二、灼熱の邑にて
久々の更新になりましたが、少し短めです。
南邑からこの中邑までは、大人の足で二日ほどの距離しかない。そんなに近くで恐ろしいことが起こったのに、このまま純粋に夏至祭を楽しむことなど、ラクシオには出来そうになかった。
しかし、他に出来ることも無い。
とりあえず座ったまま宙を見詰める少女の前にしゃがみ、
「俺、ラクシオっていうんだ。君は?」
と聞いてみる。少女は一拍置いてラクシオと目を合わせ、口を開いた。
しかし、パクパク動かす口から、声は出ない。
「参ったなぁ……。字は書けるかい?」
文字の読み書きができるのは、各邑の長家族だけだ。少女の身なりはラクシオと似たようなものなので、南邑の長の娘ではなさそうだ。たとえ少女が字を書けたとしても、ラクシオには読めないが。
ラクシオの予想通り、少女はゆっくり首を横に振った。では、名前を知る術はない。
「それじゃあ、適当に名前を付けさせてもらうよ」
ラクシオの視界の端に、色とりどりの布仕切りが写った。そこには、異国情緒漂う模様が染められている。その中の一枚は、“海”というものを模したものだとレインに聞いたことがある。
名前はその布から借りることにした。
「じゃあ、本当の名前が分かるまでは“コーラル”でいいかな? 異国の“海”ってところで採れる宝石の名前だよ」
少女は、はっきりと頷いてくれた。気に入ってもらえたようだ。
無表情のままではあるが、だんだんと意思の疎通は図りやすくなってきている。そうと分かれば、ラクシオがぞっとする理由は無い。この少女は感情が凍っているだけで、消えている訳ではないのだ。
「何歳?」
この問いにははっきりと、両手を広げてラクシオに示してくれた。十だ。
他に聞くことが思い浮かばなかったので、ラクシオは立ち上がって少女に手を差し伸べた。
「おいでコーラル。俺の家に行けばゆっくり休めるよ」
コーラルはややためらったが、おずおずとラクシオの手を取った。
コーラルは南邑が“影”の襲撃に遭って以来何も食べていなかったらしく、ラクシオの家までの短い距離も歩けなかった。仕方がないのでラクシオは、途中からコーラルを背負って歩いた。
妹がいるのはこんな感じなのだろうか、と思うころに見慣れた土煉瓦が現れたので、背中のコーラルに「着いたよ」と声をかけた。返事はない。
入り口の掛布を潜ると、冷えた土の香りが鼻腔をくすぐった。邑長の木の家は憧れだが、土の我が家は落ち着く。
家の奥に敷いた筵の上で、一人の老女が横たわっている。老女はラクシオを見つけると皺だらけの顔をわずかに驚かせ、気だるそうに体を起こした。
「ラクシオ、邑長殿に叱られるよ」
「別に逃げてきたんじゃないよ……。詳しくは話せないんだけど、邑長からこの子を頼まれてるんだ」
コーラルを降ろそうとしたのだが、ラクシオが姿勢を低くしても背の少女は動かない。
「あれ?」
「おや、その娘っ子は眠ってしまったようだねぇ。どれ、こっちに寝かせてあげよう」
顔をくしゃくしゃにして愉快そうに笑うと、老女は筵の上から退いた。
この老女は、オアシスに捨てられていたラクシオを拾い、十五年間育ててくれた人だ。幼いころに天涯孤独の身になり、夫も若くして亡くした苦労人で、気難しいところはあるが心根は優しい。
「祭りが終わるまで面倒を見ておけってさ」
「あい、分かった。それじゃあ、余分の魚とティパ(トウモロコシの粉を練って焼いたもの)を貰ってこようかね。邑長は気前がよくないが、それくらいはしてくれるだろう」
――*――*――
デイアというのがラクシオの育て親の名なのだが、デイアは足が悪い。邑長の館までティパを貰いに行くのはラクシオの仕事になった。これでは、邑長の雑用と何も変わらない。
今度こそ靴を履いたとはいえ、太陽は真南にあった。砂漠の民はこんな時刻に歩き回るものではない。コーラルを背負っていないだけ楽だったが、館に着くころには随分汗をかいていた。
先程入った母屋ではなく、オアシスに近い離れに入る。魔除けの仕草も忘れなかったが、効果なんてないんだろうな、と捻くれた感想を抱いた。
離れには調理場がある。その中では大人数の女性が祭りに向けて準備をしていた。彼女たちの指揮を取るのもやはり女性で、レインによく似た美しい婦人だ。調理場の中央に立っててきぱきと指示を出している。
婦人は調理場の入り口で躊躇うラクシオに気付いたらしく、傍の女性になにやら声をかけると出てきてくれた。
料理の熱と蒸気が立ち込める調理場は外に負け劣らず暑かったようで、婦人は額の汗を手の甲で拭った。ラクシオの傍まで来ると外から吹き込む微かな風に一息つき、ラクシオに微笑みかける。
「ラクシオ、夫から話は聞いているわ。今ティパと果汁を用意させているから、少し待っていてね」
「はい」
母を知らないラクシオにとって、レインの母たるこの女性は、大きな存在だ。何かと厳しいデイアとは正反対で、甘やかすともいえるほど可愛がってくれていた。
椀に入れてもらったラクシオ分の果汁を飲み干し、籠に入れられたティパと革袋の果汁をしっかりと持ち直す。にこにこ微笑む婦人に丁寧にお礼を言うと、ラクシオはげんなりするほど暑い外に足を踏み出した。家ではやせっぽちの少女が待っている。
これであの子が、少しくらいは元気になってくれるといい。明日は夏至祭なのだから、辛いことを一時でも忘れ、楽しめるようにしてあげたい。
項に照りつける日差しに耐え、ラクシオは自然と早足になっていた。
邑の外からラクシオを窺う、黒い“影”に気付かないまま。
この小説は王道ファンタジーですから、先の展開は読みやすいです。