ラクシオに懐いた。離れるのは心細いらしい。
「剣舞が終わるまで、少しだけだから、ね」
先ほど失敬した砂糖菓子の包みと棒付き飴をコーラルに握らせて、そのぼさぼさの頭をぽんと叩いた。レインが神殿に篭る前に、整えてもらえばよかった。夏至祭の日には着飾るものなのだ。
心細そうな顔するコーラルがかわいそうではあったが、衣が解放されたラクシオは駆け足で仲間たちが集まっている一角へ駆け足で向かった。
若者たちは一様に剣を帯び、耳から耳へ、目のすぐ下に赤い横線を引く伝統的な化粧を済ませていた。剣も傷跡のような化粧も、魔を払う呪いが込められている。
「おいラクシオ、遅いぞ!」
「すみません」
剣舞を取り仕切る青年には素直に謝罪し、ラクシオは友達のキオリから赤い顔料の入った小皿を受け取った。それを指で掬い、他の若者と同じように顔に線を引く。あまり精巧さは問われないので、自分でやるものなのだ。この顔料はなんでも、邑の祈祷師が呪力を込めた有難い代物らしいが、元がオアシスの反対側でとれるただの赤土だと知っているラクシオは、その手の話をあまり信じていなかった。この性格は育て親たるデイアの影響を色濃く受けた結果なのだが、当のラクシオは気付いていない。
指に残った顔料は伝統に従って、衣の左裾で拭う。帯に下げた剣に異常はない。厄払い云々(うんぬん)はともかく、剣を振り回せるのは楽しみなラクシオだった。
薄赤かった西の空も紫になり、東を見ればすでに深い闇が広がっていた。それを眺めて不意に、“影”もこんな色をしているのだろうかと思った。だとしたらコーラルは、一人ぼっちで辛かろうに。
仕切り役の青年が始まりの合図を高々と告げる。集まった若者たちが声を揃えてそれに応え、所定の位置に付いて剣を抜き放つ。何十もの青銅の刀身が篝火を反射し、赤い煌めきに邑の子供や娘たちの心を奪う。“一の舞い”が始まる。一糸乱れぬ振り下ろし、横薙ぎ。流れるようにつながれる一連の動きは、水の流れのようにしなやかで、かつ炎のように力強い。“二の舞”で合わせて叩かれる太鼓が徐々に速くなり、剣舞も難しさを増す。ラクシオは不思議な高揚感を感じた。握った剣の重さが消え、それが腕の一部であるかのように思われたのだ。激しい移動を伴う“三の舞い”が始まるころには、ラクシオは何も考えられなくなっていた。胸の奥に燃え上がる炎と頬を撫でる風の冷たさ以外、一切が非現実的だった。
太鼓が一つ、大きく叩かれる。若者たちはピタリと動きを止め、大きな輪を作ると跪いた。
輪の中心に、邑長が立つ。この場で邑長は剣の扱いに優れる若者を二人選ぶ。選ばれた二人が輪の中に立ち、最後の剣舞――“終焉の舞い”を舞うのだ。
緊張と期待に空気が張り詰める。
「ユージン、此処へ」
「はっ」
仕切り役の青年が立ち上がり、剣の鞘を傍の友人に預けると輪の中心へ歩み出た。周囲から歓声が上がるが、当のユージンは誇りと緊迫の混ざった何とも言いがたい表情をしていた。この“終焉の舞い”はレインの務める“雨招き”と同じく祭りの中核をなすのだ。
もう一人は誰だろうか、とラクシオは他人事のように考えていた。ところが邑長は一瞬ためらった後深く頷き、二人目の名を告げる。
「ラクシオ、此処へ」
「へ?」
まさか自分が選ばれるなど思ってもみなかったラクシオは、間の抜けた返事をして近くにいたキオリに肘鉄砲を食らった。それでも信じられないでいると、ひそひそ声で
「ほらラクシオ、行って来いよ」
と言われる。
「俺?」
「他にラクシオがいたか?」
言うなりキオリは、ラクシオの鞘をひったくった。
輪の中心へ向かう短いはずの距離が、異様に長く感じた。なぜお前が、と言いたげな視線を背中にひしひしと感じる。そんなことラクシオだって訊きたい。最年少者が“終焉の舞い”を務めるなど、聞いたことがない。
(“終焉の舞い”の練習なんかしたことないぞ!)
内心は大慌てだが、周囲の視線が痛すぎて取り乱すことができない。同情してくれているのはユージンだけだ。
邑長の前にユージンが跪く。ラクシオもとりあえずその斜め後ろで跪いた。
「“終焉の舞い手”よ。掟に従い、私は基方らの願いを尋ねよう。無事儀式を終えし暁には、邑の益を損なわぬ限り叶えようぞ」
「私ユージンは、スーニアとの婚姻を望みます」
輪の外が俄かに騒がしくなった。おそらくスーニアがひやかされているのだろう。
「ラクシオ、基方は何を望む」
「わ、私ラクシオは……」
ここでレインをくださいとか言ったら親馬鹿の邑長に切り殺されるよな、などと冗談も浮かんだが、これと言って願い事などない。
「……恵みの雨の後、家の修復のための人手をお貸し頂きたい」
元々この場では、軽い願い事しか言わない習慣だ。たとえ“終焉の舞い”を舞わずともユージンはスーニアと結婚しただろうし、ラクシオは泥壁塗りの負担が増えるだけだ。
「よかろう。では、“終焉の舞い”を始めよ」
そう言って邑長は下がっていった。
困っているのはラクシオだけだ。“終焉の舞い”は見るだけなら毎年見ていたから分かるが、一から三の舞いに比べて格段に難しいのだ。